西洋思想と東洋思想の接点はインドにあり

2017年12月12日(2018年8月15日若干修正) 蓮 文句 これもまた、当人の全く勝手な見解です。ことの始まりはDaniel Golemanの本「The Meditative Mind: The Varieties of Meditative Experience」にあります。Golemanはこの本の中で、瞑想には大きく2種類あると人から教わったと書いています。『1』の瞑想と『0』の瞑想があるというのです。さて、当人の解釈ですが、『1』の瞑想では、瞑想者は「神」その他の超常現象等に同化することを目指します。『0』の瞑想では、瞑想者の直接体験に基づき、瞑想者の自我が環境の中の一部として「解体」することを目指します。解体というと誤解を招きやすいのですが、自我が無くなるくなるわけではなく、普通自我と思っているものが環境の中での連鎖反応の一断面に過ぎないという見方です。『1』の瞑想の代表的なものはヨガの瞑想で、『0』の瞑想の代表的なものは仏教の瞑想でしょう。当然、ヨガも仏教も(広義の)インドが発祥の地であります。そして、当人が言いたいことは、瞑想における『1』と『0』の違いが西洋思想と東洋思想の違いを反映するということです。ちなみに、この対立は、よく言われる西洋と東洋の境界とは異なります。つまり、前者はキリスト・ユダヤ・イスラム教(一神教)に基づき後者はヒンドゥー(多神教)・仏教(無神教)に基づくという考え方とは違うということです。 まず、少し注釈を加えたいと思います。瞑想に関する手法に関しては、ヨガも仏教も多くの共通点があります。例えば、両者とも呼吸を使うのが最も一般的な方法です。また、両者とも精神集中および洞察・気づき両方の側面を重視します。瞑想中に体験する精神状態にも類似点が多く存在します。そのため、多くの人は両者の瞑想を混同しがちです。それでも、上に書いた通り目標地点に究極の違いがあるのです。同じ地域で発展し類似の形態を取りながら、どうしてこのように極端に違うゴールを目指すのか興味深いと思います。 歴史的に言えば、ヨガはヒンドゥー教(あるいはその前身)を背景に発達しました。多神教という点ではキリスト・ユダヤ・イスラム教と異なりますが、神を崇拝する点では何の相違もありません。そして、この神(あるいは神々)の崇拝の極致は自分が神になることです。この接近を限りなく求めるのが『1』の瞑想の根源と思われます。また後で述べますが、神が絡む限り必ず「助っ人」が登場することも見逃せません。これらの助っ人は、宗教家のみならず、実業家や政治家も出てきます。 仏教は、釈尊(ブッダ)がヨガ・ヒンドゥー教を含む当時の宗教・思想の問題点を打破するために始めたものです。神を祀るのではなく、現実を直接見極めることにより煩悩から解放されることを目指します。すなわち、個々人の意志・実行が強調されています。師の役割を否定するわけではありませんが、師の言っていることが正しいかどうか判断するのは個々人の責任とされています。この点で、西洋宗教でみられるような助っ人の影響は弱いと言えます。なお、仏教は釈尊が始めたものですが、同様の思想・姿勢はすでにあったものと考えられます。これは、中国他のアジア地域に共通する観点・姿勢があったことからも伺えます。 ところで、現代インド社会は大方西洋的であると言えます。これは、インド北部の人種がコーカソイドであり、言語がインド・ヨーロッパ語族に属することと無関係ではないと思います。仏教が根付かなかった理由の一つでもあるでしょう。それに対し、近隣のネパール、ブータン、ミャンマーとインドから東方に離れるにつれて東洋色が濃くなります。それにしても、世界が小さくなりどんどん現代化するにつれ、かつて東洋色が濃かった地域も西洋化してきています。世界中が西洋化してきていると言っても過言ではありません。 また、世界が現代化するにつれ、人間の使う「道具」が強力になってきています。火、言語、農業、重機、兵器、コンピュータ、インターネット、などなど。これらの道具は西洋思想の神々の助っ人たちにとっては必需品となっています。また、個々人にとって、神々に近づく手っ取り早い道具は「富」や名声です。これもまた、神々の助っ人にとってはコントロールしやすい道具のひとつです。神々を崇拝する人々にとって、現代社会は格好の領土なのです。 これに対し、当人の言う東洋思想の根底には、神々の助っ人に頼らず自分の直接体験を重視する傾向があります。個々人にとっても、富や名声より重要なものが見えるはずです。しかし、このような傾向は必ずしも現代化に即しているとは言えません。いや、弊害とさえなりかねません。世界中で巻き起こっている経済競争のなかで東洋思想が有利な訳がないのです。世界中の西洋化は免れないでしょう。問題の一つは西洋化は永遠に継続することはできないということです。これはガンが人体を蝕んでいくのと同様です。いずれは破綻するのです。極端なことを言えば、西洋化は自殺行為だということです。 それでも、西洋社会のなかでさえもささやかな東洋化の動きも見られます。中には、むやみな現代化に抵抗して、現状をもっとよく見極めようとする人々がいます。そのような人々の集まりもあります。また、神々崇拝型の従来の企業に対し、直接体験を重視するような各種の「(消費者)協同組合」が発展してきています。他国では、金融機関、住宅、各種小売業などにも見られますが、日本ではこのような企業形態は「生協」に限られるかと思っていました。ところが、日本にも大変いい例があることに後から気が付きました(2018年3月20日)。これは、日本高齢者生活協同組合連合会(高齢協、http://koreikyo.jp/)です。大変参考になりました。失礼しました。当然、他にも見逃していると思いますが。。。。 といったわけで、かつてインドで表現化した西洋・東洋の接点はもはや消滅したかのように思えますが、世界各地の小さな拠点にところを変えて依然ささやかに繰り広げられているのです。

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こんなはずじゃなかった

2017年8月30日 蓮 文句 「こんなはずじゃなかった。」「こんなことになるなら、ああするんじゃなかった。」皆さん、誰でもそう思うことがあるでしょう。まあ、一言でいえば後悔でしょうか。当然、あまり気持ちの良いものではありませんし、時によっては病的になることもあるかもしれません。しかし、これは私たちには極自然な現象の一つのようですし、予防するとか無理やり否定しようというのも現実的ではなさそうです。兎に角、ここで少し考えてみるのも悪くはないと思います。 後悔は、一般に過去の自分の行動が現在の理想にそぐわないと思った時に起こるものです。あらかじめ選択肢がわかっていた場合とそうでない場合があるかもしれません。いずれにしても、根底にあるのは、理想と現実のギャップのようです。 まず、現在の理想というものがどこから来るのか少し考えて見たいと思います。やりがいのある仕事をして、高給をとり、理解のある配偶者と大きな家に住み、優秀な子供をもち、自由気ままで安泰な老後を送る。皆さんは、そのような理想を持っているのでしょうか。そのような理想はどこから来たのですか。自分で構築したものでしょうか。現代社会の賜物でしょうか。それとも、なんとはなしに浮かび上がってきたものでしょうか。現実的でしょうか。私たちが本当に納得できるようなことをした時、それは理想に合致していたからでしょうか。それとも、何か自分の天性を全うしつつあるからでしょうか。というわけで、すこし、理想というものを真剣に考え直してみることが必要ではないでしょうか。ことによると、理想などというものは人生における弊害であるだけかもしれません。 そして、後悔が理想と現実のギャップから生じるとすれば、私たちの現実を把握する能力についても再検討してみる必要がありそうです。ある研究結果によると、大学教員の94%の人が学生から見た自分の評価が平均以上であると思っていたそうです。当然、大変おかしな話で、その人たちが自分の評価を正確に把握していれば出てこない結果です。これは単なる一例ですが、一般に私たちは現実をそれほど正確に把握していないというのが実情だと思います。どうしたらよいでしょうか。現実を真剣に自分の五感・六感のみに頼って把握するようにしたらどうでしょうか。 もし、私たちが理想と現実を見る目を磨き、表面的なギャップに惑わされることを躊躇できるならば、後悔の件数はずっと減るのではないでしょうか。

独学・自己流のすすめ

2017年8月2日 (2017年9月4日若干修正) 蓮 文句 何事についても独学や自己流に対する叱声を聞くことはよくあります。またこれらを賛美する意見も見受けます。初めに、これら両方の姿勢に対する当人の考えを書いてみます。 独学・自己流に対する反論の多くはその道の専門家やその道に秀でた人たちから発せられるようです。多くの犠牲を払って獲得した糧を誰でも簡単に自分で手にすることができるなどという主張に賛成する訳はありません。当然、彼らの言い分にも一理あり、人類が累積した文化を軽んじる必要は全くありません。同時に、目的や条件によっては独学・自己流を無視するわけにもいかないと思います。これは、私たちの身のまわりを見れば極めて自明なことであります。 また、反対に独学で苦労・失敗した人からも同様の結論を聞くことがあります。当然、独学・自己流には限度があり、容易ではありませんから、数多くの失敗例があるのも現実です。これが簡単だとか、誰でもできるというのは明らかに誤りです。 なお、人によっては独学と自己流を区別して、独学は正当な学習法に基づくので良し、自己流はこれを無視するから悪しということがあるようです。ただし、正当な学習法というものはっきりしたものではないので、ここではあまりこだわらないことにします。この文書全体を読んでいただいて皆さんに判断していただければ結構です。 独学・自己流を推奨する人たちの中には、自分たちの経験に快感あるいは自信を持ち、それを他人にも伝えたいと思う人、他人に享受して得意になりたい人、そして、独自の方法を売り込もうと人など様々でしょう。 かくいう当人も独学・自己流の恩恵を受けたものなので、当然それに対する快感や自信というものを持っています。それを否定することはできません。それに、独学・自己流の有効性を示すために自分の例をいくつか掲げようと思っています。しかし、ここでは、決して自分の独自の方法を読者に推奨しようというつもりはなく、また何も「売る」ものもありません。この文書は単に他の人にも独学・自己流の可能性を考えていただきたいという気持ちで書いています。 もう一点、分野や目的によっては独学・自己流はなじまない、不適切、あるいは不可能といったものもあるでしょう。ここで推奨するのは、そういった制約や厳しい時間制限がない場合に限られことになりましょう。 なお、独学・自己流といっても、何かを身に着ける一般的な要素は必要です。いや、教室等で習う時以上に必須だと思います。ここでは、次の三点を掲げます。(1)学習者が十分に動機・必要性を感じ、(2)適切な学習環境におり、(3)有効な学習方法を見出す能力があること。 第一に、当人のここ数年のピアノ練習の経験を紹介します。当人は小学校の時に1~2年ピアノを習ったことがあります。残念ながら、動機不十分で、全然練習せず、バイエルも終わる前に辞めてしまったと記憶しています。したがって、数年前に練習を始めたときは、全くの初心者といえます。幸い、学校の音楽のおかげで一応楽譜は読めます。そして、中学から50代まで、徐々に自分なりの音楽に対する好みができてきました。変な組み合わせですが、アルゼンチン、ブラジル、キューバ、ジャズ、そしてクラシックの極特定の音楽が好きです。そして、この間特に一曲どうしてもピアノで弾いてみたいと思っている曲がありました。ドビュッシーの「月の光」です。 約3年前、この気持ちが十分に強まり、手持ちの古い電子キーボード(鍵盤はスプリングのちゃちなもの)で練習を始めました。音楽家になるわけでもなく、制限時間があるわけでもなく、気楽なスタートでした。週に数時間の練習で半年ほどかけて、やっと最初の8小節を覚え、何とか弾けるようになりました。たったの8小節でも、大変気分が良いものでした。 それから、ほぼ毎日数時間練習するようになり、その後数か月で、最初の25小節(アルペジオが始まる前)を覚えました。ペースは遅いし、間違いだらけでしたが、何とか感じが出てきたかなという思いでした。この後、しばらくほんとのピアノで練習する機会があり、ますます意欲が湧きました。手持ちのキーボードは61鍵しかなく曲の全部の音を出せなかったので、88鍵の電子ピアノを購入して練習を続けました。その後数か月で、一応曲の全部を覚えました。それでも、全部弾くのに普通の2倍の10分程度かかっていましたし、間違いだらけでした。 それから一年、二年と同じ曲を練習し続けました。人にピアノを練習していると言うとまず必ずレッスンは取っているか、取らなければいけないと言われます。当人は全くレッスンを取らないので、この分費用がかからず、自分の好きな時に練習できて気が楽です。ただ、インターネットでペダルの使い方、ピアニッシモの出し方等調べたりはしました。そして、今では何とか弾けるようになったのです。まだまだ改善したいところが多々ありますが、多少感情の起伏を表現できるゆとりが出来てきたのです。というわけで、自慢話になりますが具体例があった方がよいと思い書かせていただきました。当然、ここに書いた特定の過程を推奨するものでも、何かを押し付けようというわけでもありません。ただ、この過程が、動機・環境・方法の三条件を満たしていたという点を強調したいと思います。尚、当人は自分の楽しみのためだけにピアノを練習しているので、人前で弾きませんし、弾きたいとも思いません。 第二に、当人の長年にわたる外国語習得の経験を紹介します。まず、日本のように単一言語で用が足りる国では外国語習得の動機が極めて弱いと言わざるを得ません。よっぽどのことがない限り、外国語を習得する理由がないのです。当人の場合、中学・高校時代にアマチュア無線を通して海外と交信する機会があり、英語その他の言語に興味を持ちました。特にロシアや南米諸国と交信するとき、あまり上手く英語を話せない人もあり、ロシア語とスペイン語を習おうと思ったものです。いくつかの言葉の発音を体系的に学ぼうとして、地元の図書館で音声学の本を借りたのが切っ掛けで、言語学の本を買い読み始めました。言葉に対する興味が非常に強まり、外国語を使う仕事をしようと考え始めました。また、技術系の専攻だったのでコンピューターで言語を処理したり、外国語習得の補助をするプログラムを作りたいとも考えました。外国語習得法についてもいろいろ読み、松本亨の「英語で考える」にも強く影響されました。大学時代、日常日本語を使うところを英語に置き換えようとし、読む・書く・聞く・話すの各分野で実行してみました。結果的には、外国語習得についても動機・環境・方法の三条件を満たしていたと思います。 第三に、当人の子供時代のスキーについての経験を紹介します。両親がスキー狂だったため、当人は2歳のころからスキーを始めたそうです。幼稚園の頃にはどんな斜面も平気で滑れるようになっていました。したがって、多くの人が経験するスキーの習い始めの苦労を知りません。歩くのと同様、気がついた時はスキーができるようになっていたのです。その後小学校時代はずいぶんとスキー学校に入れられたものです。おかげ、技術は向上し、フォームも極めて良くなりました。中学の頃には極一瞬全日本スキー・デモンストレータになろうかとも思いました(競技スキーに興味を持ったことはありません)。 こういうと、当人のスキー技術習得が成功例のように聞こえるかもしれません。ところが、当人にはそうは思われないのです。ずっとスキーをする環境にそだち、スキー教室を通して当時最先端のスキー技術を学んだにかかわらず、当人には自分自身から生じる十分な動機がなかったのです。世の中には、親に押されて幼少時から本格的な習い事に真剣に取り組む人がたくさんいます。当人もそういった人々を知っています。チャンピオン・ポールルーム・ダンサー、コンサート・バイオリニストなどです。ただ、当人にはどうしても腑に落ちないのです。この人たちは自分たちで自分たちの道を選ぶ機会があったのだろうかと。 当人の場合、スキーに対する興味は言語や技術に対する興味に比べてずっと少ないものでした。そして、スキーが親の影響で始めたものに対して、言語や技術に対する興味は自分の生活の中から自分で選んだものでした。結果として、成人してからはほとんどスキーをしなりました。 私たちの身のまわりには、たくさんの独学・自己流の体験例があると思います。ほんとに学んだことというのは人から習ったことでしょうか、それとも、自分で身に着けたことでしょうか。

エホバの証人の皆様へ

2017年5月10日 蓮 文句 当人の家にも時折エホバの証人の方々がお見えになります。当人が信者になる可能性は0%なので、改心が目的であればご足労ご苦労様です。 当人はエホバの証人の方々の言っているすべてのことに反対しているわけではありません。例えば、戦争に参加せず、平和な協力的な世界を目指すという点に反対の余地はありません。他にもいろいろと良いことを言っているのだと思います。 ただし、当人の一番言いたい点は以下の通りです。当人としては、聖書であろうが、コーランであろうが、憲法であろうが、誰かの書いたものを鵜呑みにすることは出来ないということです。ですから、特定の聖書を持ち出して、ここに書いてあるからそれを信じるというのは問題外であります。特に、特定の人々(例えば、同性愛者)に対して、この文書にこう書いてあるからといって他の人々と区別するというのは全く受け入れられません。当人には、その文書あるいは解釈が誤っているとしか思えません。 ある聖典が当人の信条と偶然一致する場合、その聖典を尊重することはあるかもしれません。しかし、当人の信条と行動が基づくものは、当人の直接体験に基づく「事実」なのです。この点では、仏教徒ではありませんが、仏教の教えに最も親しみを感じます。仏教の瞑想法を学び、体験すると、確かに皆が妄想に駆られて生きているのだと実感せざるを得ません。人に言われたことを鵜呑みにしてそれを真実と崇拝するのは妄想以外の何ものでもありません。残念ながら、妄想に駆られている時は真実を見る目を失ってしまっています。当人としては、一人でも多くの人が自身の直接体験に基づいて「事実」を見極め、責任のある行動をとっていただきたいと願うものです。

Deer Park Music Practice Studio

O. Guy Morley November 18, 2017 (slightly edited: April 25, 2019) This is a work of fiction. Names, characters, businesses, places, events, and incidents are either the products of the author’s imagination or used in a fictitious manner. Any resemblance to actual persons, living or dead, or actual events is purely coincidental. Prologue The studio … Continue reading Deer Park Music Practice Studio