慎吾と麗名の旅奏曲(2):東日本編

2019年9月1日(若干修正:2019年11月8日)

蓮 文句

1.修学旅行

高校三年の時、慎吾と麗名は同級生だった。それでも二人は全く話をしたこともなく、慎吾は麗名の存在さえ気に留めていない様子だった。そんなある日、慎吾は親と隣町での買い物の帰り、町はずれのコンビニに寄った。慎吾はハッとした。そこのレジで働いていたのは麗名だった。話をしたこともない同級生が一生懸命働いている。なぜかとてもけなげに、と同時にしっかりして見えた。レジに行くのがなんとなく照れ臭く、何も買わずにそこを出た。それから、慎吾は麗名のことを気に掛け始めた。人並外れておとなしい。授業中もほとんど発言しない。休み時間には他の女子と静かに話していることもあったが、一人で窓の外を見ているようなことも多かった。

クラスでは、一学期の間にすでに東京への修学旅行の計画が持ち上がっていた。自由行動の班を決める時、慎吾は麗名が一人だけ話し合いに加わっていないことに気が付いた。後で噂を聞いたところ、麗名の家庭は旅行費用が払えないため修学旅行には行かないということだった。慎吾の家は飛びぬけて裕福ではないが経済的に困ったこともなかったので、この噂はショックであった。

修学旅行の三日前の夜、慎吾は町の中心部まで出かけ、バーに入った。酎ハイをオーダーして飲んでいるところを巡回とみられる警察官に未成年飲酒で補導された。ことの次第は翌日高校に報告され、慎吾は一週間の停学処分を言い渡された。と同時に、この期間にある修学旅行への参加も禁止された。

級友たちが修学旅行に出かけてしまった朝、慎吾は麗名に電話して湖畔を散歩しないかと誘った。
「石館君、散歩に誘ってくれてありがとう。でも、どうしてお酒なんか飲んでいたの?まさかわざと捕まるようなことをしたんじゃないよね?」
「そんなことないよ。たまたまそういう気分だっただけだよ。ところで、同じクラスに居るのに、鹿野内さんとはまだ一回も話したことなかったよね。」
「そうね、私無口だから。石館君はサッカー部で随分活躍していたの知ってたけど。」
「あ~引退するまではね。今は時間が出来た。みんな受験勉強に躍起だけど、僕はなんだか気が抜けたような感じだ。」
「石館君は優秀だからもう大学のこととかしっかり考えているんでしょ?」
「いや、全然。正直言って気が進まない。何を勉強したいとか、何かになりたいというものがまだないんだ。そんな状態で大学に行ってしまっていいのかなと思っている。それより、困ったことに、両親の方が真剣なんだ。」
「そうなの。知らなかった。」

二人は暫く何も話さなかった。突然慎吾が立ち止まり、湖に小石を投げた。その波紋だけが観光シーズンの終った湖面に広がっていった。
「鹿野内さん、気に障ったらごめん。実は、前に街はずれのコンビニに寄った時、レジで働いているのを見たんだけど。」
「そうなの。毎日働いているの。」
「えっ、毎日?大変だね。土日も?」
「そうなの。うち、貧しいから。」
「そんな。詮索するつもりじゃなかったんだけど。」
「いいの。わかっているわ。これは事実だからしかたがないの。修学旅行に行けなかったのもそのせい。それは知っているでしょ?」
「うん。噂で聞いた。で~、鹿野内さんが働いているところを見て、大人と一緒に働いているところを見て、なんだかすごく立派だなって思ったんだ。」
「ただ、お金のためにしていることなのに。私は年取った父と二人暮らしで、父は警備員の仕事。父の前の事業からの借金もあるので、なかなかまともな生活が出来ないの。」
「そうだったのか。大変だなぁ。ねぇ、ポテトチップス持ってきたけど食べる?」
「ありがとう。」
二人は近くのベンチに腰を掛けた。二人はじっと静かな湖面を見つめている。何をするというわけではないが、二人ともそれなりに落ち着いた時間を過ごしているようだった。

午後になって、麗名が言った。
「石館君、この後、またバイトがあるので行かないと。近くのバス停から行くの。今日誘ってくれてありがとう。みんな修学旅行に行ってしまって寂しかった。」
「来てくれてよかった。バス停まで送って行くよ。」
「ありがとう。」
慎吾は麗名がバスに乗る直前に尋ねた。
「鹿野内さん、明日も会ってくれる?」
「えぇ。」
「じゃ、また同じ時間に同じ所で。」
麗名はうなずいた。慎吾は麗名のバスが来るまで待ち、見送った。

次の日、慎吾は少し時間に遅れてきた。
「ごめん。出際にちょっと両親と言い争いがあって。停学になって怒っているんだ。そして毎日ぶらぶらしているとか。大学受験にも差し支えるとか。もう嫌気がさす。」
「ごめんなさい。私に会ってくれるためにそんなこと言われて。それに、どうしても石館君はわざと修学旅行に行かないようにしたと思えて。」
「そんなことないよ。それに、もう修学旅行のことは忘れよう。それより、こうして鹿野内さんと会っていると気が休まる。うちの家族にはない暖かさがある。今日も会えて嬉しいんだ。」
「それだったらいいんだけど。もし昨日石館君が誘ってくれなかったら、私、多分家でずっと泣いていたと思う。私、何の取柄もないのに誘ってくれて、ありがとう。」
「来てくれて、嬉しいよ。」

二人は暫く黙って湖畔を歩いた。今日は少し風が出ている。昼に差し掛かったころ、麗名がバッグから何やら取り出した。
「石館君、よかったら、お昼食べない?おにぎり作ってきたの。」
「ほんと?お腹空いていたんだ。おにぎりいいな。昨日はポテトチップスだけでごめん。」
「当たり前の鮭のおにぎりだけど、いい?」
「鮭、大好きだよ。」
「父の夜食にいつも鮭のおにぎりを用意するの。うちではご馳走なの。父はほとんど毎日夜働いているでしょ。いつも入れ違いで寂しいことが多いの。それに、私の母は私が中学の時に病気で死んでしまったし。」
「そうだったんだ。」

おにぎりを食べ終わると二人はまた歩きだした。また少し風が強くなっている。
「この分だと明日は雨かな。今日のうちにちょっとボートでも乗ろうか。」
「えっ?ボート?」
「うん。そこにあるじゃない。もう観光客もいないし、僕らが少し乗ったって構わないよ。」
麗名はためらっている。それでも、慎吾はさっさとボートの所へ行き、湖岸まで引っ張っていった。
「鹿野内さん、おいでよ。」
麗名は依然ためらっていたが、やっとボートに飛び乗った。慎吾はボートを押しながら、自分も飛び乗った。しばらく慎吾がオールを操り湖上を巡った。誰もいない少しうす暗くなってきた湖面で二人だけ、ボートに乗っている。少し波立つ湖面をすうっと、だが当てもなくさ迷っている。しまいに、慎吾が勢いよく湖岸にこぎ着け、自分が飛び降りた。ボートをさらに引っ張ると麗名の手を取ってボートから降ろした。この時、慎吾は初めて麗名の手に触れた。暖かかった。

この日も麗名のバイトに間に合うように慎吾がバス停まで送って行った。麗名がバスに乗るときに、慎吾がまた尋ねた。
「鹿野内さん、また明日も会ってくれる?」
「えぇ。じゃ、また明日。」

修学旅行の三日目の朝は、雨だった。慎吾は麗名に電話して、町の郷土資料館に行こうと誘った。建物の前で待ち合わせ、二人は中に入った。季節外れのため他には誰も見学者はいない。静かな館内を二人は無言で見て回った。小さな町の資料館なので、そんなに大きくはない。二人は館内をすべて見終わってしまうと、館内の図書室で腰かけた。そこで、麗名の用意してきたおにぎりを食べた。飲食禁止と書いてあったが、他には誰もいなかったし、汚すわけでもないので構わないと思ったようだ。

その後、二人が自動販売機で缶コーヒーを買おうとしたところ、近くの床にコオロギが居た。動きが少し鈍っているように見えた。麗名はコオロギをそっと掴むと、窓を開けて外に出してやった。慎吾が思わず口に出した。
「優しいね。」
「うちはボロやだから、いろいろな虫たちが入ってくるの。いつも私が外に返してあげる役なの。」
外は相変わらず雨だった。麗名がぽつんと言った。
「今日は一日雨ね。そして、その内雪になるわね。冬は少し悲しい。母が死んだ季節だから。」
「そうだったのか。僕にはわからないけど、その寂しさは消えないんだろうね。大事な人だもんね。どうしたらいいんだろう。それに比べ、うちの両親は。文句たらたら。」
「それも気の毒ね。どうしたらいいのかしら。」

午後になって資料館を出たとき、慎吾が傘を広げ麗名の上にさした。そして、自分も一緒に入った。麗名も自分の傘を持ってはいたが、それは使わなかった。雨が降り、少し肌寒いその日、二人は寄り添って歩いた。水たまりを避けようとして重心がずれたりするとお互いの体に強く触れたりした。慎吾は麗名の肩を抱きたいと思った。

バス停まで行って、いつものバスを待っていたが、予定時刻に来なかった。慎吾は雨のせいかなと思った。そして、やっと遠くにバスが見えたとき、慎吾は麗名の方を向き、麗名の額にそっと唇をつけた。麗名はちょっと恥じらいでいるように見えた。
「鹿野内さん、また会ってくれる?電話してもいい?」
「えぇ。またね。」
麗名はバスの中から小さく手を振った。

2.けなげな麗名の悲壮曲

これは麗名が子供の頃の話です。

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麗名が小学校三年生の時のことだ。休み時間が終わって教室に戻る直前に、隣のクラスの男の子に声をかけられた。その子は他のクラスでも知られている人気者で、ここでは人貴君と呼んでおこう。人貴君は麗名に、学校が終わってから二人で遊ばないかと誘った。麗名はすぐに承知して近くの公園で待ち合わせた。麗名は人貴君には憧れていたので、凄く嬉しかった。学校が終わって、人貴君と公園で会った。人貴君も嬉しそうにしている。二人は両手をつなぎ、そのまま、つないだ手の所を中心にぐるぐると回転した。どうしてそうなったのか分からないが、小学三年生の二人にはそれが相手への好感の表れであったのだろう。

二人の気持ちが高まると、回転スピードは上がり、気が付いた時は遠心力が二人の手を握る力より強くなっていた。二人の手は離れ、麗名は後ろに転んでしまった。擦り傷の痛さとショックで麗名は泣き出した。その時、人貴君は何もできずにたたずんでいた。どうしていいかわからずに麗名は泣きながら家に帰ってしまった。それからは、二人は一度も話したことはない。

これは、麗名が四年生の時のことだ。学級担任は新卒の男の先生だった。この先生は教育熱心で、どうしたら子供たちが精神的に成長できるかということを真剣に考えていた。先生の最初に試したことは、座席を班編成にすることであった。班の中で、共同学習・作業をすることによって、集団生活の基本を身につけて欲しいという意図である。35人ほどのクラスに5人ずつ、7班作った。麗名は3班であった。同じ班に、クラスでは一番成績の良い男子がいた。この子供のことは清石君と呼んでおこう。3班には男子が2人、女子3が人居た。実は、清石君は他の班に少し気に入った女の子がいた。しかし、日々の活動は班の中でするので、班の中の女の子に注意を向けてきた。その三人のうちでは、麗名が一番気に入ったと見え、毎日、麗名にいろいろと話しかける。麗名はうれしく思い、清石君のことを好いた。そして、麗名は清石君も麗名のことを好きだと思っていたかもしれない。

そんな状態がしばらく続いていたころ、このクラスの中で、ちょっとした出来事が起こりつつあった。クラスの中の男女、7~8人くらいが秘密のグループを作ったのだ。どういう訳か、この中に麗名が入っていた。おそらく、麗名の友達が引きずり込んだのであろう。ところが、これもなぜか、清石君は入っていなかった。このグループは、一応秘密ではあったが、清石君はある友達からそのグループのことを聞いた。その友達の言うことには、グループの集まりで麗名が清石君のことが好きだと言ったらしい。清石君は麗名のその発言よりも、自分がグループに入っていないことが無性に苛立たしかった。腹立たしくもあった。どうして、自分が誘われなかったのか。そして、麗名がそのグループに入っていることさえ気にくわなかった。

この怒りが清石君に予想外の行動をさせた。麗名にとても卑劣な手紙を書いたのだ。内容は、清石君は麗名のことを好きではない。好きな人は他に居ると。そして、この手紙を麗名の机の中にそっと入れた。それからは、清石君は麗名のことを無視した。麗名は事の次第がまったくわからず、どうして、急に清石君が麗名に冷たくなってしまったのか嘆いた。その日から、麗名の表情は暗くなった。麗名はもうあまり話さなくなった。そして、誰にもこのことは話さなかった。母親は優しい人で、麗名のことをいつも思ってくれていたが、その母親にさえも話さなかった。母親はどうして麗名が急に暗くなってしまったのか分からなかったが、追求することはしなかった。黙って、麗名の好きなクッキーを焼いてくれた。

それからしばらく経った。麗名が中学二年の時、麗名は仲の良い女の友達と放課後を過ごすことが多かった。徐々に気が付いたのだが、同じ中学の男子二人連れがよく麗名たちのことを見ている。そして、ある日、麗名の下駄箱に小さな封筒に入った手紙があることに気が付いた。それには、あの二人連れのうちの一人であると書いてある。この男子のことは、手賀見君と呼んでおこう。手賀見君は一年生で、麗名と文通したいと書いてあった。麗名は手賀見君のことは全く知らず、少しためらったが、きりっとしたその子に興味もあって、返事を書いた。

それからはほぼ毎日のように、二人は手紙を交換した。麗名は少しずつ手賀見君のことが分かってくる。どうやら、麗名に強い興味を持っている。麗名のどこが気に入ったのかはよくわからない。それでも、二人は手紙にいろいろなことを書き合った。中学の陸上競技大会の時、手賀見君は走り幅跳びに出場して学年で一位だった。麗名と女友達はそれを見ていて思わず。「きゃー」と言って手を叩いていた。ところが、ある時から麗名は手紙をパッタリ受け取らなくなる。どうしたのか手紙で尋ねるが、もう返事がない。バレンタインデーの後暫くして分かったことだが手賀見君は彼と同学年の女子からチョコレートをもらい、付き合いだしたということだった。麗名と手賀見君とは付き合っていたと言う訳ではないが、麗名は寂しかった。また家で寂しい顔をしていると、母は気を使ってくれた。何も言わずに、優しく対応してくれた。だが、この優しい母は麗名が中学を卒業する前に病気で亡くなってしまった。麗名は今までにも増しておとなしくなった。この寂しさを乗り超えられる日が来るのだろうかと不安に思っていた。

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3.高校卒業後

修学旅行は終わり、慎吾も含め皆、学校に戻った。その日、学校では、慎吾と麗名は相変わらず話もしなかった。それでも、二人の視線が何度か合った。そして、学校が終った時、慎吾はそっと麗名の所へ行って呟いた。
「一緒に帰ってもいい?」
麗名は少しはにかんでいるようだった。他の学生の視線を気にしているようでもあった。そして、何も言わずに首を少し縦に振った。二人はそそくさと校門を後にした。
「鹿野内さん、まずかったかな?」
「ううん。嬉しかったんだけど、ちょっと照れちゃって。だって、私たちだけ修学旅行に行かなくて、そしたら、急に一緒に帰るようになってるなんて。」
「そうだね。でも、僕にはもう一緒に帰るのが自然のような気がしてきたんだけど。」
「それは、私も。私、もう気にならない。」
「じゃ、よかった。付き合ってくれるよね。」
「えぇ。」

それからは、二人は毎日一緒に学校を出た。麗名はバイトがあるので、二人でバス停まで行って、慎吾はそこで見送った。時には慎吾は学校まで自転車で来て、麗名を後ろに乗せてペダルをこいだ。麗名はしっかりと慎吾につかまっている。その姿は誰の目にも恋人同士と映ったろう。

毎日の放課後のひと時の他に、二人は休日の昼間も町のあちこちでデートを重ねた。だんだん寒くなる中、二人の寄り添う度合いも増していくようだった。
「慎吾さん、今だから言うけど、私、修学旅行、行けなくて良かった。」
「僕もそう思う。いや、僕たち、あの三日間、二人だけの修学旅行だったんじゃないかな。おかげで、麗名さんと知り合えて。」
そして、いつも別れるときに二人は抱き合って口をつけるようになっていた。この頃までには二人とも周りの目は気にならなかった。

ある日、麗名がバイトがないと言う。コンビニの改装工事で3日間休みになったのだそうだ。その時、慎吾は初めて麗名を家まで送って行った。着いた時、麗名は少し恥ずかしく思っているようだった。それは、麗名の家がバラック寸前の状態だったからだろう。慎吾も少し驚いた様子だ。
「慎吾さん、凄い家でしょ。でも、私たち直すお金がないの。」
「そんなこと関係ないよ。麗名さんが好きで付き合ってもらっているんだ。麗名さんの家と付き合っているわけじゃないよ。」
「そうよね。少し気が楽になったわ。」

こうして、約半年が過ぎた。寒い冬の日も二人は外でデートを重ねた。寒さを凌ぐためにいつも寄り添って歩いた。時々雪の深いところを歩くときは慎吾がしっかりと麗名の手を取って、バランスが崩れるとしっかりと体全体で支えた。慎吾と麗名の絆が深くなるにつれて、逆に慎吾と両親の隔たりはますます広がっていった。両親には慎吾が大学受験のことを無視しているのが耐えられなかった。もし大学に行かないなら家を出ていけとさえ言っていた。これには慎吾も閉口したが、それでも形式のためだけに大学に行こうとは考えていなかった。

慎吾と麗名が高校を卒業した時、二人にははっきりした将来の計画がなかった。初めは、平日の昼間に二人の時間が持てることで幸せであったが、いつまでもそうしているわけにはいかない。麗名が話し始める
「私たち高校を卒業して、一緒に過ごせる時間が増えて嬉しい。だけど、これからは何かしないと。仕事見つけないと。」
「そうだね。うちでは両親はカンカンで、今にも僕のことを追い出さんとしている。もし追い出されたら、麗名の所に泊めてもらえる?」
「そうしてあげたいけど、うちは狭いし汚いし。父と一緒だし。」
「そういえば、まだお父さんには挨拶もしていないしな。なんとかいい考えはないかな。何か一緒に出来ることはないかな?」

残念ながら、その小さな町には高卒の慎吾と麗名が一緒に出来るような仕事は多くはかった。そんな中、やっと見つけた一つの可能性は、観光会社の見習いであった。麗名はガイド、慎吾は運転手として一緒に働けるのではないかということだ。ただし、まず、慎吾が運転免許を取らなければならなかった。今の家庭事情では、慎吾は両親に免許を取りたいから費用を出してくれとは言えない。そこで、二人で考えたのは、麗名の父が警備をしている会社の社用車を夜間無断で借用してそこの駐車場で練習するという案であった。当然まっとうな計画ではないが、誰にも迷惑をかけるわけではないので問題ないのではと思ったのだ。

ある夜、麗名のバイトが終った後に慎吾と麗名は麗名の父の職場を訪ねた。慎吾は麗名の父に挨拶した。
「麗名さんのお父さん、初めまして。僕は石館慎吾と言います。去年の秋から麗名さんとお付き合いしています。実は、麗名さんと僕は町の観光会社で一緒に働きたいと考えているのですが、僕には運転免許が必要なのです。そこで、麗名さんと相談した結果なのですが。ここの社用車を借用して、言いずらいですが、無断で借用して夜間にこの駐車場で練習できないものでしょうか。お父さんは鍵を持っていると聞きました。」
麗名の父は少なからず驚いた様子であった。
「慎吾さん、用件はわかりました。ただし、それは普通のやり方ではないですな。どうして普通のやり方ではできないのですか?」
「実は、僕は両親とうまくいっていないのです。両親は僕が大学を受験しなかったので、勘当寸前なのです。僕は麗名さんと付き合う前から無意味に大学に行くことは避けたいと思っていました。そして、今は、麗名さんと一緒に働くことが僕の第一の希望なんです。麗名さんは僕の家族にはない優しさを持っています。一緒に働きたいのです。そのためには、今、第一に必要なのは運転免許なんです。」
「そうですか、慎吾さんの気持ちはわかりました。私の娘をそのように思ってくれてうれしくもあります。ただし、今、二人の頼んでいることは私の就業規則に反するので、発覚すれば私は職を失う可能性もあります。慎吾さん、もしそうなったらあなたはどうしますか?」
これには慎吾は即答できなかった。愛おしい人の父親が自分の責任で職を失うかもしれないということは問題外であった。
「お父さん、わかりました。もう少し他の方法を考えてみます。」

ところが、数週間後に、状況は急変した。麗名の父が一か月後に解雇されるというのだ。そのため、この際、慎吾と麗名の初めの計画通り、社用車を使って運転の練習をしても構わないというのだ。慎吾は麗名の父が職を失うのは気の毒に思ったが、この機に運転免許を取るしかないと判断した。そこで、一か月間、夜の駐車場で運転の練習をした。麗名は縦列駐車の時等、手助けをした。麗名の父も時折アドバイスをしてくれた。慎吾は麗名の父のためにも免許を取らなければと思っていた。

筆記試験は昼間に十分準備できたので、慎吾はすぐに合格した。そして、二回目の挑戦で仮免許を取得した。その頃までには、麗名の父は職を失っていたが、知り合いの自動車修理工から修理中の車を何回も借りてくれた。その車に麗名の父が同乗してくれ、路上練習をした。そして、約一か月後にすべて終了して免許を得ることが出来た。

その後すぐに、慎吾と麗名は見習いとしてその観光会社に雇用された。ただし、慎吾は普通免許のみなため観光バスは運転できない。そこで、この会社は地域の複数のホテルと契約し、ホテル遂行の無料ワゴンバスツアーという形でホテルから直接支払いを受ける仕組みを設定した。観光用のワゴンバスに初心者マークがついているというのもおかしな話だが、慎吾はなるべく目立たないように工夫していた。こうして、慎吾がワゴンバスを運転し、麗名がガイドをする状況にこぎつけた。実は、麗名は近隣の有名な観光地にさえ全く行ったことがなかったので、ガイドブックを読んだり、先輩から教わったりしなければならなかった。観光で一番良く行ったのは摩周湖までの半日ツアーだった。麗名が初めて摩周湖を見たときは、観光客よりも感激していたようだった。当然、観光客はガイドが初めてそこに来たとは思うまい。残念ながら、仕事は毎日あるわけではなく、二人の収入は不安定であった。それでも、麗名のコンビニの仕事よりはマシで、丁度、麗名の父の元の収入はカバーできるようだった。

ある日、二人が定番の摩周湖ツアーに行った時、参加者の中にたいへん仲の良い老夫婦がいた。ツアーの最後にこの老夫婦が慎吾と麗名の様子を見て、
「あなたたち、仲がいいわね。とても微笑ましいわ。」
と言った。それを聞いた慎吾は思わず返答した。
「僕たち、恋人同士なんです。でも、今思いついたんだけど、それは今日までにしようと。」
これを聞いた麗名はたじろいだ。
「えぇ!どういうこと?!」
慎吾は急に真剣になって麗名に向かって言った。
「実は、もう少し待とうと思っていたんだけど、もう待ちきれなくなった。麗名さん、僕と結婚してくれるよね?明日からは夫婦になってくれるよね?!」
これを聞いた麗名はもう一度びっくりした様子で言った。
「ほんと!?もちろんよ、慎吾さん。その言葉を待っていたの。嬉しい。」
老夫婦は顔を見合わせて微笑んだ。そして、慎吾と麗名に言った。
「お幸せに。」

その翌日はたまたま仕事がなかったので、慎吾と麗名は町役場へ結婚の届出をしに行った。ただ一つ、見逃したことは、二人とも未成年で、両親の承諾がいるということだった。慎吾は自分の両親は絶対承諾してくれないと悟った。そこで、麗名にこう言った。
「麗名さん、年齢のことを見逃してしまってすまない。でも、法律なんかどうでもいいよね。僕は麗名さんと結婚したいんだ。非公式にでも結婚してくれる?高校時代の友達何人かに非公式の証人になってもらおうよ。あと2年もすれば僕らも成人だ。親の承諾なしで法律上の夫婦になれる。兎に角、今日を僕たちの結婚の日にしよう。」
「私は構わない。それじゃ、私たち今日で事実上の夫婦ね。法律なんて構わない。」
「ただぁ。」
「何?」
突然、慎吾が少し変な表情をしている。
「ちょっと、違う話なんだけど、今、急に心臓がどきどきした。」
「私は、少しお腹が絞られるような感じがした。」
「どうしたのかな。二人同時に。」
二人とも落ち着いてから慎吾が続けた。
「え~と、さっき言おうとしてたことなんだけど。ただ一つ、厄介なのはうちの両親だ。このことを言ったら、確実に勘当だ。僕はもう家にはいられない。麗名の所にいけないかな?」
「前に、無理だって言ったんだけど、実は、私もそれ考えてたの。今は、それしかないかも。私の父は大丈夫。いつも私に苦労させていると言って、私のことを気の毒に思っているから。私が結婚して幸せになるのに反対するわけがない。そして、父はほとんど毎日夜の仕事でいない。私たちとは入れ替わりになる。なんとかなる気がするの。」
「ありがとう。すぐに荷物をまとめて麗名の家に行くよ。」
「うちで待ってるね。」

慎吾が麗名の家に着いた時には麗名の父親はいなかった。
「私たちのこと、父が仕事に出る前に、急いで話したの。少しびっくりしていたようだけど、私の好きなようにしていいって。」
「それは良かった。助かる。」
「さぁ、夕飯作ってあるから食べて。」
「嬉しいな。ほんとに夫婦の生活だね。」
「嘘みたいね。たぶん、他の人には、ままごとみたいって言われるかもしれないけど。」
「美味しいね。みんな自分で作ったの?」
「そう。うちはお金がないから安い材料を買って工夫しないとならないの。これみんな母から教わった料理なの。」
「凄いね。」

夕食の後、お茶を飲んでから、片付けようとした時に、慎吾も手伝おうとしたのだが、足がテーブルの脚につまずき、茶碗を落として割ってしまった。麗名は一瞬慌てる。
「あっ!困った。これ大事なお茶碗だったの。」
「ごめん。慌ててしまって。」
慎吾はがっかりしている麗名の肩を抱いて慰めた。
「ほんとにごめん。いつか償うよ。残念だけど、物はみんな、いずれ壊れてしまう。ほんとに残念だけど。」
「そうね。仕方ない。」
二人は粉々になった茶碗の破片を片付け始めた。最後に二人で床を吹いているとき、ぶつかってしまい、慎吾が麗名に抱き着いた。
「麗名。僕たち夫婦になったね。二人だけの修学旅行の時から一緒に居るのが楽しくて、最近はもう待ち遠しかった。あの老夫婦に声をかけられてもう我慢が出来なかった。」
「そうね。あの老夫婦どうしているかしら。それから、なんだか、私、熱くなってしまって。ねぇ、こっちに来て。」
麗名は慎吾を自分の部屋に連れて行った。それは、部屋というには小さすぎるぐらいのスペースだった。麗名は押入れから寝具を一式だして床に敷いた。
「ごめんなさい。一組しかないの。」
「それ以上いらないよ。」
その言葉は正しかった。次の日の朝、慎吾は麗名を起こすのに苦労した。

4.慎吾の父の憤怒曲

これは慎吾の父の言葉です。

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慎吾には全くもって憤慨している。両親がせっかく大学進学を奨励、援助しようというのに、その好意を無視し、踏みにじっている。いつからこうなってしまったのか。確実に、あの貧困家庭の娘と付き合いだしてからだ。それまでは、こんなことはなかったのにだ。

慎吾は成績も良かったし、サッカー部でも活躍していた。誰から見ても優等生と言えるだろう。親の言うこともよく聞くし、家の手伝いもしていた。事の次第が発覚したのはあの停学事件のころだろう。なぜ、慎吾が急に町の飲み屋で補導されたのか。後で聞いた話だと、どうも自分で警察署に通報したらしい。どうやら、わざと停学になり、修学旅行に行けないようにしたと思われる。そして、その三日間毎日ほとんど家を空けて、あの娘とデートしていたようだ。それからというもの、今までの慎吾はもうどこかへ行ってしまった。

我が家は経済的には恵まれている方だろう。私は不動産業でそれなりに頑張っているし、妻は家でしっかり家事をしている。何不自由ない生活が出来る。小さいころから慎吾が欲しがるおもちゃは皆買ってやったし、行きたいところへは大体連れて行ってやった。まぁ、北海道の田舎だから、簡単に都会へは出れないが。今まで、慎吾は特に文句を言うでもなかった。

我々としては、慎吾に我々よりさらに良い生活をして欲しい。それには、良い成績を取って、良い大学に進み、良い仕事について欲しい。そのためには、借金をしてでも協力しようという気構えだ。今が一番重要な時だ。それなのに、慎吾ときたら、大学で何を学んでよいかわからないとか、大学に行く意味がわからないとか、大学に行く必要がないとか、勝手なことを言っている。我々はもうすでに道内外の有名大学から入試情報を取り寄せて検討し始めていたというのに、本人が全く乗り気でない。我々の努力を無視さえしている。こんなことだったら、家を出て行けと言ってやった。これは本気だ。

そして、一番わからないのは、あの娘のことだ。あの娘の年取った父親は夜の警備員の仕事をしているようだ。噂では、前の事業に失敗している。そして、猫の額ほどの土地にある掘っ立て小屋に住んでいる。何を好んで、そんな娘と付き合わなければいけないのか。

そんな中で、一つ気になったことがある。我々、夫婦間の仲のことだ。若い時、私と妻は熱烈に愛し合っていた。そして、私たちは双方の両親の反対を振り切って結婚した。反対の表向きの理由は、私たちが若すぎるということだった。だが、私は知っていた。私の両親の真の理由は、私の妻が明らかにアイヌの出身だったからだ。その後、私たちは一生懸命に働き、今の生活を築き上げた。ところが、慎吾が生まれてしばらくしてから、夫婦仲が疎遠になった。これは子供の出来た夫婦によくあることかもしれない。私は相変わらず仕事が忙しかったこともあるが、一番の原因は、妻が子供優先の生活になって、私のことを構わなくなったことだろう。これも、当たり前のことかもしれない。母親は、子供を育てなくてはならない。しかし、母親は妻でもある。その妻が妻としての務めを十分できなかったらどうなるか。私は食事と睡眠をとるために家に帰るが、家でのそれ以上の意味がなくなってきた。

このことは、何回も妻に言ったことがある。妻は百も承知だ。それでも、やはり、子供のことで頭が一杯なのだ。慎吾が中学、高校と進むにつれて、それまでのような母親の用事は段々不要になってくる。すると今度は、妻は慎吾の進学について真剣になってきた。この点では妻と私は全く合意するのだ。ただ、妻は妻で自分の好きなように話を展開したがる。私は仕事で忙しいので、どうしても、妻に任せることが多くなる。

慎吾はそんな我々の状態をどう思っているのか。そんなことは聞けないし、率直な意見など聞きたくもない。ただ、直感的に、夫婦間の疎遠な状態が慎吾の態度に影響を及ぼしているかもしれないと思うのだ。

もう一点は、私たちが親戚付き合いをしないということも関係しているかもしれない。ことの始まりは、私たちの結婚が両家の反対を押し切ってなされたことだ。自然と、親戚付き合いがなくなった。慎吾の友達が正月や、お盆に親戚に会うところ、慎吾は私たちとだけ過ごした。また、親戚からたくさんお年玉を貰うところ、慎吾は比較的多額を私たちからもらうだけだった。前に、慎吾から、私たちに親戚はいないのかと聞かれた時、あまり良い答えが思い浮かばなかったため、お茶を濁したことがある。それが、どれだけ慎吾に影響したかはわからない。今、慎吾が何を知っているのかもはっきりとはわからない。

だが、いずれにしても、重要なことは我々、両親が慎吾の事を思っているということだ。慎吾に良い生活をして欲しいと思っていることだ。それをわからずに、両親の好意を踏みにじるのは、親不孝も甚だしい。これは、許されるべきことではない。

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5.旅立ち

慎吾と麗名の仕事は相変わらず不安定だった。特に冬の間、極寒の北海道を好む愛好家の他にはなかなか観光客が来ない。二人の収入は減り、またコンビニでバイトをしなければならないこともあった。ただ一つの違いは、時には麗名と同じシフトに慎吾も勤務することがあった。出来るだけ一緒に居たい二人にはお誂えだった。

そして、慎吾が21歳になった冬、暇な時間と会社の補助を得て、念願の大型二種免許を取得することが出来た。これで、慎吾もやっと一人前の観光バス運転手となり、二人の仕事も増えた。やっと、状況は好転した。二人は多少なりとも貯金する余裕も出てきた。

ところが、それから2年と少し経った頃、大きな変化が生じた。麗名の父親が急死したのだ。心臓疾患だった。麗名はもう親族が全くいなくなってしまったと観念した。こんな時には、慎吾だけが心の支えだった。そして、数週間後に、もう一つ予想もしていなかったことが起こった。麗名のところに父の妹と名乗る人が現れる。そういわれれば、確かに父に似ているところがある。そして、この妹の言うことには父が遺言を残しており、全財産をこの妹に譲るというのだ。慎吾と麗名には納得がいかなかった。まず、全財産というのは現実的には、このバラック寸前の家のことだ。どうして、大して価値のない不動産を父と深い交流があったとは思えないこの人が取り上げなければならないのか。この妹はまず、家の鍵をすべて取り上げておいて、今度は慈悲深いそぶりをして、慎吾と麗名は土地を売るまでそのまま滞在しても良いと言い、一つだけ鍵を渡してくれた。慎吾と麗名はすぐに自分たちのアパートを見つけなければと思った。

そして、それからそんなに経たないうちに、今度は、二人は会社の上司から会社が倒産したと伝えられた。観光業界の不振が大きく降りかかっていたのだ。二人は落胆したが、それまでも難関を乗り切ってきた経験から、絶望はしてはいなかった。ただ、麗名は父を失い、慎吾も両親と絶縁状態である。二人とも事実上この地での親密な親族関係はなくなっていた。そして、会社の倒産を予期していなかったせいもあり、麗名の父の借金の返済と葬儀のために二人の貯金を完全に使い果たしてしまったところだったのだ。

この時、慎吾と麗名が思い出したものがあった。6年ほど前の摩周湖ワゴンバス・ツアーに参加した老夫婦が落としていったと思われるパンフレットである。そこには、埼玉県にある「安心~の宿」の事が書かれていた。二人は不安定な生活を体験してきたので、無料で滞在できる施設ということに気を留めていた。この際、そこに行って新しい生活を始めようと決心した。

二人の今の経済状況を考えると、航空券を二人分買うお金はない。北海道の奥地から埼玉まで行く陸路も安いとは思えなかったが、それしかないと思った。二人は一つずつ、身の回りの物をバッグに詰めた。そして、翌日の早朝、慎吾が目覚ましで起き、麗名を起こした。
「麗名、朝だよ。出発の日だよ。」
「~。」
あまり反応がない。
「麗名。列車に遅れるよ。」
「ねむ~。」
「参ったなぁ。朝起きられないのだけは困りもんだな。麗名。」
麗名は両手をぬ~っと伸ばしては引っ込めた。
「ちょっと。麗名。」
慎吾は麗名の布団をはがして、体を揺さぶる。それからもうしばらく経って、やっと麗名が起き上がった。髪の毛はめちゃめちゃ。顔にはよだれの跡がある。あまりにぼーっとしている。
「麗名。出発の朝だよ。埼玉まで行くんだろ。」
「わかりました。あっ。早くおにぎり作らないと。」
麗名は慌てて起き上がり、台所へ行った。

二人はあたふたと用意をして家を出た。麗名はあのバラック寸前の家の方を一回振り向き、少し悲しそうな顔をした。慎吾はそっと麗名の肩を抱く。町の駅まで歩き、朝一番の普通列車で釧路に向かった。当面、あるいは一生この地を踏むことはないだろう。一緒に歩いた屈斜路湖畔、一緒に自転車に乗った高校からの道、一緒にガイドをした摩周湖等の思い出がよぎる。二人は黙って窓からの景色を眺めていた。朝食は列車の中で取った。鮭のおにぎりだ。釧路についた時、麗名は少し興奮していた。麗名の見る初めての都市である。二人はバスターミナルまで歩き、札幌までのバスに乗った。網走平野を超え、日高山脈を越えた。山道は険しく、バスは左右に大きく揺れた。途中、山火事かと思われるような煙が見えた。二人は事故でなければいいがと思った。昼食は、やはり、麗名の作った鮭のおにぎりだった。

札幌についた時、麗名はもっと興奮している。バスから見える市内の景色を一つも逃すまいとしているようだった。この人が観光ガイドをしていたようには見えなかった。それに対して、慎吾は家族で道内一周の自動車旅行をしたこともあるし、他にも何回か札幌には来ている。本土に行ったこともある。札幌のバスターミナルでは少し時間があったので、喫茶店に入り、コーヒーを飲み、クッキーを食べた。麗名は大喜びだった。慎吾にはこれがたいそう愛おしく思えた。この麗名には、もう、あの意地の悪い叔母しか親族はいない。札幌からまたバスに乗り、函館についた時はもう夜であった。バスターミナルで簡単な夕食を取り、タクシーでフェリー乗り場まで向かった。

青森までは深夜フェリーに乗った。お座敷のような仮眠スペースで、二人は寄り添って横になった。多少波が気にはなったが、かなり疲れていたので眠ってしまった。到着後、青森側のフェリー乗り場からタクシーで青森駅まで行った。そこで、朝食のサンドイッチを買って、すぐに仙台行きのバスに乗りこんだ。二人はまだ寝足りなかったようで、すぐさま寝入ってしまった。昼過ぎには、仙台に着いた。予想はしていたことだが、この時点で、二人は残り予算があまりないことに気が付いた。しかし、もうここまで来ている。何とかして安心~の宿にたどり着きたい。そこで、街道沿いまで歩いて、ヒッチハイクをしてみようということになった。

「埼玉方面」と書いた札を持って、じっと待った。だた、男女二人連れのせいか、なかなか車が止まってくれない。そこで、慎吾が「大トラ免許有、運転します」と書いた札も作り、二人で一つずつ持った。すると、しばらくして、一台のトラックが止まった。会津若松に行くので、郡山までなら乗せても良いということだった。慎吾と麗名はトラックの運転手と三人でベンチシートに腰かけ、出発した。高速に入ったところで、運転手が尋ねた。
「免許あるって書いてあったけど、少し運転してくれる?運転し通しで疲れてるんで。それに眠いし。」
慎吾が答えた。
「わかりました。これが、免許証です。」
「ほぉ。2種免かい。大したもんだね。えぇ~、慎吾さんね。じゃ、お願い。郡山の出口降りる前のサービス・エリアまで。そこで、起こしてくれる?後ろで寝ているから。」
というと、座席の後ろの簡易ベッドに入り、一分も経たないうちに大いびきをかき始めた。慎吾と麗名は顔を見合わせて笑いをこらえていた。麗名がそぉっと言った。
「よかったね。」
「あぁ、よかった。」

約束のサービス・エリアに着いて、運転手を起こすと、運転手は二人に缶コーヒーを2本くれた。お礼だという。二人も運転手に礼を言って別れた。二人はサービス・エリアでトイレ休憩をして、また次の車を探し始めた。前に使った札2枚を持って、サービス・エリアの中をうろついた。すると、そこを通ったトラックが止まり、来いと指図をしている。トラックの横には大きな竜の絵が描いてある。行ってみると、東京まで行く途中なので、大宮近辺まで乗せてくれるという。運転してくれるのは助かるが、今は大丈夫だという。

二人が車に乗ると、運転手は話しかけてきた。
「二人でヒッチハイクは結構大変じゃない?」
「それは実感しました。それで、トラックを運転するという札も作ったんですよ。」
「えっ。じゃ、あれは嘘なの?」
「いや、いや。ほんとです。僕は北海道で観光バスの運転手だったんです。ついこの間会社が倒産してしまったんです。妻も同じ会社にガイドとして働いていたんで、二人とも同時に失業になってしまって。住んでいた家も親戚に取り上げられてしまっていたので、これから埼玉県のある施設に行くところなのです。」
「それは、気の毒だな。ところで、オレは、大介。よろしく。」
「僕は、慎吾、妻は、麗名です。乗せてくれてありがとうございます。」
「それは、いいんだよ。いつも一人で、退屈だし。少しでも人の助けになるんだったら、大歓迎だ。それに、同業者だしな。大型は楽じゃないよな。」
「そうですね。免許取るのは苦労しました。会社が補助してくれたのでなんとか出来たようなものです。それより、普通免許を取るときは、もっと苦労しました。親に勘当されている最中で、教習所にも行けず、妻の父の助けを借りて飛び込みで取ったんです。」
「努力家だね。報われるよ。他の大型の運ちゃんともよく話をするけど、みんな努力家だよね。訳も分からずに普通の道を行くことが出来ない奴らだよね。まぁ、オレの場合はそんな偉そうなもんじゃないが。」
「大介さんはどうして運転してるんですか?」
「オレは、事情があって、高校中退。最初は寿司屋の住み込みの見習い。それなりに良いとこだった。面倒見のいい親爺だった。だけど、数年のうちに死んでしまった。そしたら、今度はオレの爺さんが死にそうになり、しばらくその面倒を見ていた。その間に、介護の仕事に興味を持って、資格も取った。爺さんが亡くなってからは暫く介護の仕事をしていたんだ。そして、やはり介護の仕事をしている彼女も見つけた。知ってるかどうか、介護の仕事はキツイ割に金が悪い。食っていくのさえ大変なのに彼女と付き合う余裕もない。それで、もっと金がいい大トラをやろうと思ったのさ。ところが、大型免許合宿の最中に彼女に逃げられた。悲しかったな。それからは、ずっとトラックさ。今度は、金はいいが女に巡り合えるチャンスが少ない。すべてうまくはいかないもんだ。」
「そうだったんですか。」
「それから、慎吾さん、奥さんを大事そうに連れて歩いているのを見てうらやましかったよ。奥さん、良い旦那さんで良かったね。」
麗名は恥ずかしそうに下を向いている。
「それに、良い奥さんだ。しっかり旦那さんにくっついている。いい夫婦だなぁ。どうやって、そんなにぴったりの相手を見つけられるのかな。教えてほしいよ。まぁ、気にしないでくれ。独り者のボヤキだ。そこにお茶があるから、勝手に飲んで。それから、その辺に何かしらスナックがあるはずだ。」
二人は空腹だったので、早速スナックをむしゃむしゃ食べだした。大介はそれを横目で見ていたが、急に言い出した。
「なんだか、急に腹が減ってきた。次のサービス・エリアで一休みしようか。」

サービス・エリアで止まると、大介は二人にご馳走すると言いだした。二人は丁寧にお礼を言って一品ずつ注文した。大介は食べすぎると太るからと言って、結局コーヒーだけ注文した。食べ終わると、三人はトラックに戻った。
「慎吾さん、少し二種免の腕前を見せていただけるかな?」
「まだまだ、未熟ですよ。でも、大介さんが少しでも休めるんだったら、運転させてください。」
慎吾が運転し始めると、大介がコメントした。
「ほぉ、やっぱりバスの運ちゃんだね。大トラ以上に前に出る感じだし、ハンドルの回し方が粋だね。」
「この車、なぜか不思議な感じがしますね。ちょっと、飛んでるみたいな気分になる。」

それからは、あっという間に大宮近辺まで来た。高速を降りる前に、運転は大介に変わった。その後、大宮駅まで寄り道をして、そこで二人を降ろしてくれた。その時、大介は紙に電話番号を書いた。
「これはうちの会社だ。いつでも運転手を募集している。言い忘れたが、会社自体は埼玉の南のはじにある。もし、大トラをやろうと思ったら電話してくれ。大介から聞いたと言えば皆すぐわかる。じゃ、お達者で。」
「大介さん、どうもありがとうございました。」

二人は大介のトラックが完全に見えなくなるまで見送った。
「慎吾、大介さんて、良い人ね。なんだか、神様みたい。」
「そうだな。ほんとにありがたいな。」

そろそろ日も暮れてきた。二人は、今日中に目的地まで行くのは無理だと察した。だが、二人でカプセルホテルに泊まるだけの予算もないし、宿泊可能な温泉というものの存在も知らなかった。そこで、最終電車で安里町に近い高崎線の駅まで行き、そこで夜を明かすことにした。それまでは大宮で時間を潰そうということになった。駅の周りにある電化製品店をみたり、デパートに入ったりした。麗名にとってはこれらどれも初めての体験であり、めまいがするほどの刺激であった。中でも、一番麗名に衝撃的だったのはデパ地下の食品売り場だった。こんなに多くの種類の食べ物を見たことがない。すべて食べてみたいと思った。少し味見をしてみた。しまいに、二人は小さなちらし寿司を一つだけ買って、外で半分ずつ食べようということになった。駅前から少し歩いたところにある広場のベンチに座ってゆっくりと食べた。
「慎吾、埼玉ってすごい都会ね。」
「このぐらいで驚いてはいられないよ。もう、埼玉、神奈川、千葉は、東京とつながっていて、巨大都市になっている。でも、こんなに人が住んでいて、いざっていうときは大丈夫なのかなって思うよ。麗名は、札幌や大宮で驚いているけど、東京の都心部に行ったら気絶しちゃうんじゃないかな。」
「そんなに凄いの?その内行ってみたい。」
「その内行けるよ。」

その後、電車に乗り、安里町に近い駅に着いたのは午前1時過ぎだった。二人は駅の外のベンチに寄り添って腰かけた。幸い、この時期は寒くはなかった。いや、あの厳寒の北海道で毎日デートを重ねた二人である。埼玉の夜が寒いわけがなかった。二日に渡る旅の疲れで、二人はいつしか寝っていた。それでも、硬いベンチなので、さすがの麗名でさえ、急に目が覚めた。そのときはもう夜が明けていて、朝早い通勤客が駅に入っていく。朝の柔らかい日差しの中で駅の周りを見ると、昨日の大宮で受けたのとは対照的な印象を受けた。
「慎吾、なんだか昨日の大宮は夢だった見たい。だって、この駅、あまり都会とは思えないよね。これでも、同じ埼玉なの?」
「あぁ。あまり気に留めていなかったけど、埼玉はかなり大きいということだな。都会から、田舎から、山岳地帯まである。北海道のようなものかな。」
「それは大げさじゃない。それに北海道は海に囲まれているし。」
「それもそうだ。埼玉に海はなかった、と思う。」
「とにかく、バス停を見つけて、バスに乗ろう。」

二人は近くのコンビニでおにぎりを買い、安心~の宿方面の最初のバスに乗った。なんと、バスの本数は極めて少なく朝の時間帯でも30分は待ったろうか。そして、バスが進むにつれて益々田舎になってきた。バス停で降りたとき、麗名は多少なりともショックを受けているようだった。
「慎吾、何もないね、この辺。農地の中に家がぽつぽつっていう感じで。私たちの町より田舎かも。」
「そこまではいかないんじゃない。結構交通量もあるじゃない。」
その時、軽自動車が2台ほど通った。
「だけど、確かに田舎だ。この辺に仕事あるのかな?」

パンフレットに従って、しばらく歩くと、そこに安心~の宿があった。普通の家だが、確かに看板がかかっている。そして、「第一宿」と書いてある。
「これって、第二とか第三もあるってことかな。兎に角、ベルを鳴らしてみよう。」

6.安心~の宿

すぐにエプロンをかけ、宿で働いていると思われる女性が出てきた。
「はい。おはようございます。安心~の宿です。」
麗名が口を開いた。
「このパンフレットを見て来たのですが、今晩泊めていただけますでしょうか。」
スタッフと思われる女性が答えた。
「どうぞ。どうぞ。こっち来てください。どこから来ましたか?」
慎吾と麗名にはこの女性が完全に日本人と思えたが、日本語に多少訛りがあると感じた。
「北海道です。観光業界の不振で私たち二人とも働いていた観光会社が先週倒産してしまいました。町には他に産業もなく、新しい土地で仕事を探そうとして出てまいりました。このパンフレットは何年か前に私たちがガイドをさせていただいた老夫婦が落としていったものだと思います。」
「そうですか。大変ですね。安心してください。ここにいる間にきっと新しい仕事が見つかりますよ。」
「ありがとうございます。ほんとに助かります。」
「で、あなたたちの名前は?」
「夫が、石館、慎吾。私は麗名です。」
「え?」
スタッフが驚いて聞き返した。
「慎吾さんに、麗名さん?」
「そうです。なにか?」
そのスタッフは黙って、何かを思い起こしているようだった。
「あなたたちは知らないと思いますが、この施設を作ったカップルがしんごさんとれいなさんと言いました。とっても仲の良い二人でした。」
「『でした』と言うのは?」
「悲しいですが、二人は6年前の北海道旅行の帰り、飛行機事故で死んでしまいました。施設の人たちが二人の引退を祝ってプレゼントした旅行なのですが、残念です。」
「え?!まさか。あの7月5日の飛行機事故ですか?」
「そうです。7月5日でした。」
慎吾と麗名は急に黙ってしまった。二人にはもう疑いの余地はなかった。今度は、慎吾が口を開いた。
「6年前の7月5日、決して忘れることはありません。その日に僕たちは結婚したからです。それは、その前日、このパンフレットを落としたと思われる老夫婦が僕たちに声をかけてくれたのが切っ掛けでした。『仲がいいわね』と声をかけてくれたのです。その瞬間にもう待ちきれなくなって、僕はその老夫婦の目の前で麗名にプロポーズして、すぐ翌日結婚したんです。まさか、あの事故機に乗っていたとは。」
「そうですか。その二人がここを作ったしんごさんとれいなさんに間違いありません。でも、あの二人は最後まで恋人で、一生結婚はしていないのです。」

スタッフの女性は早速二人を開き部屋に通した。
「二人なので、この部屋を使ってください。私はモモです。ほんとはモーモーなんですが、牛の鳴き声みたいなので、こう呼んでもらってます。私はミャンマーから来ました。」
「モモさん、どうもありがとう。ミャンマーですか。」
「疲れていると思いますから、まずはゆっくりしてください。」
「ありがとうございます。」

モモが出て行った後、二人はすぐに布団を敷いて寝てしまった。麗名が目を覚ましたのはもう夕方だった。慎吾はすでに目を覚まして天井を見上げている。
「あ~、疲れていたから長いこと寝てしまった。慎吾、モモさんにお話ししないとね。」
「じゃ、様子を見に行こう。」
二人は部屋から出てモモを探した。モモは、台所で夕食の用意をしていた。
「モモさん、二人ともすっかり寝込んでしまって。」
「旅の疲れは取れましたか?北海道からは遠いでしょう。」
「いろいろな乗り物を使って、二日と少しかかりました。フェリーと駅前のベンチで一泊ずつして。」
「それは大変でしたね。もうすぐ食事ができます。そしたら、みんなで一緒に夕食にしましょう。」
「ありがとうございます。」

夕食時には、慎吾、麗名、モモの他にも滞在者が数名いた。皆独り者のようだった。その内の一人は、かなり暗い表情をしていた。その人に、モモが優しく声をかけている。途中で、宿の管理をしているという高梨義男とその奥さんも現れて慎吾と麗名と挨拶を交わした。義男とその奥さん、両名とも引きこもりだったと聞いて、慎吾と麗名は少なからず驚いた。今の二人はとてもそうは思えない。

食事の後は、慎吾と麗名も食器洗いを手伝った。モモが礼を言った。
「手伝ってくれて、助かります。」
「だって、モモさんは、一人でたくさん仕事をされているでしょう?」
「最近は、この第一宿は私一人のことが多いんです。管理人の義男さんと他のボランティアの人たちは第二と第三の宿の方で忙しくて。」
「モモさんは、ここに長いのですか?」

「そうですね、もう8年ぐらいでしょうか。最初は、あなたたちのように泊まらせてもらいに来たんです。私はミャンマーから憧れて日本に来ました。日本語学校の学生として来たんです。ただ、十分にお金もなくて、駅の近くのホームセンターで働いていました。ところが、ミャンマーの母が病気になり一度ミャンマーに帰ったのです。母は死んでしまいました。日本に戻ってくると、仕事はくびになり、そこの寮も出されてしまったのです。ちょうどその日、この前も言った、亡くなったしんごさんがホームセンターに買い物に来ていて、この宿の事を教えてくれたのです。次の日、私はここに来ました。」
「お気の毒です。大変でしたね。」
「その時は、ほんとにどうしていいかわかりませんでした。しばらくはここで何もせずに泣いていました。ここの人たちはほんとに親切で、私の気持ちが落ち着くまでじっと待っていてくれたのです。それから、私は少しずつここの手伝いをするようになりました。そうしているうちに、管理人の義男さんから、ここのスタッフにならないかと誘われました。それから、亡くなったしんごさんとれいなさんは、もう一つ、関連の施設を作っていました。それは、安心~の家と言って、お金をほとんど使わずに共同生活をする施設なのです。ここのスタッフになって、そちらの家の住人にならないかという誘いでした。それは、私にはありがたい話だったので、すぐにそうさせてもらいました。」
「そうだったんですか。そのしんごさんとれいなさんはずいぶんと素晴らしい人ですね。私たちはほんの数時間お会いしただけですが、そんな人にお目に書かれて、そしてお二人の施設にお邪魔させていただいて、ほんとに嬉しく思います。」
「しんごさんとれいなさんはここを作る前に随分と世界中を冒険されたらしいです。初めはエコツーリズムのガイドとか、その後はモンゴルで行方不明になったしんごさんのお母さんを救済するため、アメリカで、れいなさんが働きながらしんごさんが弁護士になったそうです。どうも、しんごさんのお母さんを誘拐したのはアメリカだったらしいのです。当時のアメリカの友達には米国政府を訴訟すべきだと言われたそうですが、しんごさんたちは、訴訟するために弁護士になったのではないと言い切ったそうです。」
「凄い方たちですね。」
「でも、お二人でいる時はずいぶん可愛かったんですよ。なんだか、いつも二人でじゃれているような感じでした。」
「なんとなくわかります。北海道に来た時は新婚旅行の若い夫婦みたいな感じでした。」

7.新しい仕事

慎吾と麗名は安心~の宿で十分に休息を取った。そして、その後の事を考え始めた。
「慎吾、ここの人たちは皆親切だし、ここはすごく落ち着くところだと思う。だけど、予想以上の田舎で、仕事があまりないんじゃないかと思うんだけど。」
「僕も全く同感だな。ほんとに、そろそろ仕事を始めないと。僕たち、全くお金ないからね。そうすると、やっぱり、大介さんの勤めている会社に頼むしかないかな。」
「電話して聞いてみたら。」
「そうするよ。」

次の日、慎吾は大介からもらった紙に書いてある電話番号に電話をかけた。先方は、確かに、何某トラック会社と言って電話に出た。慎吾は恐る恐る大介のことを言う。
「そちらで運転手をしている大介さんからこの電話番号をいただいたのですが、運転手を募集していると聞いて。」
「はい。いつでも募集していますよ。免許はお持ちですか?」
「はい。大型二種です。観光バスの運転をしていました。」
「そうですか。それなら、すぐに始められます。ところで、誰に聞いたと言われましたか?」
「大介さんです。」
「それはかなり前の話ですか?」
「いいえ、一週間ほど前ですが。」
「変ですね。確かに、大介さんはこの会社の運転手だったのですが、何年も前に事故で亡くなっていますよ。」
「えっ!!!」
「あの、〇×大震災の時に、車ごと、地震で崩れた高架橋の下敷きになってしまったのです。」
「そんな。あの、あの、大きな竜の絵が描いてあった車でしょうか。」
「そうですよ。あのトラックも全損でした。会社の人みんなが悲しがりました。いい人でした。ところで、仕事はいつから始められますか?」
「あ~。すいません。ちょっと待ってください。」
慎吾には少し気を取り戻す時間が必要だった。
「すいません。ちょっと大介さんのことが気になってしまって。仕事は、すぐにも始めたいのですが、今は埼玉の田舎に滞在中でそちらに簡単に通えるようなところじゃないんですが。」
「それだったら、会社の寮に入っても構いませんよ。」
「えっ、寮があるんですか。妻もいるんですけど、一緒に入れますでしょうか。」
「あいにくですが、運転手のための施設なので、男性だけに限られています。」
「そうですか。ちょっと妻と相談してまた電話していいですか?」
「どうぞどうぞ。会社の近くにはいろいろとアパートもありますよ。ひと月も働けば、入居に必要な費用は作れるはずです。では、電話をお待ちしてます。」

慎吾は早速、麗名に話の内容を伝えた。
「麗名、一番信じられないのは、あの大介さんが何年も前に亡くなっているというんだ。」
「なんだか、不思議なことが多いわね。ここのしんごさんとれいなさんのことといい、大介さんのことといい。」
「ひょっとして、大介さんと全く同じような他人が居るってこともあるよね。」
「だけど、それだったら、どうして、大介さんの働いていた会社の電話番号をくれたの?」
「そうだな。一番簡単な説明は、」
慎吾はためらっている。麗名が続けた。
「幽霊かなにかっていうこと?あの大きなトラックごと?」
「うん。信じられないよね。」

二人は、暫く黙って考え込んでいた。そして、慎吾がまた始めた。
「兎に角、仕事はあるということなんだけど、寮が男性のみだって。一か月働けば近くのアパートを借りられるということも言っていた。」
「そうね。私、もちろん慎吾と離れたくない。だけど、今のところ、他に方法がないみたいだから、一か月というのだったら我慢できるかもしれない。私たち、あの湖畔の修学旅行から今まで、一日も離れたことがないの気が付いてる?そして、結婚してからは昼も夜も毎日一緒だった。だから、今回が初めての別々の生活になるわね。」
「僕も辛いけど。麗名、一か月我慢しよう。」
「分かったわ。」

慎吾は会社に電話して、その翌日に会社に出向きその次の日から運転したいと申し出た。そして、一か月寮に入りたいとも伝えた。会社側は喜んで受け入れてくれた。その夜、慎吾と麗名はあたかも二人の最後の晩のような情熱で過ごした。

翌日、慎吾は埼玉南部にある会社に向かって出発した。麗名はバス停で慎吾を見送ると宿に戻った。もうすでに、麗名は宿の雑務の手伝いを始めていた。仕事に必要なため目覚ましは慎吾が持って行ってしまったので、麗名は朝起きられるか心配であった。それで、宿の人に頼んで、慎吾がいない間は起こしてもらうようにした。

慎吾は電車を乗り継いで、昼頃その会社に着いた。早速、雇用と入寮の手続きを済ませた。そして、運転するトラックと次の日の仕事について説明を受けた。その日は寮で夕食を食べ、早く休んだ。翌朝は早く起きて、仕事の準備をし、さっそうと出かけた。同じ大型と言っても、観光バスとトラックの仕事は全く勝手が違う。最初の数日は戸惑うことが多かった。途中トイレに行きたくても、観光バスのようにちょくちょく駐車場に止まる訳ではない。そして、どこのコンビニにも簡単に駐車できると言う訳ではない。だが、次第に仕事にも慣れてきた。

一週間ほど経ったころ、慎吾は新潟までの仕事が入った。関越自動車道を通って行く。安里町のそばを通るのだ。そこで、慎吾は麗名に電話して、一緒にトラックに乗りたいか聞いた。関越道の安里町付近のバス停に朝7時ころに来れれば、乗せられると思ったのだ。麗名は大喜びで、宿のスタッフにどうやってそのバス停に行ったらいいか相談した。
「麗名さん、私はそのバス停行ったことないけど、関越道までは少し遠いのでは。義男さん、どうやって行くか知ってる?」
その話を横で聞いていた義男が口をはさんだ。
「そこに行く便利なバスはないな。歩くと一時間くらいかかりそうだし、オレが車で送ってやるよ。帰りも電話してくれれば、向かいに行くよ。」
「ほんとですか、義男さん。どうもありがとう。明日の朝お願いします。それから、もう一つお願いなのですが、私とても朝に弱いのです。すいませんが、万が一、起きていなかったら起こしていただけますでしょうか?」
「あぁ、いいですよ。でも、オレは慎吾さんみたいに優しくないよ。」
「分かりました。努力します。」

次の日、案の定、麗名は自力では起きられず、義男の助けが必要だった。麗名は顔を洗っただけで、朝食も取らずに義男の運転する車に乗り込み、関越道のバス停まで行った。そこには、すでに、大きなトラックが止まっていた。トラックの横には何枚か画用紙をつなげたものに何やら動物の絵が描いてあるものがテープで貼ってある。麗名は義男に礼を言うと、バス停までの階段を一気に駆け上り、トラックに乗り込み、即座に慎吾に抱き着いた。
「慎吾、寂しかった。会いたかった。」
「同じだよ。今日は最高だな。ところで、竜の絵見た?」
「あれ、竜だったの?猫かと思った。」
「ひどいなぁ。いずれは、大介さんのトラックのように大きな竜の絵を描きたい。今のところは、あれで勘弁。」

慎吾の運転で、トラックは走り始めた。麗名は相変わらず、慎吾に寄り添っている。
「僕の方は仕事も覚え、順調だよ。麗名は?」
「宿では皆親切にしてくれるので、ほんとにありがたい。今日は義男さんが私のこと起こしてくれたの。あの人ぶっきらぼうな感じだけど、凄く親切で。」
「それは、参ったな。麗名の朝起き苦手はもう有名になっているようだな。」
「私、これでも努力しているつもりなんだけど、ひょっとしたら、どこか体でも悪いのかしら。」
「心配だな、そんなこと言われると。健診でもした方がいいかな?」
「ううん。他に何ともないし、大丈夫だと思う。」
「じゃ、もし、気が付いたことがあったら、早く言ってね。」
「うん。そうする。それで、今日寝坊しちゃったから、お弁当作れなかったんだけど。」
「今日は、寮母さんがおにぎり作ってくれたよ。二人分だよ。」
「ありがたいね。慎吾も、いいとこに住んでるんだね。」
「あぁ。でも、順調に行けば、来月は僕たち二人のアパートが借りられる。それまでの辛抱だ。そして、今日は新潟で一泊だ。お金を使わないために、車でいいよね。」
「もちろんよ。慎吾と一緒だったらどこでもいい。」

二人にはあの観光バスの運転手とガイドの生活がわずかに蘇っていた。途中はサービス・エリアで昼食を食べ、新潟のはずれの目的地で荷物を降ろすと、近くで夕食を食べた。その後は、二人で後ろの簡易ベッドに潜り込んだ。
「これ、狭くてごめん。一人分だからね。」
「私たちの初めての夜覚えてる?私たち一式の布団で寝たよね。」
「あぁ、そうだった。いつも一人分の広さがあれば十分だよ。あぁ、たったの一週間そこそことは思えない。長かったなぁ。」
「私も。でも、今日は最高。」

翌朝は、慎吾が先に起きて、車を動かし始めた。麗名はまだ起きられないでいる。少し走ったところで、やっと麗名が起きたので、二人はお土産屋に立ち寄ってコーヒーとサンドイッチを仕入れた。
「そして、宿の人たちにお土産を買っていこう。」
「そうね。何がいいかしら。」
二人はあれやこれやとみていたが、少しありきたりではあるが、やっぱり笹団子にしようということになった。
「よかった。私、宿ではお世話になってばかりで、申し訳ないと思っているの。それで、最近は少しずつ宿の仕事を手伝うようにしてるの。この前は、私の母から教わった料理を少し作ったのよ。みんな喜んでくれた。」
「そりゃ、よかった。いいな、みんな。麗名の手料理が食べられて。」
この二日間はあっという間に過ぎた。気が付いた時はもう降りる予定のバス停に差し掛かっていた。二人は抱き合い、口をつけて別れた。その後、麗名は少し歩いて電話のある所まで行き、義男に電話して迎えに来てもらった。そして、最初の一か月のうちに、もう一回同じようなことが出来た。

やがて、一か月が過ぎ、慎吾は最初の月給を受け取った。すぐに、近くの安アパートを借り、麗名を呼び寄せた。宿のスタッフは麗名が居なくなるのは寂しいと言ったが、なんと言っても慎吾と麗名が一緒に生活できることを喜んでくれた。慎吾は最寄りの駅まで麗名を迎えに行き、寄り添ってアパートまで歩いた。アパートに入った時、慎吾は言った。
「麗名、やっと、僕たちのアパートだ。実は、まだ寝具がないのだけど、今日はいいかな?」
「そんなの構わない。自分たちのアパート嬉しいなぁ。寝具は、明日私が買い物に行ってくるよ。キャンプ用の軽いのにしようか。」
「うん。それでいい。ところで、お茶碗だけは買っといたよ。あの壊してしまったものに出来るだけ似ているものを探したんだ。」
「ありがとう。じゃ、早速お茶飲もうね。」

そして、次第に、麗名もいつも一緒にトラックに乗って行くようになった。こうして、二人の一緒の生活が復活した。毎日毎日、二人はいろいろなところに出向くことになる。東京の都心を始め、関東全域、甲信越、東海、そして、東北地方を旅することになる。

8.東京見物

アパートの生活が落ち着いてきた頃、麗名がまずしたかったのは、東京観光であった。修学旅行で行けなかったところ、そして、憧れた大都会である。麗名は慎吾に希望を伝えた。
「慎吾、はい。これ、私の作った東京見物のリスト。安心~の宿に居るときに人から聞いて作ったの。そして、これを修学旅行と同じ日数の三日間で見たいんだけど。実際には、日曜日三回でいいかな。」
「どれどれ。ちょっと、麗名。このリスト大きすぎない?三日で見るのはとても無理だと思うけど。」
「そうかしら。それじゃ、三日って決めることないわね。どうせ私たち、もう東京から川一本隔てただけの所に住んでるんだから、全部見たい。」
「わかったよ。早速今度の日曜から始めようか。」
「うれしいなぁ。」

麗名のリストの一番は、新宿の高層ビル街であった。地面から見上げる高層ビル群は麗名の想像以上の圧巻で、二人はそこにあるビル何本もの周りをずっと上を見ながら歩いてみた。ビル街に働く人々には、典型的なお上りさんと映ったろう。その後、都庁の展望デッキに行った。そこから見える東京メガロポリスの景色に麗名の眼は奪われた。制限時間がなければいくらでもそこで過ごせると思った。
「これ、ほんとに凄いね。慎吾が前に、東京近辺の大きさが異常だって言っていたのがよくわかる。こんなにたくさんの人たちがここに住んでいる。そして、ほとんど誰も農作物や食料を作っていないんでしょう。どうなってんだろう?」
「いい質問だね。世界七不思議の一つだ。それから、さっき、誰かが喋っているのを聞いたんだけど、平日に六本木ヒルズに行くと、展望台でゆっくりといくらでも景色が見えるらしいよ。」
「それ、素敵!もし、代休とかで平日に休みが取れたら行こうね。」
「あぁ。多分そう日もあるだろう。」

次の目的地は渋谷と表参道。麗名は渋谷の交差点で、長いこと通行人を見ていた。人々のかっこを見ているだけで面白いと言うのだ。表参道のしゃれた店には縁が遠かったが、喫茶店でコーヒーを飲んでくつろいだ。少し、高級な気分に浸った。

その後、地下鉄で浅草に向かった。東京の下町は新宿や渋谷とは対照的なところだ。そして、浅草で麗名の一番びっくりしたのは、外国人観光客の多さだった。
「ここ、ほんとに、日本?って感じね。」
「なんだか、喋っている言葉は中国語ばっかりに聞こえるけど。」
「それは、慎吾には何語がわからないだけじゃないの?」
「そうかもしれないけど。見てごらん。お土産の札だって、英語や中国語で書いてあるよ。」
「そうね。それにしても、なんだか、ここはほんとの東京の下町ではなくなってしまったみたいね。慎吾、あそこにスカイツリーが見えるけど。」
「あぁ。すごく高いね。こんな、視界のいい日には飛び込みでは展望台へは行けないだろうな。」
「そうね。私、あの、平日の六本木ヒルズの方に興味がある。」
「じゃ、スカイツリーはパスして、次に行こうか。」
「次は、上野動物園。恋人にはいいとこだって。私たちに向いてるでしょ?」
「そうだね。」

二人は動物園でいろいろな動物を見た。
「私は、ほんとは、動物たちがオリの中にいるの可哀そうだと思うんだけど。私たちの育ったあたりには動物園はなかったけど、結構いろいろな動物がいたよね。作物を荒らすとか問題になっていたこともあったけど。」
「うん。あそこ見てごらん。確かに、あの白熊の行動がどうも変だよね。左右に行ったり来たりしている。なんか、精神障害のある人の行動みたいだよね。」
「そう言われてみればそうね。私はさすがに北海道でも熊は見たことないけど、白熊さんは寒いところから無理やり連れてこられて可哀そうだ。」
二人は、少し複雑な気持ちになってきて、動物園を後にした。若い恋人が寄り添って歩くのにはどこでも構わなかった。

それから、二人は銀座へ行った。ここも外国人観光客が多いことに気が付く。いろいろな店に何気なく入ってみた。その一つは、山野楽器であった。5階か6階のビルのすべてのフロアで楽器や音楽関係のものを売っている。
「慎吾、凄いね。一遍にこんなに沢山の楽器を見たことないよね。ねぇ、何か一つ楽器を買っていい?」
「えっ?麗名、何か弾けるの?」
「何も。私は慎吾が知っている通り、貧困家庭の子供だったから何にもできないよ。学校の音楽の時間にハーモニカと縦笛を習っただけ。」
「そうか。いいよ。うちはアパートだから、トランペットとかバイオリンはうるさすぎるよね。それにしても~、ちょっと、この値段見たら、びっくりするなぁ。」
麗名はいろいろな楽器を見ていたが、嬉しそうな顔をして言った。
「私、決めた。ハーモニカがいい。学校時代に習ったから取り敢えず吹けると思う。それに、小さいし、安いし、トラックで練習するのに最高じゃない?」
慎吾は、ほっとした。
「そりゃ、いいや。ピアノが欲しいとか言われたらどうしようかと思ったよ。」

その後、二人はデパートに入った。一通り、上の階から見て、地下の食品売り場へ行った。
「慎吾!私は、あの大宮のデパ地下でかなり興奮したけど、ここはそれどころじゃないね。そして、これだけの食べ物全部売れるのかしら?ねぇ、何か買っていってアパートで食べる?」
「いいよ。実は、僕は肉まんが食べたい。」
「じゃ、私は餃子にしようっと。分けようね。」

という按配で二人の盛りだくさんの東京見物一日目は終わった。その後も、何回か日曜日に東京に出かけた。二日目は、お台場と羽田空港。二人とも、まだ飛行機は乗ったことがない。そして、只々、飛行機の離着陸を見ていても飽きなかった。三日目は、変わったところで、屋外博物館あるいは公園といった感じの江戸東京たてもの園、地元の買い物の街として楽しい吉祥寺、最後に、深大寺で野草そばを食べてきた。また、東京ではないが、四日目には、横浜と鎌倉へも行った。それで、ほぼ麗名のリストを制覇した。当初は多摩動物公園もリストに入っていたが、上野動物園で、動物たちが可哀そうに思い、行かなかった。修学旅行で行けなかった東京をたっぷりと体験出来て、麗名はそれなりに満足したようであった。
「楽しかったね、東京見物。それでもね。私は、やっぱり修学旅行は行かなくて良かったと思う。だって、慎吾が湖畔のデートに誘ってくれなかったら、こんなに楽しい東京見物は出来なかったから。慎吾が居なかったら、私はまだあの町のコンビニで働いていたと思うよ。」
「でも、修学旅行に行っていたら、麗名はもっと素晴らしい人生を送っていたかもしれないよね。」
「変なこと言わないでよ。でも、確かに、修学旅行に行けなかったことが良かったんじゃなくて、慎吾が居たことが良かったんだ。修学旅行に行けなくて幸せになったなんて、稀なケースだよね。多分、私みたいな子供は他にもいるんだろうなぁ。」

9.麗名の免許

いつものように二人でトラックに乗っている時、麗名が少し恥じらいながら聞いた。
「慎吾、私にはトラックの免許取れないかしら。」
「えっ?本気?この車は大型一種が必要で、普通免許よりかなり大変だよ。麗名はまだ普通免許さえ持っていないじゃない。」
「そうなんだけど、私が免許持っていたら、交代で運転出来て良くない?」
「それは、凄くいいアイデアだけど。まぁ、麗名がやってみたいんだったらいいよ。まずは、普通免許を取らないと。その後、三年で、大型受験資格が出来る。麗名も良く知っている通り、普通免許を取るとき、僕は教習所に行けなかった。それで、かなり、てこずった。僕たちは今は少し余裕があるから、麗名は教習所に行った方がいいかもね。その間は、僕一人で仕事に行ってもいいし。それでも、泊りの時は一緒に来てくれると嬉しいんだけどね。」
「じゃ、そうするね。ありがとう。」

正直言って、慎吾は麗名が運転に向いているかどうか分からなかった。自転車さえ乗ったことのない人だ。ただ、料理の様子を見ていると、手先は器用に思える。さて、実際に、麗名が教習所に行き始めると、慎吾は少なからずびっくりした。まず、仮免まで最短時間で進み、仮免も一回で通った。その後も最短時間で進み、路上試験も一回でパス。麗名は当たり前のような顔をしているが、慎吾にはすこし理解できなかった。どうやら、麗名は教官に言われたことを律儀にこなし、丁寧に運転する。危ないことや、無茶をしない。そのため、意地の悪い教官でも落とす理由がないのではないかと思われた。と言う訳で、麗名はいとも簡単に普通免許を取った。その後は、時々会社のワゴンを借りて、近くをドライブしたりした。しかし、免許を取るのと、実際に運転するのではかなり訳が違う。慎吾から見ると、麗名の運転は極めてとろい。うまく交通の流れに乗れないし、ゆっくりすぎて、後ろの車にラッパを鳴らされるということが少なくなかった。それでも、麗名は自分で車が運転できるということに、それなりに自信を持ったようで喜んでいた。ある休みの日、二人はやはり会社のワゴンを借りて、安心~の宿までドライブした。もう尋ねる親族のない二人にとって、ここが実家のようなものになっていた。スタッフ一同、麗名が運転しているのを見てびっくりしたが、大変喜んでくれた。その後、麗名の運転で、宿の人を数人連れて駅の近くの食堂へ昼食を食べに行った。

そして、それから二年半を過ぎた頃、慎吾は会社の人たちと麗名が大型一種を取ることについて話し始めた。会社にはトラックがあるし、まずは駐車場で練習をしても良いということになった。その後は、慎吾がトラックを運転して、自由に使える練習場へ行き、麗名の練習に利用したりした。さすがに大型の車両感覚は難しいようで、普通免許よりは時間がかかるようだった。それでも、半年の準備期間を経て、普通免許取得から三年と少しで大型一種の仮免を取得した。この時の麗名の喜びはただものではなかった。自分で大いに手を叩いて喜んだ。慎吾もたいそう喜んだ。そして、お祝いとして、会社の許しを得て、二人のトラックの横に大きな竜の絵を描いてもらった。二人は亡くなった大介の思い出をそのまま残したいと思ったのだ。

その後は、慎吾の仕事が路上実習の良い機会で、いくらでも練習出来た。数か月後、麗名は難なく大型一種免許を取得した。これで、正真正銘、夫婦での仕事が出来るようになった。当然、二人で一台なので、給与が増えるわけではない。それでも、いつでも交代で運転できるのは非常に便利なことであった。そして、ごくまれに、2台同時に必要な時には慎吾と麗名が一台ずつ運転して行くということもあった。いずれにしても、麗名のような女性が大型を運転しているとよく冷やかされたり、馬鹿にされたりした。そんな時は、いつも慎吾が麗名をかばった。

二人は、トラックに乗っている時にラジオで音楽やその他の番組を聴くこともあった。慎吾も麗名も全く音楽の素養はなかったが、ラジオで少しずついろいろな音楽を聞いて、それなりに好き嫌いも生じてきた。例えば、麗名はある種のクラシックが気に入ってきていた。それは、ベートーヴェンでもなく、モーツァルトとでもなく、シューベルトとでもない。なぜか、ドビュッシーとか、ラベルとか、リストであった。また、ある時、何かの番組で、何十年も前に海外で活躍していた日本人の大道芸人のカップルのことを聞いた。女性がハーモニカを吹き、男性が手品をするというのだ。そして、番組の終わりに、彼らの名前を言ったのだが、電波が弱いところではっきりは聞き取れなかった。
「麗名、今の聞き取れた?なんだか、シンゴとレイナって言ってたようだけど。」
「私にもそう聞こえた。だけど、ちょっと雑音が多くてはっきりはわからい。その頃って、ひょっとすると、安心~の里のしんごさんとれいなさんがエコツーリズムのガイドをしてた頃だと思うけど、まさかあのふたりじゃないよね。宿に居たとき、しんごさんがピアノを練習していたという話は聞いたし、その電子ピアノを義男さんが弾いてくれたのは知ってるけど。ハーモニカとか手品とかっていう話は聞いたことがない。それに、ガイドの仕事の途中にパフォーマンス出来るわけないよね。」
「うん。そうだね。聞き間違えかな。それとも、他にも同じ名前のカップルが居たのかな?」
「でも、ちょっと刺激になった。もう少し、ハーモニカ練習しとこうかな。万が一、仕事がなくなった時に大道芸人という道があるかもしれないし。」
「それには相当練習しないとな。」

10.岩手

そんなに頻繁にではなかったが、慎吾と麗名はヒッチハイクしている人を乗せることもあった。彼ら自身、ヒッチハイクの恩恵を受けたので、ヒッチハイクしている人たちには十分同情する。ある時、高速に入る少し手前の街道で、「岩手」と書いた札を持っている人がいた。丁度青森まで行く仕事だったので、乗せてあげることにした。麗名が真ん中にずれてその若い男性をはじに座らせた。
「ありがとうございます。助かりました。僕は武良義明と言います。人に言わせると、苗字と名前が混同しがちだそうです。」
「僕たちは、石館慎吾に麗名です。それでは、岩手ですね?高速のサービス・エリアとか高速バスの停留所で良いですか?」
「そうですね、岩手県に入って最初の安全に止まれるところで結構です。それから、釜石方面に行く方法を考えます。」
「分かりました。」

暫く、三人は無言でいたが、武良が突然口を開いた。
「実は、僕はまだ会ったことのない父親に会いに行くのです。あまり期待はしていないのですが、今は仕方がないのです。」
麗名が。
「そうですか。大変な事情がありそうですね。」

「僕が生まれてすぐに両親は離婚し、僕は祖父母の所へ預けられました。母は時折やってきましたが、その後再婚して子供が出来ると、その後はめったに会ったことはありません。学校では『親なしっこ』といっていじめられました。僕はいつも、『禿げ頭のじじいがいるからいい』と強がっていました。高校を卒業と同時に一流自動車会社に職工として入社し、社員寮に入りました。その時、僕はもう母親には会うまいと決めました。一人でやって行こうと決めたのです。仕事は楽ではないし、これといった楽しみもない毎日でした。それでも、独立出来たことに対する満足感はありました。それで、もう十年くらいそのまま務めていました。ある時、工場の事務をやっている女の子から声をかけられました。お茶でも飲みに行かないかと言うのです。僕は全く女性と付き合ったことがなかったし、もう誘われただけで嬉しくて、早速ついて行きました。その子はまぁ、特に目立つところのない普通の女の子でした。当然、僕がそこの支払いをしました。その後は、その子に良く誘われるようになったのです。お茶に、食事に、都内の観光とか。当然、費用はすべて僕が払いました。その子は、九州の田舎の出身と言っていました。僕はもう彼女が出来たと思って毎日ウキウキしていました。何か月かして、今度は、その子が、一緒に住まないかと言うのです。これにはびっくりしました。僕は、もうこんなチャンスはないだろうからとすぐに応じました。二人でアパートを探し、僕が契約しました。そこは、僕の給料には少し高すぎるくらいの所でした。まず、初めに、僕が引っ越しました。そして、しばらくして、その子も引っ越してきました。僕はもう気が気ではありませんでした。ところが、最初の夜、その子は頭が痛いから一人で寝たいというのです。僕は物凄くがっかりしました。それでも、彼女の体の方が大事だからと思い言われるままにしたのです。僕はリビングのソファーで寝ました。ところが、最初の日だけでなく、毎日、毎日、いろいろな理由で同じことが起こるのです。僕は、その子が僕のことを好きかどうか疑い始めました。ある時、その事を聞くと、『好きじゃなかったら、一緒に住もうなんて言わないでしょ』という返事でした。それで、僕はもうその事は口に出すことが出来ませんでした。それでも、毎日夕食を食べに行き、休日は映画を見たり、ゲームセンターに行ったり、お金を使うことばかりしていました。そんな調子で、僕は持っていた貯金は使い果たしてしまいました。そして、これはつい最近なのですが、会社で事件がありました。その子は経理部に居たのですが、非常に巧妙な手口で会社の資金を使い込みしていたそうなのです。その事件が発覚する直前にその子は失踪し、さらに悪いことに、僕が共犯として記録に残されていたのです。その子はいずれ発覚するということを分かっていたようです。その後は、僕にとっては大惨事で、会社は即刻くびになり、昨日の夜でアパートを追い出されました。荷物の整理をする暇もなく、もう入ってはいけないと告げられました。昨日の夜は飲めない酒を飲み、街をさまよいました。今朝、慎吾さんと麗名さんに拾ってもらってほんとに感謝しています。」

慎吾と麗名自身、苦労はしてきたが、人には助けられてきた。それに比べると、武良の経験はあまりに不幸に思えた。なんと言っていいか分からないうちに、また武良が口を開いた。
「すいません。あまりにつまらない話で。ただ、どうしても吐き出したかったのです。」
「お気の毒です。」
それが、麗名の言える一言だった。
「ところで、慎吾さんと麗名さんはどうやって知り合ったのですか?」
麗名は簡単に自分たちの事を話をした。武良はずいぶん熱心に聞いていた。何度も、何度も相槌を打っていた。
「それは、素晴らしい話ですね。いつも二人で一緒に居られるなんて羨ましい限りです。僕も一時はそんな生活を夢見ていました。」
「武良さん。岩手のお父さんの所へ行くと言っていましたが、どのようにして所在が分かったのですか?」

「それは、彼女の様子がおかしいと思い始めた矢先でした。なんの前触れもなく、少し年がいっていると思われる男性から電話があったのです。僕の父親だと言うのです。いろいろ調べて僕のことを見つけたと言いました。父には生まれてから一度も会ったこともないし、向こうから連絡してきたのも初めてです。僕としては、あまり真剣に取ることは出来ませんでした。それでも、母とは縁を切っているし、彼女の状態もおかしいので、一応話だけは聞こうかと思いました。父の話では、今、岩手県の釜石に住んでいるそうです。数年前の大津波で後妻と子供二人、そして、後妻の家族全員を失った。その上、今まで営んできた小さな電気店も失ったらしいのです。これから、何とか、その電気店を再建して経営したいので、一緒にやらないかということでした。そして、連絡先を言い残しました。僕は、今までのこともあるし、100%父を信用することは出来ません。それでも、何かあたらしい発見があるかもしれないと思い、兎に角会ってみようと思っているのです。」

途中、郡山のサービス・エリアに止まり、昼食を食べた。慎吾と麗名は武良にご馳走すると言った。武良は始め遠慮していたが、慎吾がすでに他界していた大介にやはり、郡山でご馳走になった話をしたところ、素直に応じた。食事の後、今度は麗名がハンドルを握ると、武良はびっくりした。
「えぇ!麗名さんも運転するんですか?」
「さっき言い忘れたかもしれませんが、私たち交代で運転するんですよ。これでも私も大型持ってますので。」
「それは驚きました。ほんとに、良いですね。ほんとに、羨ましい。僕はつまらない出会いで人生を無駄にしてしまった気がする。」
今度は、慎吾が言った。
「そんなこと、まだ先はわからいじゃないですか。」
そして、この時、慎吾の頭になぜかモモの顔が浮かんだ。
「武良さん、まだまだ、良い女性はたくさんいますよ。お父さんとはうまくいくといいと期待していますが、万が一、無料の宿泊施設が必要だったら、僕たちのお世話になった、『安心~の宿』というのが埼玉県安里町にあります。とてもいい人たちで、親族のいない僕たちの実家みたいになっているんです。」
「それは、良いことを聞きました。ひょっとするとお世話にならないといけないかもしれません。なんせ、これから会う父とは初対面ですから。それから、無理は言いませんが、もし、慎吾さんと麗名さんにまた連絡したいときはしてもいいですか?」
「もちろんです。僕たちのアパートの電話番号はこれです。念のため、会社の番号も書いておきます。いつでも連絡してください。気を付けて。うまくいきますように。」

武良は岩手県に入った最初のパーキング・エリアでトラックを降りた。丁寧にお礼を言い、何度も何度も頭を下げていた。どうやら、目の下にはしずくが落ちていたようだった。麗名は慎吾に、言った。
「大変ね、武良さん。私は慎吾に会うまでいい男性と巡り合えるとは思っていなかったのだけど、慎吾に救われた。」
「いや。僕が救われた。そして、僕たちの今までも結構大変だったと思っていたけど、どうやら、僕たち、今は幸せすぎる気がする。」
「ほんとね。ありがたい。」

11.福井

今回の仕事は二人には珍しい西日本行きとなった。目的地は福井県福井市。帰りはいつものように空荷だが、会社の人と話して、目的地近辺で休暇として2泊してから帰ってきてよいということになった。せっかくだから、往復で違う経路をということになった。行きは、関越自動車、上信越自動車道、そして、北陸自動車道。帰りは、北陸自動車道、名神高速道路、そして、東名高速あるいは新東名高速道路と言う計画を立てた。両方向とも早朝に出発し、その日の夜にその日の行程を終える計画だ。すると、中日は丸一日自由時間となる。

慎吾と麗名が福井に向かって走っている頃、若い女性二人がやはり福井市方面に向かっていた。理奈と佐保子は金沢から福井まで快速で行き、そこからえちぜん鉄道に乗り換え三国港まで行った。二人はどういう関係だろうか、しっかり寄り添っている。そして、全行程黙ったままである。二人とも表情は異常に厳しい。駅からは徒歩で、全国でも有数の観光名所東尋坊の方へ向かっている。空には重い雲が立ち込め、ひょっとしたら雨が降るかもしれないような空模様だ。二人は、観光客で込み合っているお土産屋や食堂が立ち並ぶ通りを進んでいったが、急に食堂に入って昼食をとった。依然黙っている。それから、海岸の方へ向かって行って、遊覧船に乗った。二人は船から崖っぷちを注意深く見ている。その後、二人は崖っぷちをゆっくりと歩いていた。所々で立ち止まり、あたりの様子を注意深く観察している。二人は午後、ずっとその辺で過ごした。普通の観光客はそんなに時間を費やさないだろう。そして、夕暮れ時、また先程のお土産屋の通りに戻って、コーヒーを飲んでいた。佐保子は二杯飲んだ。もうほとんどの観光客は帰ってしまった。お土産屋も締まり始めている。二人はそこを出ると、駐車場を抜けて、バス通りの方へ行った。そして、そのそばにある公園に入り、ベンチに腰かけた。二人は恋人のように寄り添っている。以前言葉はない。そして、日が暮れ、黄昏時も終わり、しまいには、真っ暗になった。佐保子が「行こう」と囁いた。二人は立ち上がり、ゆっくりと海岸の方へ歩き出した。もう人影はないが、誰かがいるようだと、二人は立ち止まり、様子を伺っているようだった。そして、直に、崖っぷちについた。そこは大池と呼ばれる場所であった。

佐保子は理奈の手をとり、また「行こう」と言い、飛び出した。その時、理奈は突然佐保子の手を放し、全力で反対の方向へ戻った。気が付くと、そこにはもう佐保子の姿はなかった。理奈は体中が震えていた。「私も行ける、私も行ける」と小声で言いながら、両足は硬直してそこから動けない。その時、遠くの方に、懐中電灯の光が見えた。理奈は慌てて、お土産屋の通りを抜けて、またあの公園に戻った。さっきと同じベンチに座った。ただ一つ違うのは、もう佐保子がいないということだった。理奈はどこにも行けず、何もできずに、ただそのままそこにいた。

慎吾と麗名にとって、信州から日本海岸に抜けて福井市まで来るのは初めてのコースで、特に麗名は新しい景色を楽しんだ。昼食には日本海でとれる魚の定食を食べた。そして、無事福井市に到着し、仕事を終えてトラックで寝るところだった。宿泊代を使わないように、二人はほとんど毎回トラックで夜を明かす。座席の後ろの小さな簡易ベッドでも苦ではなかった。

そして、翌日は休暇ということで、自由日だった。朝食は街の喫茶店でモーニング・サービスをオーダーした。その後、もう帰路につき、途中の琵琶湖あたりでゆっくりと泊まろうかという案が出て、二人は北陸自動車道に入った。ところが、どういう風の吹き回しか、少し走ったところで、麗名がここまで来たからには、やはり全国的に有名な東尋坊を見たいと言い出した。そこで、急きょ引き返し、東尋坊に向かった。幸い、大きな観光地は観光バスの駐車できる場所がある。そのため、大型トラックでも簡単に駐車場に止めることが出来た。

いつの間にか昼食時に近く、二人は食堂に入って、かに弁当なるものを食べた。その時、二人の目に留まったことがある。若い女性が一人、もの寂しそうにしている。というより、何か思い詰めた様子である。慎吾と麗名は顔を見合わせた。とても重たい雰囲気があたりを漂う。それでも、何とはっきり言えるわけではなく、そこを出て、遊覧船に乗った。遊覧船の中で、東尋坊が自殺の名所であるということを聞く。それから、崖っぷちを歩いた。確かに、怖い崖だ。遠くにヨットが何艘か見えるが、頻繁に出ている遊覧船は崖の真下を通るためか見えない。しばらく歩いていると、二人は電話ボックスがあることに気が付いた。外からでも、中に「命の電話」と書いてあるのがわかる。十円玉がいくつも置いてあり、お金がなくても電話が出来るようになっている。その他にも、あちこちに自殺予防の立て札があった。二人は、この地の人々が必死に自殺予防に取り組んでいることを実感した。

崖っぷちの来た道を戻って行くと、またあの若い女性がいた。崖っぷちに立って海の方を向いている。慎吾と麗名はまた顔を見合わせた。麗名が慎吾に囁いた。
「慎吾、またあの人。まさか、自殺を考えているんじゃないよね。」
「僕も同じ気がした。とても普通の観光客には見えないよな。」
二人はゆっくりと来た道を戻った。お土産屋の通りを通って、そこで、コーヒーを飲んだ。その後、近くの公園で一休みした。今日はもう走らずにまたこの辺で泊まろうかと話をしていた。

理奈はその日、東尋坊の周りを何回も回っていた。昼食を食べたが、全く味を感じない。佐保子が飛び込んだ大池のそばにも行ってみた。「私には怖くて飛び込めない。でも、ここでいつまでもうろついていることは出来ない。」と思った。その時、ふと、命の電話に気が付いた。電話ボックスに入り、何気なしに受話器を取った。不思議なことに、お金も入れてないのに、声が聞こえる。
「もしもし。大介です。どうされましたか?」
理奈は少し変だと思ったが、救急のためにお金を入れなくても通話ができるようになっているのかもしれないと思った。思い切って話してみた。
「あの。死にきれないでいるんです。私のパートナーは昨日飛び込んでしまいました。私には怖くてできなかったのです。」
「そうですか。そうでしょう。死ぬのが怖くない人はいませんよね。」
「それでは、どうして佐保子は飛び込めたんでしょうか?」
「それは、よくわかりません。ところで、申し訳ありませんが、もう電話を切らないとなりません。もし気が向いたら、駐車場に止まっている大きな竜の絵が描いてある大型トラックに行ってください。必ず助けになると思います。」
「ありがとうございます。」
電話はそこで切れた。

理奈は大介という電話の相手が言っていることの意味はよく理解できなかった。それでも、どうすることもできずにいた。「私にはもう残されているものはない。どういう意味があるかわからないけど、大きな竜の絵が描いてある大型トラックの所に行ってみよう。」と思った。

そして、慎吾と麗名がトラックに戻った時、ドキッとした。トラックの竜の絵を眺めている人が居る。そして、その人は、あの悩んでいる様子の若い女性だったからだ。また、二人は顔を見合わせた。そして、麗名がその女性に優しく声をかけた。
「あの~。どうされましたか?」
その女性はハッとして振り返った。何も言わない。三人とも何も言えなかった。少しして、麗名がもう一度口を開いた。
「あのぉ、急に失礼しました。私たち、このトラックの運転手なんです。今日は仕事の合間の休暇でここに来たんです。」
「お二人でトラックに乗っているのですか?」
「そうなんです。こう見えても、私も運転するんですよ。私たち夫婦で交代するので、長距離も比較的楽にこなせるのです。」
「そうなんですか。珍しいですね。実は、私がこの竜の絵を見ていたのは、先程電話で話した人が大きな竜の絵が描いてある大型トラックに行ってみなさいと言うものですから。」
「どうして、私たちのトラックのことを知っていたんでしょうね。私たちは埼玉県が拠点でこの辺に来たのは初めてなんです。それで、観光でもしようかと思ったわけです。」
「それでは、どうしてあの大介さんという人がこのトラックのことを知っていたんでしょう?」
「えっ?今、大介さんと言われましたか?」
「そうです。私が先程海岸の電話ボックスで受話器を取ると、お金も入れないのに男の人の声がしたのです。その人が、大介と名乗りました。」
麗名は返答に困った。慎吾の方を向いて様子を伺っている。二人とも、この女性の様子と電話ボックスということで、命の電話の事を言っているのだと分かった。

今度は慎吾が話し始めた。
「あのぉ。僕は慎吾と言います。妻は麗名です。これは、少し信じがたい話なので、信じていただけなくてもしょうがないのですが。実は、僕たちも大介さんという人を一人知っています。僕たちがほとんど無一文で北海道から埼玉まで来るときに、大介さんと言う人が丁度このような絵のあるトラックで僕たちをヒッチハイクさせてくれたのです。ところが、一週間後にそのトラック会社に電話すると、大介さんはそれよりも何年も前に亡くなっているというのです。僕たちは、結局、そのトラック会社に就職し、大介さんへの思いを込めて、僕たちのトラックにも同じような竜の絵を描いてもらったんです。」
今度は、その女性が返答できずにいた。どうも、今聞いたことをうまく呑み込めないでいるようだ。やっとのことで、また話し始めた。
「それでは、もしかして、私の話したのは、そのすでに亡くなっている大介さんで、大介さんが私をあなた達に引き合わせたと言うのですか?」
「そうかもしれないということです。僕には理論だった説明は出来ません。」
「不思議です。その大介さんはどうして私がこんなに悩んでいることがわかったのでしょう。もう他に出来ることがないので、私のことを言ってもいいでしょうか。私は理奈と言います。」
麗名が答えた。
「理奈さん、外ではなんですから、トラックに乗りませんか。居心地のいいものではありませんが、私たちの家のようなものなので。」
「ありがとうございます。もう、どこにも行けるところはないので、お願いします。」
慎吾がハンドルを握り、理奈を真ん中に座らせ、麗名が反対のはじに座った。これは、万が一理奈がトラックから飛び出さないようにとの、麗名のとっさの判断だった。

走り始めたところで、理奈が話始めた。
「もうお気づきかもしれませんが、私は自殺をしにここに来たのです。実は、私は同性愛者で、佐保子も私も両親から反対され、親子の縁を切られました。思い詰めた私たちは、一緒に心中するつもりでここに来たのです。私には佐保子が唯一の頼れる人だったのです。それが、昨日でした。ところが、崖っぷちから飛び込もうとした時、私は怖くて、怖くて、佐保子を振り払って留まってしまったのです。佐保子は真下に落ちていったので、間違いなく死んでしまったと思います。私は途方にくれました。本当に一人になってしまったのです。佐保子を恨みさえしました。昨夜、そこの公園のベンチで眠れぬ一夜を過ごし、今日はこの辺りをうろうろしていました。その間に、あの電話ボックスで大介さんの言葉を聞いたのです。」
「そうだったんですか。なんと言っていいのか。ご両親はお二人がお互いに思いあっているのにどうして反対するのでしょう?夫の慎吾も、貧しかった私と付き合っていたことも理由のひとつで親から勘当されてしまいました。」
「そうだったんですか。それでも、お二人は、立派に生きて、私のような人を助けてくれている。そういえば、お二人はほとんど無一文で埼玉にやってきたとか。」
「そうです。埼玉県安里町に『安心~の宿』という無料の宿泊施設があるのです。そこに滞在させていただいたのです。その間に慎吾が、そのすでに亡くなっていた大介さんの紹介でこの会社に就職し、後に私も加わったのです。」
「ところで、その施設は誰でも泊まらせてくれるのでしょうか?」
「えぇ。誰でも。そこの人たちはほんとにいい人ばかりで、私たちは物凄くお世話になりました。いつも言うのですが、もう親族のいない私たちには実家のようなものです。」
「私は、死にきれず、家にも帰れず、どこにも行く当てがないんですが、その施設に入れていただけますでしょう?」
「もちろんです。当然、これは私たちが言うべきことではないかもしれないのですが、私たちはそこのことをよく知っていますから。連絡してみましょうか?」
「お願いします。」
「ところで、ここから埼玉までは丸一日の行程なので、今日はこの近くで泊まり、明日の朝早くに出発しましょうか?この近くで泊まれるところを探します。そこで、安心~の宿に連絡してみます。」
「ありがとうございます。」

この日は、慎吾と麗名はもうお互いに話もせずに三人で泊まれるところを探すことに同意していた。最初に見つけた旅館に入って、三人で一部屋を取った。これは、理奈が気が変わって自殺を図らないようにという心遣いからだった。旅館で夕食を取り、布団を三つ敷いてもらって休んだ。理奈は前の晩ほとんど眠ていなかったので、一瞬のうちに寝入ってしまった。慎吾と麗名は部屋の外に出て、少し打ち合わせをした。麗名が部屋に残り、慎吾が安心~の宿に電話してくることになった。

慎吾は義男と話した。義男はすぐに了解した。安心~の宿のスタッフは皆自殺予防の訓練を受けているので、最低限のことは知っている。慎吾と麗名のトラックは翌日の夜に会社に着く。そこで、安心~の宿の車で、誰かが理奈を迎えに行くことにした。ただ、義男は、老年のため長距離、ましてや夜の運転は避けている。そのため、比較的最近免許を取ったばかりであるが、スタッフのモモが来ることになった。それに、女性の方が理奈にとって安心だろうと言う配慮もあった。慎吾は、途中で、会社到着予定時刻をモモに連絡し、時を見計らって、モモが会社に来るという計画を立てた。

翌日は早朝の出発だった。理奈は問題なかったが、また麗名がなかなか起きられずに、出発時間が若干遅れた。トラックの中で、麗名は理奈に謝った。昼食と2回のトイレ休憩を手短にしただけで、三人は一気に埼玉の会社へ着いた。その時までにはモモが車で来ており、モモと理奈はその車で安心~の宿へ向かった。理奈は車の窓から重ねて慎吾と麗名に礼を言った。

12.大型トラック無料便乗サービス

ある日、麗名は運転中の慎吾に話しかけた。
「慎吾、理奈さんどうしているかしら。」
「どうしてるかなぁ。モモさんたちがいるから大丈夫だと思うけど。」
「そうね。私、考えたことがあるんだけど。私たち、せっかくいろいろなところへ行くわけで、もう少し積極的に、ヒッチハイクをしたい人たちを乗せてあげられないかしら。」
「それ、僕も考えたことがある。トラックの横に宣伝するとか~」
「それは、ちょっとまずいかも。ヒッチハイクってほんとは非合法なんじゃない?」
「そうだったけ。僕は昔からあまり規則に従わないタイプだったからな。あの、最初の頃の湖畔のデート覚えてる?僕が使ってないボートを引っ張り出したら、麗名はかなりためらっていたよね。」
「それはそうよ。それにね、ボートの底に穴でも開いてないかとかも考えっちゃって。」
「僕はそんなことは全然頭になかったな。ところで、ヒッチハイクのことだけど、ウェブサイトを作ってこのトラックと直接結びつけられないようにして宣伝したらどうだろうか。」
「それだったら、大丈夫かもしれない。慎吾、どうやってウェブサイトって作るの?大体、私たち、あまり機械を使うタイプではないし。」
「え、大型トラックはたいそうな機械だけどね。まぁ、正直言って、僕たちは生きた化石だよな。携帯電話も持っていない人はもういないよな。」
「でも、それは、私たちいつも一緒だから要らないよね。」
「そうなんだけど。いずれにしても、この機会に少しコンピュータのこと覚えてみようか。会社の人に聞いてみようよ。」
と言う訳で、二人は新しいチャレンジに挑戦してみようということになった。

二人は運転中に時間はたっぷりある。その時間を使って、コンピュータの使い方を覚え、それからウェブサイトを作ろうということにした。まずは、会社の人に助言をしてもらって、適切なラップトップ・コンピュータを買った。これを家とトラック両方で使えるように、トラックにはコンピュータを置ける台を設置した。どこからでもいろいろなウェブサイトを見られるように、モービル・WiFiと言うものを購入した。これで、とりあえず準備は整い、二人は徐々にいろいろなウェブサイトを訪れて、インターネットの世界がどんなものか発見した。これは、時代遅れの二人にとって画期的な出来事だった。

いろいろ調べているときに、慎吾が言った。
「もうすでに、いくつかヒッチハイクや、ライド・シェアのサイトがあるね。みんなそれなりによくできているみたいだ。僕たちもそういったものに登録してもいいね。だけど、僕たちのケースは結構特殊だよね。まず、僕たち二人とも運転する。女性の中には男性運転手一人のトラックに乗るのに抵抗がある人もいるんじゃないかな。僕たちの車にはそういった心配はいらない。ただ、一回に一人しか乗せられないよね。」
「そうね、少し特別ね。それじゃ、やっぱり、私たち、自分のウェブサイトを作ってみない?私は、全くわからないけど、どうせ急いでいるわけでもないし。」
「あぁ、いいよ。これも勉強のうちだね。」

よく様子がわからないので、とりあえず無料の簡単なウェブサイトを作れるサービスに登録しようとした。ところが、二人は、登録に必要な電子メールのアドレスさえ持っていないことに気が付いた。慎吾がいくつかの無料メールサービスを調べて、登録した。
「僕たちのメールアドレスだけど、『しんご、ハイフン、れいな、アット、何某メール、ドットコム』にしたよ。これ、他の人との連絡にも使えるね。」
そのアドレスを使って、やっと、ウェブサイト作成の登録をした。そこの説明に従って、少しずつテンプレートを変えていって、「大型トラック無料便乗サービス」というタイトルを作った。大体、一回にそのくらいで疲れてしまい、それ以上はまた今度という状態だった。

メールを見たり、ウェブサイトを作っていくのは慎吾と麗名と運転していない方が交代でするのだが、二人の会話はいつもこんな調子で始まった。
「慎吾、またパスワード忘れちゃったんだけど。教えてくれる?」
「また、忘れちゃったの?えーと、ところで、何だったけ。こりゃ、どこかに書いておかないとだめだな。」
「慎吾、私、料理とか運転とか実物があるものの方がいい。コンピュータの中身って見えないから何をしていいか分からないことが多くて困る。」
そこで、二人はパスワードを紙に書いて、ダッシュボードの下の方に張り付けておいた。二人がブラウザにパスワードを覚えさせることが出来ると知ったのはそれから何か月も経ってからだった。今度は、ブラウザのマスター・パスワードを紙に書いて貼っておかなければならなかった。

それでも、二人は何とか自分たちのウェブサイトを作成した。そこには、こんなことを書いた。

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大型トラック無料便乗サービス(事前予約制ヒッチハイク)ホームページ

私たちは夫婦で交代しながら大型トラックを運転しています。そして、時折、ヒッチハイク希望の方々をお乗せすることがあります。また、古い話ですが、私たち自身、ヒッチハイクをさせていただいて大変助かったことがあります。そんな経験も踏まえ、この度、ご希望の皆さんに無料で私たちのトラックに便乗していただけるサービスを開始しました。私たち二人がすでにトラックに乗っているので、便乗できるのはお一人に限られます。それから、大型トラックとしては、おかしな話ですが、お荷物は座席に一緒に収容できる範囲にしてください。これは、仕事上、荷台を商用のスペースに限らなければならないためです。また、私たち夫婦はいつも一緒に乗っていますので、女性の一人旅でも安心してご利用できます。

このウェブサイトには私たちのすでに決まっている日程・行程が記されています。ご希望の区間があれば、そこをクリックすると、予約画面に移りますので、そこで、お名前、連絡先と、コメントを記入して送信してください。私たちの電子メールに転送されます。出来るだけ早く返信するようにつとめていますが、もし、数日たっても返信を受け取っていない場合は、お手数ですが、もう一度やり直してください。なお、私たちのトラックを見つけるのは簡単です。横にはっきりわかるような絵が描いてあります。何の絵かは、予約が成立した時にお伝えします。

また、もしご希望の日時、区間がない場合でも、将来ご希望に沿えるかもしれませんので、その場合は、このウェブサイトの下にある連絡先に電子メールを送ってください。

それでは、皆さんにお会いできる日まで。慎吾と麗名。

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こんなあんばいであった。その後も、慎吾と麗名は時々、見かけたヒッチハイク希望者を乗せていた。そして、ウェブサイトを作って、数か月たったころからボチボチ予約も入るようになった。また、後に、安心~の里のウェブサイトと相互にリンクすることにもした。当然、運転中に、ラジオに加え、ネット上のいろいろなサイトに行くことも増えた。たまたま、ネットでエコツーリズムのことを調べていたところ、ペンネームが城ヶ島慎二と言う人の小説を見つけた。その小説には、エコツーリズムのことがかなり詳しく書いてある。慎吾がそのことを麗名に言った。
「麗名、これおそらく城ケ崎慎吾さんのペンネームじゃない?内容がエコツーリズムのことだし、間違いないと思うんだ。そして、今読んでいたら、気になることがあった。この小説の中に、南米のリマ、ブエノスアイレス、そして、リオデジャネイロの街中で日本人らしい大道芸人のカップルを見たと書いてある。それも、ハーモニカと手品をやっていたとある。これって、前にラジオで聞いたカップルのことと同じじゃない。すると、多分、このカップルは実在で、もしかすると、やはり、シンゴにレイナっていう名前かも。」
「それ、気になるね。もっと、ネットで調べられない?」
慎吾は暫く調べていた。
「だめだ。何も見つからない。もう、何十年も前の話だし、大道芸人の記録なんてあまりないんだろうな。」
「そうかもしれないね。」

13.会津若松

大型トラック無料便乗サービスの最初の予約は、紫藤初代という人からだった。東京から会津若松までの往復の行程を希望している。コメント欄によると、この人は貧困老人で、死ぬ前に一度、故郷を訪れたいというのだ。予約は本人に代わって、担当の訪問相談員が行ったと記述してある。

慎吾と麗名はどうしたものかと思った。普通のヒッチハイクは、旅人をトラックの止まる一地点から他地点に便乗させてあげればいい。今回は、そう言う訳にはいかなそうだ。そこで、連絡先になっていた相談員に電話をしてみた。
「もしもし、大型トラック無料便乗サービスの麗名というものですが。」
「あぁ、あの。連絡ありがとうございます。私は紫藤さんの相談員の宮本です。紫藤さんを連れて行っていただけますか?」
「ぜひ、そうしたいのですが、普通のヒッチハイクとは少し状況が違うと思って、相談したかったのです。」
「わかりました。紫藤さんはかなりのお年で、背中も曲がっていますが、歩くことは問題ありません。ただし、大型トラックが簡単に止まれるようなところに一人で行くのは難しいと思います。もし、この辺に近くて簡単に止まれるところがわかりましたら、私達の車で紫藤さんをそこまでお送りすることは出来ます。」
「そうですか。それでは東京側は大丈夫そうですね。それで、会津若松に着いた時はどうしたらいいのでしょうか?」
「じつは、正確には会津若松の隣の会津坂下町と言うところなのですが、そこには遠い親戚がいるようです。まだ、連絡が取れていないのですが、もしその方々が車で紫藤さんを案内してくれれば一番いいのですが。そして、もし、あなた方が一時間ほど時間をくだされば、その間に紫藤さんが故郷の様子を見て来れるのではと考えています。帰りはやはり同じ方法で、私たちが紫藤さんを自宅まで車でお送りすることが出来ます。」
「そうですか。それだったら、大丈夫そうですね。」
「ただ~、もし、向こうの親戚に連絡が取れないか、対応ができない場合、どうしたらいいかです。」
「もし、一時間程度であれば、向こうでタクシーを頼んでご希望の所を回ってもらうという可能性もありますが。」
「そうですね。それは、いいかもしれません。いずれにしても、一両日中に向こうの状況をお知らせしたいと思います。こちらの電話でいいですか?」
「はい。これは、私たちのアパートの電話です。」

二日後に、相談員のから電話があった。
「こんにちは。紫藤さんの件で、相談員の宮本です。先日はどうも。」
「こんにちは。いかがですか?」
「残念ながら、紫藤さんの唯一の親戚の方は向こうの老人ホームに入っていて助けることは出来ないようです。その他にはもう親族も友人もいないようです。」
「わかりました。それでしたら、タクシーを使いましょう。そのくらいでしたら、私たちの方で何とかします。それに私がご一緒して手助けもできます。」
「そうですか。ありがとうございます。紫藤さんもきっと喜ぶと思います。では、予約の日にお目にかかります。」
「では、その日に。」

予約当日の朝早く、慎吾と麗名は東京で荷物を積み込み、少し離れた待ち合わせ場所まで行った。そこにはすでに紫藤を乗せた軽自動車が止まっていた。皆、挨拶をして、この日の計画を手短に確認した。そして、慎吾と麗名は紫藤を二人の間に座らせて、出発した。
「紫藤さん、改めて、おはようございます。こちらが夫の慎吾で、私が麗名です。」
「慎吾さんに、麗名さん、おはようございます。今日は私のこと連れてってくれてどうも。なにせ、毎日、やーっと生きとる。いっそ死んでしまったらいいと思う。ただ、死ぬ前に一度私の生まれた所行きたいと思って。」
「すこしでもお役に立てれば。会津坂下町と聞いていますが、どのへんでしょう?」
「阿賀川沿いの、喜多方との境です。駅は喜多方の方が近いんです。そこからだったら、まだ私でもわかると思います。」
「そうですか。」

「なんせ、今となっては、一人じゃどこにも行けませんで。今いる安アパートから出るときは、近くのスーパーに行くぐらいです。そこで、一日2百円から3百円ぐらいのおかずを買って、ご飯半杯で食べるのです。今は、体もどこも悪くないのですが、どこか悪くなったら、死ぬだけです。私も、初めからこうだったわけじゃないんです。夫と浜松町の駅前で小さな蕎麦屋をやってました。ほんとに小さな土地に、ビルを建て、1階は店、2階と3階に住まいがありました。うまくいっていたんです。ところが、ある時、不動産ブームにつられて、夫が他の物件を買ってそこで2号店を出そうとしたんです。悪いことに、バブルの崩壊で2号店は開店前に失敗し、持っていた店まで取られてしまいました。それで今いる安アパートに移ると直に、夫は都合よく死んでしまったのです。初めは、恨めしかったです。私達には娘がいるんですが、全然助けてくれません。それどころか、夫の遺族年金さえ取られてしまったのではないかと思います。どうして、私の支給額がこんなに少ないのかまったくわかりません。」
「その事は、相談員の宮本さんはご存知ですよね?」
「あの人はとても良くしてくれます。今回も、お二人の便乗サービスを見つけてくれたのです。以前に、娘のことも調べてくれました。どうやら、弁護士を使って、正式に処理されているので、私には何もできないのです。なーしてなんでしょうね。私が育てた娘なのに。」
「お気の毒です。ほんとに、どうしてなんでしょう。私は父が死んだ後、会ったことのない叔母が突然現れて、もうおんぼろの家を取り上げられてしまいました。とても悲しい思いをしました。」
「そうですか。大変でしたね。」

途中で、一回休憩をして、昼過ぎに会津若松に着き、まず仕事を片付けた。そして、そのまま喜多方に出向いた。町役場の駐車場にトラックを止め、近くのラーメン屋で昼食を取った。この辺はラーメンで有名なところだ。その後、慎吾はトラックに残り、麗名が紫藤と一緒にタクシーに乗り込んで、紫藤の故郷へ向かった。途中、何回か道を間違えた。紫藤によると、記憶が薄らいでいるところに、かなり様子が変わってしまったので、思ったよりも難しいと言う。それでも、川や橋の位置は変わっていないようで、どうにか紫藤の生まれ育った家にたどり着いた。紫藤は感慨深げに眺めている。言葉遣いも変わった。
「確かに、こごだ。おらはこごで生まれ育った。おらい(家)は少し変わっているがもしれん。げんども、こごだ。今は知らん人が住んでるんじゃろ。この裏さ川がある。行って良いがな?」
「どうぞ。一緒に行きます。」
「こごで、よう遊んだ。みんなで遊んだ。川で泳いだ。ほら、あそごさ井戸があるじゃろ。夏でも冷でえ水が出た。今はもう使っておらんようだべ。」
紫藤は懐かし気に子供の頃を思い出していた。その辺を30分ほど歩いた。
「どうも。気が晴れだ。」
「それでは、戻っていいですか?」
「はい。」
二人は待たせてあったタクシーに乗って、慎吾の待つトラックに戻った。

東京へ帰る途中、紫藤はまた話し始めた。
「私は、末っ子で、隣町の良い家の息子、仁助と縁組されたんです。仁助は跡取りだったんだが、農家を嫌がり、東京に出てしまった。それで、私も一緒に行ったんです。初めは北千住で、長屋暮らしをしていたんです。それから、やっとの思いで、お金を借りて、浜松町にあった壊れんばかりの蕎麦屋を買ってそのまま店を続けたんです。努力の甲斐あって、ある時そこにビルを建てました。大変だったが、楽しかったんです。そのころ、私は蕎麦屋の手伝いが忙しくて、娘に十分注意がいかなかったかもしれません。娘は、よく店に来て店の中を行ったり来たりしてました。そして、高校生と時、突然妊娠してしまったんです。夫はカンカンでした。私は気が動転してどうしていいかわからない状態でした。娘はもうその彼とは付き合っていなかったんですが、子供は生みたいと言います。どうやって育てるのかと問いただすと、はっきりした答えはありませんでした。私達は子供を育てるのだったら、完全に自力で育てなさい。家に居たいのだったら中絶しなさいと言いました。娘にはどちらも嫌だったようです。まだ自力で生活することのできなかった娘は、中絶をしました。その後、娘の様子はすっかり変わってしまいました。すべて投げやりになってしまったんです。そして、高校を卒業する前に、新しい彼氏の所に行ってしまいました。はっきりしないんですが、その彼氏はかなり年上で、それなりに収入もあったようでした。が、あまり良い人とは思われませんでした。それは、娘が時折うちに帰ってきたからです。と言っても、私達に何を打ち明けるでもなく、相談するでもなく、自分の部屋に閉じこもり、そして、しばらくすると、またその彼氏、だと思うんですが、の所に出て行くのでした。もう、ずっとそんな感じでした。そして、前にも言ったように、店を取り上げられて、私達はアパートに移ったのです。」

慎吾と麗名は黙って聞いていた。紫藤が言葉を終えても何を言っていいかわからなかった。三人が朝出かけた地点に戻ると、相談員の宮本が待っていた。
「慎吾さん、麗名さん、今日はほんとにありがとうございました。私は故郷に行くことが出来、これで、心置きなく死ぬことが出来ます。ごきげんよう。」
「紫藤さん、話を聞かせていただいてありがとうございます。どうぞ、お気を付けて。宮本さんもお元気で。」

慎吾と麗名は黙って会社に車を戻し、アパートに帰る所だった。
「麗名、今日はここの飲み屋で一杯やっていいかな?」
「うん。私も、少しお供するね。」

14.秋田

ある日、大型トラック無料便乗サービスのウェブサイトに予約が入った。それは、一週間後の秋田から東京までの区間だった。連絡先とコメントを見たときに、麗名は何かに気が付いた。
「慎吾、この予約なんだけど、鹿野内美夜子と言う人だよ。そして、お金がないと書いてある。これ、あの、私の父の家を取り上げた叔母と同姓同名なんだけど。そして、鹿野内もこの漢字の美夜子も珍しいでしょ。私は、この人、あの叔母に違いないと思うんだけど。私たちのウェブサイトは慎吾と麗名としか書いてないし、おそらく、伯母は私たちのこと気が付いてないか、覚えてもいなんじゃないかしら。」
「そうかな。もし、その人があの叔母さんだったら、麗名、どうする?僕たち、ごくまれに便乗を断ったこともあるよね。例えば、爆発物を運びたいとかの時。」
「私にはどうしていいか、わからない。当然、あの人のことは良く思っていない。だけど、今はもうかなり忘却の彼方と言う気もする。私、慎吾との生活があまりに幸せで、今は、他の人が苦労しているのを見るのが辛い。そういう意味では、この依頼も私たちの全く知らない、一人のお金のない人と見るのが正しいのかもしれない。」
「確かに、そういう考え方もあるな。じゃ、もう少し考えて、一両日中に返事をしようか。」
「うん。考える。」

最終的には、二人は、叔母を乗せようということにした。その時にどういうことになるか、全く予想できなかったが、麗名の言ったとおり、知らない、一人のお金のない人として対応しようということになった。秋田に行くに際して、二人は他に会ってみたい人が居た。この人はある本で紹介された人で、自殺の多い秋田でその予防に力をいれているというのだ。会社に相談して、秋田での一日休暇をもらった。

この、全国的に知られている秋田の人は、加藤房雄と言った。慎吾と麗名はあの東尋坊の経験依頼、自殺の予防のことに注意してきた。一日は、安心~の里での講習に参加したこともある。その時に、この人のことが話題になったのだ。慎吾と麗名は次に秋田に行くときに皆を代表して会ってくると約束した。その後は、ネットでも情報を収集した。

加藤は彼の作った非営利団体の事務所で会ってくれるこになった。
「加藤さん、始めまして。石館慎吾と麗名です。今日は時間を作ってくれてありがとうございます。」
「慎吾さんに麗名さん、よく来てくれました。お二人は安心~の里の皆さんを代表してということですが、こちらでも、安心~の里のことは話に上がりますよ。この辺にも同様の施設があれば、私達の仕事ももっとやりやすいと思いますよ。私自身、もしそういった施設があったら、自殺することを考えずに済んでいたかもしれません。」
「そうですか。僕たちも北海道からほとんど無一文で出てきたのは安心~の宿の創始者にお会いしたことが切っ掛けでした。もし助けていただかなかったら、今頃、熊の餌になっていたかもしれません。」
「それは、いけません。いずれにしても、どうして自殺が後を絶たないか、これは重要な社会問題です。動物の世界では、寿命を全うしようとしているもの、あるいはけがや病気でそれ以上生存が不可能なものを除いて、自殺をしようとはしないんじゃないでしょうか。それなのに、人間社会では、自殺は増えています。これは、日本だけではなくて、差はあるにせよ、どんな国でもあるようです。そして、ここ秋田は残念ながら、悪条件がそろっていて、かつては自殺日本一の悪名を着せられました。私達の努力もあり、今は少しは改善していると思います。それでも、まだまだ、ですが。」
慎吾と麗名は彼らの東尋坊での経験を話した。加藤が尋ねた。
「そうだったんですか。その後の理奈さんはどうしていますか?」
「僕たちが聞いたところでは、とりあえず落ち着いているそうです。宿のスタッフとの対応は普通だということです。まだ、先のことを考えるところまでは行っていないと言ってました。」
「そうですか。ところで、自殺予防の関係者は皆実行することですが、私達の第一の道具は傾聴です。まず、相手の話をとことん聞く。ただし、その間に一つだけ注意しなくてはならないことがあります。相手の人がすでに自殺の過程を開始しているか、もしくは今にも開始しようとしている場合です。そのような気配があった時は、傾聴と同時に、即座に実行を阻止する手段を講じます。そして、十分に傾聴している中から、もし、相手が必要としている情報あるいは資源が判明したら、相手の人がそれらを得られるように補助します。いずれにしても、世の中が安心でないから自殺が起こると思います。それは、安心~の里のしんごさんとれいなさんが生前仰っていたことと同じです。あっ、失礼しました。お二人はもう自殺予防の訓練を受けられているのに、こんな初歩的なことを言ってしまいました。」
「いえいえ。私たちはまだまだ未熟です。加藤さんは実際に相当の数の人と話をされているから言えることだと思います。」
「恐縮です。それでは、この事務所の他の人も呼んできますから、お茶でも飲みながら話をしましょうか。」
加藤は事務所の数人を呼んできて、皆の経験を分かち合った。最後に、麗名と慎吾は丁寧に礼を述べて、安心~の里の人々にも伝えると言った。皆、連絡を続けることを約束した。この時は、慎吾と麗名は電子メールのアドレスも残した。

その日の残りの時間、慎吾と麗名は急いで駅前に行き、市内観光のバスに飛び乗った。観光バスに客として乗るのは初めてだった。今は寒くもない、暑くもない季節だが、秋田の冬も長く、暗い。ある意味では二人の故郷とも共通する。そんな中、なぜか、自殺は春に多いと言う。寒さに閉じ込められた人々が春の暖かさを感じていく中、春になっても暖かさがやってこない人たちもいると言うのだ。そんな時に、うつ状態になりやすいし、症状が進めば、自殺を考えることもある。それに対して、慎吾と麗名の一緒に過ごした最初の春は経済的な苦境にも拘わらず、二人の間に限りない暖かさがあった。希望があった。

慎吾と麗名は休暇ということもあり、秋田の情緒ある旅館に泊まった。ゆっくりと夕食を食べ、家族風呂につかり、部屋で二人だけの時間を持った。そして、翌日は鹿野内美夜子と会う日だった。この日も麗名はなかなか起きられず、しょうがないので、慎吾は布団をはがしてしまった。今度は、麗名は寒くなると、寒いと余計起きれないと言う。困った慎吾は、麗名の体に巻き付いて温めてやった。

二人は急いで朝食をとり、待ち合わせの場所へ向かった。そこで待っていると、かなり年の女性がトラックを見つけてやってきた。慎吾も麗名もはっきりとはそれが麗名の叔母であるとは認識できなかった。もともと、父の死後に一回会ったきりであった。二人は美夜子を座席に乗せた。車が走り始めると、美夜子が言った。
「ありがとうございます。私は自分の財産を使い果たしてしまい、どうすることもできずにいました。身寄りもなく途方にくれていたのですが、何年も前の話を思い出したのです。確か、姪っ子が東京の方へ行ったということを思い出したのです。これから東京に行き、その姪っ子を探して世話になろうかと思っているのです。」
麗名は、ここまで聞いたとき、嗚咽に近い感覚を覚えた。もう、どうしていいかわからなかった。慎吾もそれを察したようである。
「あの~、申し訳ないんですが、ちょっとトラックの様子がおかしいようなんです。次のサービス・エリアで調べてもらうため、立ち寄ります。」
もう麗名は真っ赤な顔で怒りをこらえているのがわかる。5分も経たないところにサービス・エリアがあった。そこで、二人は美夜子には休憩所でお茶を飲んでいてもらうように頼んで、車をガソリンスタンドの方へ動かすふりをした。

美夜子をおろした途端に、麗名が泣き出した。美夜子は麗名のただ一人残された親族である。麗名の父が遺したバラック寸前の家を麗名から取り上げた人である。その人が、今しがた、麗名の横の席で、麗名を探し当てて世話になるつもりだと言ったのだ。その麗名が横に座っている人と知ったらどうするであろうか。そして、実の麗名を目の前にして認識できないような人がどうやって広い東京近辺でその人を探し出そうと言うのか。美夜子からは麗名と言う名前さえ出ていない。それに、どうやって、あのウェブサイトから予約が出来たのか。まさか、わかっていて芝居を演じているのだろうか。あるいはすべてが嘘なのであろうか。

麗名は、慎吾と一緒に様々な人々に会ってきた。それらは皆他人であったが、一概に皆良い人間だった。良い以上だろう。それなのに、この身内の人間だけが悪人に思えた。あまりのショックで麗名は泣き止むことが出来ない。慎吾もどうしていいかわからなかった。
「麗名、思いっきり泣いていいよ。こんなにひどいことはない。僕は美夜子さんの所へ行き、何時間かかるかわからないと言ってくるよ。」
麗名は泣きながらうなづいている。

慎吾が戻っても麗名はまだ泣いている。
「美夜子さんは何時間でも待つと言っている。」
実際、麗名はその後、何時間も泣いた。

昼も過ぎ、午後にかかったころ、麗名が初めて口を開いた。
「ごめんなさい。慎吾はどうしてそんなに優しいの?私の叔母はどうしてあんなに醜いの?」
「麗名、今そういう比較しているときじゃないよ。少しは落ち着いた?さっき会社に電話したんだ。個人的な緊急事態でもう一日休暇を伸ばしてくれと頼んだ。だから、明日の朝に出ればいい。」
「ありがとう。多分、少し落ち着いたと思う。今まで、頭の中がごちゃごちゃだったの。」
「あぁ、無理もないよ。僕が麗名の立場だったら、叔母さんのこと首根っこつかんで投げ飛ばしてたよ。刑務所行きだろうな。流石に麗名はよくこらえたよ。」
「ほんとに、どうしたらいいのかしら。キャンセルしてもいい?」
「いいよ。もし、そうしたいなら。他には何か考えた?」
「うん。いろいろ。東京に行けるだけのお金をあげるとか~。私たちの素性を打ち明けて直面するとか~。私だけ電車で帰るとか~。私は後ろの簡易ベッドでヘッドホンかけて病気のふりをするとか~。どれも名案とは思えない。」
「そうか~。例えば、これは難しいかもしれないけど、麗名が美夜子さんだったとしたら、どういうことを考えると思う?」
「あまり、考えたくない想定だけど。まず、あてのない親類を探しに全く馴染みのない東京なんかに出ようとは思わないでしょ。あの、武良さんは会ったことはなくても、ちゃんと父親の連絡先があったからああやって岩手まで出かけて行ったわけで。だいたい、東京のどこで降ろしてあげればいいの?すでに、この便乗サービスがどこか泊まれる所へ連れて行ってくれると思っているのかしら?どう考えても、私だったらしないことだ。」
「そうだろうな。それじゃ、時間は出来たから、僕がちょっと探りを入れてこようか。麗名はここに居てね。また話を聞いて気分が悪くなってしまうと可哀そうだから。」
「ありがとう。そうしてくれる?」

と言う訳で、慎吾が一人で美夜子の待っている休憩所に戻った。
「美夜子さん、時間がかかって申し訳ありません。未だどのくらいかかるかわからないんですが、ちょっと様子を見に来ました。お疲れだと思いますが、大丈夫ですか?」
「私も年だし、確かに少しばかり疲れてきました。」
「何か食べるものを持ってきましょうか?」
「でも、私はお金がないもので。」
「今回は僕が買ってきますよ。お待たせしてしまっていますので。」
「すいません。それでは、そばを一杯お願いします。」
「天ぷらか何かのせますか?」
「いえ、かけで結構です。」
慎吾はかけそばを買って、持ってきた。
「はい、どうぞ。」
「ありがとうございます。」
「それで、ちょっとお聞きしたいのですが、東京へ着いた時にどこで降りたいのですか?」
「そうですね~。どこがいいんですか?」
「あのぉ、僕たちは便乗者の降りたいところで降ろしてあげるだけですので、降り場所が決まっていない場合には、申し訳ありませんが、お連れすることは出来ないのですが。」
「そうなんですか。それは知りませんでした。でも、そんなことは言わないで連れて行ってくださいな。」
「どこへ連れて行けばいいんですか?」
「東京のどこでもいいんです。」
「ところで、東京の方で、姪っ子さんを探すと言ってましたが、その人のお名前はご存知でしょうか?」
「それが、はっきり覚えていないのです。なにしろ、だいぶ前のことでしたから。」
「そうですか。それでは、その姪っ子さんを探す何か手掛かりになることはあります?」
「旧姓が私と同じ鹿野内と言うことです。ただ、確か北海道を出るときにはもう結婚していたと思います。旦那さんの姓はわかりません。でも、もし、その姪っ子に会えば、分かると思います。」
「そうですか。その姪っ子さんもここ秋田に居たのですか?」
「いいえ、北海道です。私の兄が死んだときに北海道まで行って、世話をしてあげたのです。それなのに、何の知らせもなく居なくなってしまいました。」
「それから、どうやって、僕たちのウェブサイトで予約したのですか?」
「えぇ?エブサイトって何ですかね。予約は旅行会社でしてもらいましたけど。これだったら、ただでええということで。」
「そうですか。では、また、トラックの状況を調べてきますので、申し訳ありませんが、もう少しここで待っていてください。」

慎吾は美夜子との会話の一部始終を麗名に話した。麗名は明らかに不快な表情を示していた。
「慎吾、残念だけど、私にはどうしようもない。いずれにしても、叔母には間違いない。弱ったな~。」
「麗名、これ以上伸ばしてもいい案は出てくるとは思えない。だけど、僕たちの出発はもう明日の朝になるから、トラックをここに残して、三人で近くの宿で泊まらない?今日は東尋坊の場合と違うから、二部屋取ろうよ。どう?」
「そうしようか。」

そこで、三人はタクシーを呼んで、一番近いビジネスホテルに行って、泊まることにした。具合が良くないということにして、麗名は先に部屋に引き上げ、慎吾が美夜子に夕食を食べさせた。美夜子を彼女一人の部屋に送った後、慎吾が麗名に食べ物を持って行った。
「麗名、とんでもないことになっちゃったね。でも、僕たち出来ることはしているよね。」
「そう思う。慎吾、ほんとに辛抱強く対応してくれて、ありがとう。今日はもう休もうね。」
「あぁ。そうしよう。」

翌朝、どういう訳か麗名が慎吾と同時に眼を覚ました。そして、こう始めた。
「慎吾、私、夢を見たの。大介さんが出てきた。そして、こんなことを言ったの。」

「慎吾さんに麗名さん、相変わらず頑張っているね。そして、今回は随分難しい場面のようだね。お二人は、もう、いろいろな人を助けて来たよ。今回はオレがほんの少し手伝おう。三人でトラックに戻る時に隣のトラックを見てごらん。オレのトラックだ。竜の絵があるトラックが二台並ぶのは壮観だろう。オレがその老女を東京まで連れて行ってあげよう。後のことはすべてオレに任せてくれ。決してその老女に悪いことはしない。オレの全力を尽くす。ただ、もうオレの姿をお二人に見せることは出来ない。これは約束だ。その老女には代替のトラックが来たから乗るように言ってくれ。」

「麗名、それは夢じゃないよ。ほんとに大介さんだよ。僕も同じことを聞いたんだ。大介さんにはお世話になってばかりだが、今日も助けてもらうしかないだろう。信頼できる人だ。僕たちの出来ることはしたんだ。」
慎吾と麗名は、美夜子と一緒にタクシーで、トラックまで戻った。麗名は相変わらず何も喋らない。トラックまで来ると、大介の言ったとおりにもう一台竜の絵のあるトラックが隣に止まっている。慎吾と麗名は顔を見合わせた。慎吾は美夜子に言った。
「あぁ、良かった。美夜子さん、代替えのトラックが来ました。こちらのトラックで東京まで行ってください。」
「それは、それは、どうもありがとうございました。ごきげんよう。」
「では、お気をつけて。」

美夜子は大介のトラックに乗り込んだ。そして、大介は全く姿を現さずに走り去った。慎吾と麗名はまだ信じられないという様子で、ポカンと立っていた。そして、麗名がポツンと言った。
「大介さん、どうもありがとう。」
あんなに苦労したのに、あまりにあっけない結末だった。二人はもう美夜子に出会うことはないだろう。二人は、これで良かったとは到底思えなかった。ただ、仕方がなかったというのが正直なところだろう。あれだけ暖かく周りの人々に接してきた麗名にも限界はあったのだ。

15.沙織

これは便乗サービスの予約ではなく、問い合わせであった。ある高校生が埼玉から京都に修学旅行へ行く資金が足りない。行きと帰りの修学旅行に行く新幹線の代わりになるトラック便がないかという質問であった。これを見たとき、麗名は自分の過去を思い出し、非常に同情した。
「慎吾、この子、まるで私の高校の時みたい。可哀そう。」
「そうだな。この子に対する僕たちの簡単な答えは、僕たちは京都、いや原則として西日本に行くことはないということだけど。ただ、そうだけは言えないような気がする。」
「私たち、今は経済的にゆとりもできて、この子の修学旅行費用を払ってあげることだってできる。それは、はっきり言って、私たちには簡単なことよね。」
「そうだな。そうしたい?麗名にはこの子の状況を見逃すことは出来ないだろう。」
「確かに、慎吾は私の気持ちをよくわかっている。慎吾はわかりすぎて、私のために修学旅行に行かなかった。そして、私たちだけの修学旅行を作ってくれた。おかげで、私たちは幸せになれた。でも、慎吾みたいな人がどこにでもいるわけではない。多分、この子にそういう人が居るとは思えない。そして、日本中にそういう子供たちがどのくらいいるだろう?世界中にもっと貧しい子供たちがどのくらいいるだろう?多分、安心~の里のしんごさんとれいなさんは、世界中歩いて、私たちよりも広い視野を持っていたのだと思う。だから、安心~の里のような施設を作れたのだと思う。」
「そうだね。いつも凄いと思うよ。で、僕たちはどうしたらいいのだろう?」
「私の疑問は、この子だけを修学旅行に行かせてあげて、他の知らない子供たちに同じことをしてあげないのは罪かなということ。」
「罪な訳はないよ。それに、安心~の里のしんごさんとれいなさんの言ってたということがあるじゃない。安心~の里はほんとは不必要だって。世の中が安心ではないからあるんだって。真の解決策は世の中が安心の世になることだって。あの二人はそれをわかっていながら、それでも安心~の里を作った。出来ることをしようとしたんだと思うよ。僕たちだって、出来ることから始めるのは一向に悪いこととは思わない。」
「そうね。じゃぁ、この子と連絡とってみていい?」
「もちろん。」

その高校生の連絡先には家と思われる電話番号が書いてあった。コンピュータは学校のメディア室でしか使えないので、電子メールは便利ではないと書いてある。名前は尾ノ後瀬沙織と書いてある。麗名は、依然ためらいがちに電話してみた。若い女性が出た。
「もしもし、私は、大型トラック無料便乗サービスの麗名と言うものです。尾ノ後瀬沙織さんとお話ししたいのですが。」
「わたしです。それ、私の問い合わせについてですか?」
沙織の声は期待しているように聞こえた。
「そうです。ただ~、残念ながら、私たちは西日本方面には行かないので、京都に希望の日々にトラックに便乗することは出来ないのです。」
「そうなんですか。」
沙織は明らかにがっかりした様子だ。
「ただ、沙織さん、実は私自身、高校の時、北海道から東京への修学旅行に行けなかったので、沙織さんのことが気になって。近くなので、お会いできませんか?」
「何か、いい考えがあるのですか?」
「いえ、今はっきりしたことは言えません。ただ、まず、あなたにお会いして、話をしたいと思ったのです。」
「わかりました。お願いします。」
二人は沙織の家に一番近い駅の前の郵便ポストの所で待ち合わせをした。

待ち合わせの日が来た。この日は、麗名だけで出かけた。二人はすぐにわかり、近くの喫茶店に入った。
「沙織さん、会ってくれてありがとう。」
「麗名さん、ここまで来てくれてありがとうございます。」
「便乗サービスの問い合わせでは、修学旅行の費用が出せないと。」
「そうなんです。うちは母子家庭で、母は近くのスーパーで毎日長時間働いているのですが、なかなかお金にならず。そして、一番大変なのは、弟の病気なんです。数年前に小児白血病になってしまって、手術、放射線治療、化学療法と立て続けに受けたため、治療費が山積みで、借金もあるんです。どんなに日々の生活を切り詰めても、無理のようです。もし、トラックに便乗して、京都の往復ができれば、あとは何とかなると思ったのですが。」
「そうですか。お気の毒です。私も高校の時は苦労しました。そして、修学旅行は行けませんでした。ところが、それが切っ掛けで今の夫と結婚することになったのです。」
「その頃の話を聞かせてもらっても良いですか?」
麗名は、簡単に身の上話をした。
「そうだったんですか。なんだか、私の今の状況のようですね。ただ、一つ、全く違うのは、慎吾さんの存在でしょうか。お幸せになれて良かったですね。私には、そのような人が居ないし、できそうにもありません。」
「私も、修学旅行の当日まで途方にくれていたんです。その日の朝、慎吾から突然電話があって。その時、初めて慎吾と話したのです。」
「それでは、私にも同じようなチャンスがあるかもしれないと言うのですか?」
「それは私にはわかりません。それより、私は、沙織さんが修学旅行に行ければそれが一番いいと思っています。」
「私も、それが一番いいと。」
「沙織さん、私、慎吾にも相談したいことがあるので、また、今度会ってくれますか?」
「もし、何かいい考えがあるのでしたら。」
「では、また電話します。」
それで二人は別れた。

アパートに帰って、麗名は慎吾に言った。
「慎吾、この沙織さんの状況って、ほんとに私の高校の頃を思い出す。そして、どうやら、彼女にとっては、慎吾のように突然救ってくれる人が現れるのを期待するのは難しいようだし。私はどうしても沙織さんに修学旅行に行って欲しい。」
「よくわかったよ。こういうのはどうかな?麗名が沙織さんに必要な費用を貸す。ただし、返済は出世払い。将来できるときに、沙織さんの希望の人なり団体に寄付をしてもらう。」
「うん。それ、いいかもしれない。ほんとは私なんかが出てこないで、匿名でお金をあげられた方が良かったのかもしれない。でも、私も沙織さんの話を聞きたかったし。」

麗名は沙織に電話して同じ喫茶店で会った。
「沙織さん、今回は提案をしたくて来ました。」
「どんな提案でしょうか?」
「これは、私たちが勝手に考えたことなので、沙織さんがどう思われるか。私が、修学旅行に必要な費用をお貸ししたいと思うのです。そして、返済は、沙織さんが将来できるときに、ご希望のところに寄付をしていただくという考えなのですが。」
沙織の顔に明るさが見えた。
「えっ!!ほんとですか?お金を貸してくれるのですか?それも、返済期限なしで?」
「そう考えているんですが。」
「それは、想像もしていなかったことです。ありがとうございます。ありがとうございます。」
「もう一点、このことは他の人には公表はしないでいただけますか?」
「もちろんです。ありがとうございます。」
その後、沙織が麗名に沙織の母親の銀行口座番号を教え、麗名が振り込みをするということになった。麗名には沙織の母親からも丁寧なお礼の電話があった。

修学旅行の終った頃、麗名に、沙織から電話があった。
「麗名さん、ほんとにどうもありがとうございました。とっても楽しかった。そして、自由行動の時に同じ班になった男の子をちょっと気に入ってしまいました。お土産買ってきたんですけど、八つ橋です。また、会ってくれますか?」
「沙織さん、良かったわね。じゃ、今度の金曜、またあの喫茶店でいいかしら。」
「えぇ。では、金曜日に。ありがとうございました。」

金曜に喫茶店で会った時、沙織はすごく明るかった。麗名も嬉しかった。
「麗名さん、京都きれいだった。私、旅行という旅行はしたことがなかったので、実は東京駅に着いた時にもうすごく感激してしまって。旅行中ずっと興奮状態でした。旅館での夜もあまり眠れないくらいで。帰ってきてからは18時間連続で寝てしまいました。」
「楽しんできて、ほんとに良かった。私はまだ京都に行ったことないの。今度、沙織さんに案内してもらおうかな。」
「わ~!一緒に行きたい!」
「私はね、北海道で観光バスのガイドになった時、家から5キロか10キロくらいしか離れていないところに有名な摩周湖があったんだけど、バスのガイドとして初めてそこに行ったの。観光客より私の方が興奮しちゃって。」
「麗名さん、可愛いい。」

それからは、沙織は麗名を慕ってよく電話をしてきた。そして、何回か慎吾と麗名のトラックに便乗してドライブを楽しんだ。

16.北海道と京都

ある日、慎吾のところに北海道の母から電話があった。慎吾の居所は興信所で調べてもらったと言う。父が亡くなったので葬儀に出席して欲しいという内容だった。慎吾の両親は慎吾が大学受験を拒んで麗名と結婚したのを機に縁を切っていた。慎吾は複雑な気持であった。親に対する純粋な愛情はもうほとんどない。慎吾の家族愛と言えるものは麗名が一手に引き受けていた。慎吾は麗名に相談した。
「麗名、僕は、はっきり言って、父の葬儀に出席したいとは思わない。ただ、母からこうやって頼まれたのに、断ると言う訳にもいかない。」
「その気持ちはわかる。でも、行くしかないみたいね。行ってらっしゃい。残念だけど、私は慎吾の家族の前に出るわけにはいかないし。」
「そうかなぁ。一人で行くしかないかなぁ。麗名と別行動は寂しいよ。」
「それは私も同じ。だけど、一か月も別に暮らしたことだってあるんだし。一週間以内だよね?」
「うん。それ以上は行くつもりはない。」
「行ってらっしゃい。ねぇ。この際に携帯電話買わない?」
「そうだな。生きた化石から脱出かぁ。確かに、便利だよな。特に、二人が離れているときは。」
二人は早速携帯を2台買い、会社の人に教わって、ビデオ電話が出来るアプリを入れた。慎吾はすぐに旅の計画を始めた。それと同時に麗名には別の考えもあった。
「慎吾、慎吾が行っている間の週末に沙織さんと京都に行ってもいい?」
「あぁ。それはいいアイデアだね。沙織さん、気絶するほど喜ぶね。」
「気絶はしてほしくないけどね。」

二日後に、慎吾は北海道へ発った。羽田から網走へ飛行機で行き、そこでレンタカーを借りた。宿泊は屈斜路湖畔のホテルを取った。その間、麗名は沙織と京都へ、金曜の夕方に出て、旅館に2泊して日曜に帰ってくるという計画を立てた。当然、費用は麗名がすべて持つことにした。

慎吾は、その日の午後には屈斜路湖畔のホテルに着いた。麗名と二人で初めて埼玉まで行った行程に比べてなんと簡単で早いことかと思った。もう15年は経っているだろう。まずは、屈斜路湖畔を歩いてみた。麗名と初めて歩いた日々が思い出される。懐かしい。そして、寂しくなった。麗名に電話してみた。
「麗名、屈斜路湖畔にいるんだよ。これ、見える?」
「見える、見える。懐かしいね~。」
「そうなんだ。だけど、寂しくなって、電話した。」
「私も一人でアパートにいるの寂しかったの。携帯買ってよかったね。」
「あぁ。ほんとに良かった。これから、レンタカーで少し町の様子を見てみるよ。また電話する。」
「今日はずっとここにいるからね。」

その後、慎吾は麗名の家のあったところへ行った。そこは、新しいが小さめの家が何件も立ち並び、麗名の家の跡形もなかった。慎吾はその様子を麗名に電話で見せた。麗名は寂しそうだった。そして、ビデオ電話をつけたまま、町の中をドライブした。あの郷土資料館や、二人で歩いた通りがあった。

翌日、慎吾は実家に行った。そこで久々に母と対面する。やはり、しっくりこない。ぎこちない。まだ、二人の間にわだかまりがあるのは明らかであった。慎吾は母をレンタカーに乗せ、葬儀社に行き最終打ち合わせをした。実は、慎吾の両親自身家族の反対を押し切って結婚しているため、親戚付き合いがなかった。それでも、母親は両家の親族に連絡はしてある。後で、慎吾は父の最後の様子を母に聞いた。父は大腸がんから転移した肺がんが死因だと聞いた。最後はやせ細り、自分の棒のようになった腕を眺めては嘆いていたと言う。それでも、慎吾に来て欲しいとは言わなかったらしい。

その夜、慎吾が麗名に電話した時、麗名と沙織は新幹線の中だった。二人は姉妹のように嬉しそうに並んで座り、何か駅弁を食べている。この日は夜になるので素泊まりにしたらしい。二人は京都駅で降りるとタクシーで旅館に向かった。翌朝は、沙織が麗名を起こした。相変わらず、麗名は起きるのに苦労している。沙織は前の夜遅くまで話をしていたせいだと思ったが、麗名から朝起きが苦手だと聞き、納得せざるを得なかった。

土曜日は沙織が修学旅行で行ったところを中心に麗名を案内した。苔寺から始め、嵐山で昼食を取り、金閣寺へと向かった。途中、麗名は慎吾に電話をしたが、出ない。麗名は今日は葬式の日だということを思い出し、諦めた。

慎吾は、母に付き添い、無事に葬式を終えた。参列者は多くはなかったが、父の仕事関係で知っている人もいた。そして、両親の親族関係の人々も何人かいたが、慎吾にはみな初対面だった。二人、慎吾のいとこにあたるという人にも会った。特に、話をするという気にもなれなかった。ホテルに戻ると、早速、麗名に電話した。
「どう?楽しんでる?」
「慎吾、さっき電話して出ない時はちょっとがっかりしたけど、お葬式の日だと思って諦めたわ。」
「もう終わって、ホテルに帰ってきた。葬式と言っても形式だけで、ほとんど知ってる人もいないし、あまり、感情も湧かない。そうだ、これからちょこっと摩周湖まで行ってこようと思うんだ。その時、沙織さんにも景色を見せてあげられと思って。」
「はい、じゃ、また後で。こちらは今、金閣寺。それから、京都御所と二条城を見れればと言っているの。ちょっと、忙しいかしら。」
「麗名は今日丸一日京都だから、ゆっくり出来ていいね。」
その後、慎吾は摩周湖の映像を二人に見せた。

日曜日、慎吾は母の相続の相談にのった。父の不動産および事業はすべて父名義になっているが、なぜか遺言を残していない。すると、相続は母と慎吾に二分されることになる。母は、できれば慎吾に相続を放棄して欲しいと言った。どうやら、これが、母が慎吾を呼んだ最大の理由のようだった。慎吾は、どうせ勘当された身であるし、相続には興味もなかったので、簡単に放棄に同意し、弁護士の所で、書類に判をついた。後で、電話した時に麗名にその事を言った。
「慎吾も可哀そう。どうして、こう、身内というのは優しくないの?」
これは、麗名の叔母のことも含んでいるように聞こえた。

京都最後の日、麗名と沙織は、駅の近くの三十三間堂、清水寺と回り、最後に京都タワーから市内を一望して、新幹線に乗った。
「麗名さん、一緒に京都に来てくれてほんとにありがとう。なんだか、麗名さんは私のお姉さんみたいな気がして。ねぇ、いっそのこと、ほんとのお姉さんになって下さい。」
「沙織さんを見ていると自分が若いころのことが思い浮かぶの。私もいつの間にか随分と年を取ってしまった。お姉さんにしてはちょっと年が行き過ぎみたいだけど。でも、私も沙織のこと、ほんとの妹と思うね。」
新幹線からJRに乗り換えた後、沙織が言った。
「私、お姉さんに刺激されて、トラックの運転手になりたいなんて思ってきたんだけど。」
「そうなの?それはちょっとびっくりね。私は慎吾がいるから運転手やっていられる。女一人だと大変なことも多いと思うよ。他の運転手からやじられたことも沢山あるし。」
「そうなんだ。でも、可能性の一つとして考えてみる。」
「それから、大型は、3年の免許歴があり、21才にならないと試験を受けられないの知ってる?」
「知らなかった。教えてくれてありがとう。それでも、考えてみる。話は変わるけど、実は、最近、例の男の子と付き合い始めたの。修学旅行に行けたことが切っ掛けで、それに、修学旅行に行ってから少し積極的になれたような気がする。」
「沙織、良かったじゃない。陰ながら応援するね。」
「ありがとう、お姉さん。」

麗名がアパートに戻ってから慎吾に電話した。
「慎吾、明日ね。」
「そう。明日帰る。待ち遠しいよ。京都楽しんだ?」
「うん。とっても。すごく素敵な街ね。住んでみたいくらい。」
「へ~。」
「そして、妹を作ったの。沙織よ。」
「へ~。そりゃ、良かったね。」
「うん。慎吾は?」
「僕は初めての親類に何人かは会ったけど、一人もほんとの親類は作れなかったよ。結局、相続放棄をもって帰省も終わった感じだ。」
「寂しいわね。じゃ、明日気を付けてね。羽田まで行こうかな。」
「嬉しいな。じゃ、また、明日電話するよ。」

次の日、麗名は羽田で慎吾を迎えた。二人は、何年も会っていなかった夫婦のように抱き合った。

17.浜松

慎吾と麗名の便乗サービスを利用する人達は経済的に窮地に立たされている場合が多い。しかし、すべての利用者が苦境にあるというわけではない。横浜から浜松へ便乗を予約した白岩夢見はたび重なる取材旅行の費用を軽減したいと言うのが主な理由であった。白岩は東名高速の横浜市内のパーキング・エリアからトラックに乗り込んできた。
「白岩です。今日はどうもありがとうございます。」
「こんにちは。運転しているのが夫の慎吾で、私が麗名です。今回は、浜松までですよね。」
「はい。今回の目的地は舘山寺なので、新東名のその辺で止まれる所で降ろしていただければ幸いです。そこから、歩けます。ただし、浜名湖サービス・エリアまで行ってしまうと、浜名湖を渡ってしまうことになり、ちょっと歩くのは困難です。」
「わかりました。その辺になったら、注意します。白岩さんも仰ってください。」
「そうします。」
「ところで、白岩さんは生活には苦労していないが取材にかかる費用を軽減したいと書いてありましたよね。」
「そうなんです。実は、私は作家の端くれで、まぁ、端くれの作家で経済的に恵まれている訳はないのですが、生きるか死ぬかというほどではないと言うことです。それでも、何回も取材で浜松に来るには出費がかさむので、便乗をお願いした次第です。それに、夫婦お二人で運転されていると知って安心できたし、実は、仕事柄、お二人の仕事にも興味がありまして。」
「そうですか。それは、結構ですよ。」
「ありがとうございます。ところで、今、取りかかっているのは舘山寺出身のピアニスト志望の女性の話です。こんな話なんです。」

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彼女はそれなりの才能もあり、練習にも励んでいたのですが、父親が若年性のアルツハイマー病となり、失業とかさむ試験治療の費用のため生活苦に陥ります。母は、長時間働いて家庭を守ります。彼女にも高校だけは普通に卒業させてやりたいと努めました。それでも家にあったグランドピアノは売却する羽目に陥りました。彼女はピアニストの夢はあきらめますが、まだピアノのそばに居たいという気持ちから、高校卒業後は浜松近郊のピアノ工場の職工になるのです。ご存知でしょうか、浜松とその周辺は楽器の街です。ヤマハにカワイ、二大ピアノメーカーを始め、各種の楽器製造業者が集中しています。工場では、好きなピアノを毎日目の前にしていながら、実際の仕事はピアノの鍵盤に必要なフェルトを付けて調節するだけの単純作業でした。休み時間に折を見てショウルームに置いてあるピアノを弾こうとするのですが、職工は触ってはいけないと言われます。その頃、同窓会で、同じ舘山寺出身の幼馴染みの男性に会います。彼は、中学に入るときから、事情があって浜松市街にいる親戚と同居していました。そのため、二人はその間会っていなかったのでした。そして、そこで知ったことは、この男性がやはりピアニスト志望で、中学から始めたにも拘わらず、音大のピアノ専攻に進んでいたということだったのです。彼女は羨みます。と同時に彼氏に惹かれても行きます。彼氏も彼女に惹かれるのですが、彼氏の両親は職工の彼女と付き合うことは禁止します。彼氏もそこまでして彼女と付き合おうとはせず、二人の仲はそれ以上進みませんでした。

その後、彼女はもっとピアノに触れる機会が多いと思い、調律師になる道を目指し、同じピアノ製造会社の運営する調律師学校に入ります。彼女はそこを優秀な成績で卒業し、すぐに調律師として活動し始めました。その間に、彼女は同じ学校を出た女性の調律師と仲良くなります。それが、友達以上の関係になり、彼女は自分が男女ともに惹かれる両性愛者だと気付くのです。二人は同棲します。同時に、彼女は徐々に調律師としての経験を積み、浜松では最も優秀な調律師の一人として認められていきます。そして、いずれは調律師として最高の地位である、有名ピアニストのコンサート調律師として働くことを夢見ます。

その夢を追い求め、彼女は悲しがる相棒の女性を残して、東京に出てコンサート・ホールに仕事を探します。また、何人かの有名ピアニストにも直接接近し、試して欲しいと頼みます。しかし、こちらの方はなかなか希望通りにはいきませんでした。実際には普通の調律師としての仕事で生計を立てなければなりませんでした。それでも、彼女は諦めず、希望を捨てません。そして、ある時、名の知れたコンサート・ホールから連絡があり、専属のコンサート調律師が急病で予備の人も旅行中のため、代わりを務めて欲しいと依頼されます。

そこに出かけて行った彼女はびっくりします。その時のピアニストは、あの彼氏だったのです。彼氏は、彼女を見てかつての欲望が蘇ります。彼氏は、彼女と別れて以降ピアノ一本やりで、女性とは付き合っていませんでした。彼女がコンサート調律師になっていたので、もはや家族からも反対されないのではと思います。彼氏と彼女は再び付き合い始めます。暫く経って、コンサートの後のパーティーに彼女の浜松の同性愛の相棒が突然現れます。相棒は彼女が東京でこのピアニストと付き合っていることに嫉妬し、パーティーの場で、彼女の同性愛関係を暴露します。彼氏は悩みますが、そこに居た彼氏の家族が怒って、再び彼氏の付き合いを禁止します。

その頃、彼女の父はなくなり、母も膵臓ガンを告知されます。愛する男女を二人とも失った彼女は、舘山寺に戻り、母の面倒を見始めます。数年後に母もなくなり、彼女は一人残されます。すべての夢を失い、その後の希望がありませんでした。毎日、浜名湖の湖畔を無意味に歩いていました。そこで、彼女はまた彼氏に遭遇します。彼氏は実家に戻っていると言います。その理由は、交通事故で右手を怪我してピアニストとしての活動は完全に停止したからだと言うのです。東京でピアノ教師としての仕事はあったらしいのですが、うつ状態に陥って、親元に戻ってきたと言うのです。二人は、共に希望の人生を失い、慰めあいます。ピアニストとしての人生が終わった彼氏に対する両親の対応はあまりよくありませんでした。どちらかと言うと、邪魔者扱いにするのです。彼氏は今までの成功から、それなりの貯蓄はありましたが、それで何をするというあてもありませんでした。

それから、彼女と彼氏は毎日湖畔を連れ立って歩くようになります。そして、二人の間にはお互いに対するかつての愛情が蘇り、彼氏が彼女の家に同居するようになります。そして、次の彼女の誕生日に彼氏はグランドピアノをプレゼントしたのです。彼女はもう忘れていた、ピアノを弾くことに対する情熱を取り戻しました。彼氏は彼女の専属の教師として彼女を鍛えました。彼女は徐々に昔の感覚を取り戻し、何年か経つと、彼氏も認めるほどの才能を発揮したのです。

彼氏に連れられて、彼女は舘山寺温泉近辺にあるいくつかのホテルに足を運び、ピアノを弾くサービスをすると申し出ます。あるホテルの支配人が、無償で暫く試しをする気があるのだったら受け入れると言いました。二人は了解して、彼女はそのホテルで、毎日のように、かなり長い時間ロビーのピアノを弾くことにしました。普通は静かなバックグラウンドのようなピアノ曲を、時には難度の高いクラシックを取り交ぜたりしました。次第に、このホテルは彼女のピアノで知られるようになり、支配人は彼女と正式に契約を結ぶことにします。

ある日、たまたまそのホテルに保養に来ていた人が居ます。この人は、世界中で活躍する著名なピアニストでした。ロビーでくつろいでいる時に、彼女の演奏に気が止まります。普通のホテルのピアニストではないと感じます。そして、彼女の演奏に、この著名なピアニストがかつてピアノ・コンクールで競った相手のピアニストの技量を聞きつけます。滞在中の著名なピアニストは彼女と所へ来て、教師は誰かと聞きます。彼女は彼氏の名前を言うと、この著名なピアニストは「やっぱり」と言います。聞いていて分かったと言うのです。そして、彼女に東京に来てピアニストとして一緒に活動をしないかと誘います。同時に、彼氏にも会いたいと言います。普通は彼氏も彼女に伴ってロビーに居るのですが、この日は体調を崩して家で休んでいました。そこで、彼女は彼氏に電話をして、この著名なピアニストと話させます。当然、彼氏もこの著名なピアニストのことはよく覚えていました。そして、この著名なピアニストは、ニューヨークのジュリアード音楽院に対抗するような、そして日本の学校制度の枠にとらわれない音楽学院を東京に構想中だと言います。彼氏にそこの講師にならないかと言うのです。

彼女と彼氏は二人同時にそのような誘いを受け、びっくりしました。その夜は、二人で長いこと話し合いました。そして、次の日、その著名なピアニストにホテルのカフェで会い、二人の返答を伝えました。二人とも仕事の誘いは辞退すると言うものでした。その著名なピアニストは相当に驚き、がっかりしていました。いつでも気が変わったら連絡してくれと言って、連絡先を残しました。二人は丁寧にお礼を言ってそこを去ります。この二人は、遅ればせながら、やっと何が幸せかということをわかってきていたようでした。彼女は弾けなくなるまで、そのホテルでピアノを弾き、歩けなくなるまで、彼氏と浜名湖畔を歩きました。

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「あっ、すいません。こんなに長いこと一人で話をしてしまって。最近は、この話の構想に夢中になっていて、ついつい話してしまいました。」
「いいんですよ。わぁ~、いい話ですね。なんだか、思い当たることもあって。すっかり、のめりこんでしまいましたよ。」
「それは、嬉しいです。ところで、麗名さんはどんなところに思い当たったのですか?」
「いくつかあるんですよ。まず、私たちに近いところでは、彼女と彼氏が浜名湖を歩くところです。慎吾と私の初めてのデートは北海道の屈斜路湖畔を歩いたのです。」
麗名は簡単に二人のなれそめと今までの経緯を話した。
「麗名さん、そうだったですか。お二人の話も小説ものですね。その内、書かせていただこうかな~。それに、仲が良くて、羨ましい。私は、残念ながら、まだ生涯の伴侶を見つけられていないので。実は、私は釧路出身なんですよ。屈斜路湖も摩周湖も子供の頃、何回か行ってます。懐かしいなぁ。」
「えぇー、釧路ですか。私は故郷を出るときに初めて見た都市が釧路で、興奮してしまったんですよ。ほんとに田舎ものでした。」
「でも、都会に住んでいると、地方の良さを懐かしく思います。なんだか、都会では、すべてお金お金だし、兎に角何でもお金で買えるような錯覚に陥ってしまいます。」
「そうなんです。私もそれは痛感してます。あっ、それから白石さんの小説ですけど、その他にも、私たちが知り合った人の事を思い出させるシーンがいくつかありました。ところで、白石さん自身にも関連しているところがあるのですか?お気に障らなければですけど。」

「そうですね、小説を書くときはやはり、自分の経験というのはどこかに入っているような気がします。時には誇張し、時には他の事象にすり替えたり、でも、ほとんどは想像ですよね。私自身の経験に一番関連があるとすれば、私が両性愛者だということでしょうか。小説のようにドラマチックではありませんが、それなりに板挟み状態を経験したこともあります。私は両性愛とか同性愛と言うことが恥ずかしいことでも何でもないと思うのですが、周りにはすごく偏見を持っている人が居るので、いつも気を付けています。今、抵抗なく言ってしまえたのは、麗名さんの私の話に対する反応がとても自然に感じたからです。なぜか、隠す必要を感じなかったんです。」
「そうですか。私たちは依然、東尋坊で自殺未遂の同性愛の女性に出合い、『安心~の宿』という無料で滞在できる施設にお送りしたことがあります。ご両親に縁を切られてしまい、とても気の毒な状況でした。」
「そういえば、お二人のウェブサイトからリンクされている、その安心~の宿のサイトも見てみたのですが、許しを得られればぜひ訪れてみたいと思いました。素晴らしいですよね。」
「皆さん親切で、すごくいいところですよ。連絡してみてください。ところで、白石さんのお話の中では主人公の二人を彼女と彼氏と呼んでいましたが、名前は決まっているのですか?」
「実は、まだ試案中なんです。お二人の話を聞いて、『麗名』と『慎吾』もいいかなぁ~、なんて思ったりしましたよ。」
「それは、どうでしょうかね。ところで、私たちはもう一組慎吾と麗名というカップルを知ってます。それは、その安心~の宿を作った人たちなんです。」
「えぇー!そうだったんですか?随分奇遇ですね。」
「そうなんです。そして、奇遇と言えば、」
麗名はその時の様子と飛行機事故の事を説明した。
「ほんとですか。お気の毒ですね。」
「それに、これは定かではないのですが、シンゴとレイナという大道芸人が南米で活躍していたということをラジオで聞いたことがあります。女性がハーモニカを吹き、男性が手品をしていたそうです。」
「もしほんとなら、それも随分な偶然ですね。それに、それも小説のネタになりそうですね。すいません、仕事柄、いつもそういうことを考えているものですから。」
「楽しそうなお仕事ですね。」

そうしているうちに、車は浜松近辺を通過し、舘山寺に近づいた。出口のそばでトラックを止め、白石を降ろした。白石はお礼とともにまた連絡したいと言った。慎吾と麗名は運転を交代し、その日の目的地に向かった。

18.武良

この日の、便乗サービスの依頼者はかつて岩手に送ったことのある武良義明であった。今回は、数日後の岩手から埼玉までの行程にチェックをしている。
「麗名、武良さんからの依頼が入っているよ。」
「どうしたのかしら。」
「兎に角、返信をしておくよ。それから、二人の携帯の番号も渡しておくよ。」
「わかったわ。」

武良を乗せる日は、携帯で連絡を取り、何年か前に武良が降りたパーキング・エリアで待ち合わせた。
「慎吾さん、麗名さん、お久しぶりです。また、お世話になります。どうも、自分の力がないせいか、人のお世話にばかりなって、情けないのですが。今だって、状況が良いわけではありませんが、前回ほど落ち込んではいないんですよ。」
「それは、喜んでいいのかどうか、複雑なところのようですね。」
「まぁ、前回のどん底に比べればという程度で。もう低空飛行に慣れてしまっているんで、墜落してないということ自体、いい方なんですよ。いずれにしても、前回、トラックに乗せてもらって、ほんとにありがとうございました。そして、今回はお二人のウェブサイトを見つけたので、また、お世話になりたいと思いました。」
「いつでもどうぞ。その後どうされましたか?」

「あの後、初めて、父に会いました。思ったより老けていると思いました。なるほど、自分も年取ったらこうなるのかなといった感じでした。いくら血がつながっていると言っても二人とも初対面で、長いことぎこちない毎日でした。二人とも、自分で食べたいものを勝手に用意して勝手に食べてました。それでも、何とか二人で電気店を再建しました。関連の仕事は、父が、他人に教えるような感じで私に教えてくれました。小さい電気店なのでそれほど複雑なことはありませんでした。数年経つと、段々相手の気心が知れ、それなりに、共同生活のようにもなってきました。あまり、楽しいことはなかったのですが、特につらいとか苦しいと言うこともありませんでした。店の経済状況はトントンといったところで、とりあえず生活が出来る程度でした。まぁ、僕も他にすることもないし、他に行く当てもなかったので、なんとなしに何年も過ごしていました。そして、数年前からでしょうか、父の飲酒が急に度を越してきました。やはり、自分の子と言っても、僕は見ず知らずの人間で、今まで一緒にいた家族がみないなくなってしまった悲しみは消えなかったのでしょう。数週間前に、父は急性の肝臓疾患で亡くなりました。取り敢えず、葬儀を済ませ、僕はどうしようかと思いました。そのまま、電気店を続けようかとも思いました。ところが、父の生前の借金が発覚し、暴力まがいの取り立てが始まりました。僕は事情を知らないためどうすることもできずに、店を手放すことで手を打ちました。そんなわけで、振出しに戻った感じです。ただ、前回と違うのは、惚れていた彼女に裏切られるといった苦悶がないことです。また無一文になったわけですが、なんだか、割り切れた感じです。それで、お二人の仰っていた安心~の宿にお邪魔しようかと思いました。丁度、この便乗サービスのウェブサイトにもリンクされていたので、電話してみました。一両日中に、そちらに行っても良いと言われました。そう言う訳なのです。」

慎吾と麗名は納得した。そして、武良の手伝いをしたいと思った。慎吾が麗名の顔を見ながら言った。
「じゃ、武良さん、今日、埼玉に入ったら、安心~の里に寄って行きますよ。」
「ほんとですか?ありがとうございます。」
「僕たちもたまに顔を出さないと。」
「よく行くんですか?」
「よくではないんですが、時折。前にも言ったと思いますが、僕たちの実家ですから。」

道中、三人はそれまでのいろいろなことを話した。武良は、電気店の仕事を覚えたので、できれば、どこかでそれをしたいと言った。今は、大規模家電量販店が軒を並べ、小型店は肩身が狭い。それでも、武良の経験から行くと、大型店にない持ち味を生かせば、生き残ることは可能だと言う。そして、その持ち味というのは、地域に密着した隙間産業的な分野を開発することらしい。どうやら、今までの経験を通して、何らかのアイデアがあるようだ。慎吾と麗名は最近起こったいろいろなことを話した。

安心~の宿に着くと、モモが出迎えた。
「いらっしゃい、慎吾さんに麗名さん、そして、この方が武良さんですね?電話で話したものです。モモといいます。ミャンマーから来ました。ほんとの名前はモーモーなんですが、牛の鳴き声と間違えられないように、モモと呼んでもらっています。」
「武良義明です。苗字と名前を間違えても通じるような名前になってます。お世話になります。」

せっかくだからというので、慎吾と麗名もお茶を飲んでいくように勧められて中に入った。中では義男がピアノを弾いていた。ドビュッシーだった。麗名が喜んで、叫ぶ。
「義男さん!お上手ね。私、ドビュッシーが大好きなの。」
「いや~、オレは全く自己流だから。でも、弾いていて気持ちがいいんだ。」
「いい感じが出てますよ、それ。聞かせてくれてありがとう。」

仕事の帰り道に寄り道をしているので、慎吾と麗名は長居は出来なかった。武良を残して、二人は帰路についた。慎吾が麗名にこぼした。
「実は、一番最初に武良さんに会った日に、なぜか、モモさんの顔が浮かんだんだよ。」
「あら、そう。慎吾にも霊感が付いたかな。」
「なんだか、あの二人うまくいくような気がする。」
「その霊感、悪くないわね。」

それから、一年も経たないうちに新しい展開があった。まず、宿に入って間もない頃に、武良は高崎線の駅のそばにある小さな電気店に仕事があるか聞きに行った。そこは、老夫婦が経営していたのだが、丁度、老夫が脳腫瘍で入院したところだった。老妻はその場で、経験のある武良に手伝ってほしいと頼んだ。武良はその日から働き始めた。仕事も良くわかり、熱心で誠実な性格が気に入られ、どんどん仕事を任されるようになった。武良の地域密着型の構想も受け入れられ、徐々に仕事をその方向に向けて行った。店内には無料のコーヒー・コーナーを設け、武良は、店の車で顧客の要望にこまめに応じた。時には、狭い店内で、無料省エネ講座を開いた。これは参加者がたった一人でも実施した。半年ほどして、老夫は一応退院し、店にも顔を出したが、武良の頼もしい姿を見て、まかせっきりにした。その後、残念ながら、老夫の脳腫瘍は悪化し、それ以上手の打ちようもなく、どんどん衰退してしまった。そして、直に亡くなった。その後、老妻も急に元気がなくなり、肺炎を起こして急に亡くなってしまった。武良は店の仕事の傍ら、老夫婦の子供のように二人を病院に連れて行ったり、看病したりしていた。そして、老妻も亡くなってしまった時、弁護士から連絡を受けた。子供のいなかった老夫婦は全財産を武良に残したのだ。武良は老夫婦にもっと長生きして欲しいと思っていたが、店を継ぐことが老夫婦の意向と理解し、全力で店を運営した。

もう一つ、並行して起こっていたことがある。武良が仕事に精を入れる傍ら、宿では、モモが一生懸命に武良のサポートをしたのだ。通常は滞在者が自分でするはずの洗濯も手伝った。毎日、弁当を作って武良に持たせた。武良が老夫婦の入院の世話をしているときは、モモが電気店の店番をしたこともある。

そして、モモが電気店の手助けに時間を費やすようになると、東尋坊で自殺未遂だった理奈が宿の手伝いを始めた。宿の中の人々の分担が微妙に変化してきたのだ。そして、武良が老夫婦の家兼電器店を相続したときのことだ。モモが武良と同居して電気店を一緒に運営すると発表した時には、誰も驚かなかった。モモの代わりには理奈が安心~の家の住人になり、安心~の宿のスタッフとなった。

19.再び京都

慎吾と麗名のトラック便乗サービスも今や随分長いこと続いている。ほとんどは新しい便乗者だが、時には安心~の里の住人や滞在者がちょっとした息抜きに同乗することもある。最近では、あの東尋坊で自殺未遂の理奈が茨城県までの比較的短い行程に同乗した。
「慎吾さん、麗名さん、私にはあの東尋坊の頃がもうだいぶ昔のような気がする。そして、今でも私の相棒の佐保子のことは気の毒に思う。もし、安心~の宿の事を知っていたら、二人で訪れていたかもしれないとも思う。だけど、今は、私は佐保子の分も生きることが自分の役割だと感じている。慎吾さんと麗名さんが秋田での自殺予防への取り組みを実地で聞いて伝えてくれたのも大いに参考になった。武良さんとモモさんや、他の人たちの生きざまも参考になった。今日は大洗海岸で太平洋を見て、私の将来の糧にしたいと思っている。どうもありがとう。」
「理奈さん、それを聞いて僕たちも安心できる。食堂や海岸で理奈さんを見かけた時は理奈さんの様子にすぐ気が付き心配しだった。でも、正直言って、どうしてよいかわからなかった。大介さんが理奈さんを僕たちのトラックに導いてくれたおかげで、僕たちは自分たちにも出来ることがあると気が付いたんだ。おかげで、トラック便乗サービスを始めることが出来た。」
「そして、良く思うのは、どうしてうちの親は私が同性愛者というだけの理由で私と縁を切らなければならなかったのかということ。何が悪いのかなぁ。」
麗名が同情する。
「全くだよね。どうして、子供をそのまま受け入れてくれないんだろうね。慎吾の親にしてもそうだし。」
「世の中には、そうやって、親が無理やりにいろいろ押し付けているために苦しんでいる子供たちが沢山いる。親だけじゃない。私の高校は進学校だったんだけど、大学受験について、学校ぐるみで子供にはっぱをかける。私の友達で落ちこぼれた人たちはほとんど麻薬をやっていた。悪いのは子供じゃなくて大人のような気がする。でも、私達も大人になって、同じことをするのじゃないかという不安も残る。どうして、世の中は悲劇を繰り返さなければならないの?」
「安心~の里のしんごさんとれいなさんは、エコツーリズムのガイドの経験を通して、未開部族と接することが出来た。そして、未開部族でごく普通に行われていることに影響されてあの施設を作った。私たちは三人ともその恩恵に授かったわけだけど、私たち、世の中の普通の大人であってはいけないのかもしれない。私たち、安心~の里の、そして未開部族の精神を継承できる大人でなくてはいけないのかもしれない。」
「そうかもしれない。私達が、次の世代の子供たちを苦しませないようにしないといけない。簡単なことじゃないなぁ。」

理奈は、大洗海岸で太平洋を眺め、気持ちを新たにしていた。
「そうだ。子供たちだ。大人が何とかしてあげなくては。子供たちを理解し、助けてあげなくては。」
おぼろげではあるが、理奈には、新しい進路が見えてきたと感じた。

さて、麗名の妹となった沙織はと言えば、高校卒業後すぐに普通免許を取り、荷物配達の仕事を始めた。それから四年目には、慎吾と麗名の助けを借り、大型一種の免許を取得した。その後、慎吾と麗名の会社に入社し、新米運転手として一人で働き始めた。そして、最初の給料をもらった時、麗名に借りた修学旅行の費用を返すと言って、全額を貧しい子供のための基金に寄付した。それから数年後、沙織の彼氏はパイロットになった。パイロットとトラックの運転手では、なかなか一緒の時間は取れないが、それでも二人は結婚してアパート生活を始めることにした。二人は東京駅の近くのレストランで結婚のお祝いをした。東京駅は二人が修学旅行で付き合うきっかけになった出発点で、その時を思い出していたのだ。そして、沙織は、来た人皆に麗名が姉だと言って紹介した。二人の様子を見て、多分それが本当だと思った人もいたろう。

ある日、慎吾と麗名はトラックを会社に戻し、二人でアパートに戻る途中だった。麗名が言った。
「ねぇ、慎吾。今度、ドビュッシーの音楽のコンサートに行ってみたい。」
「そういえば、麗名は最近ハーモニカでドビュッシーの『月の光』を練習しているよね。あれ、難しいよね。ハーモニカでよく頑張っている。」
「うん。でも、この前、義男さんにピアノの楽譜をもらって、メロディーの所だけ吹いているから、少しずつ出来るようになるかもしれない。とても大道芸人は無理だけどね。
「少しずつ練習するところがいいんだよ。僕もそのうち吹いてみようかな。実は、小学校の時は、ハーモニカが吹けなくて、吹いている振りだけしてたんだよ。」
「慎吾らしいね。でも、誰にも悪いことはしてないよね。」

そのまま夜道を歩いている途中で、突然、麗名が慎吾に倒れかかった。慎吾はびっくりした。今までなかったことだ。心配して、慎吾は至急携帯で救急車を呼んだ。近くの病院に運ばれた時、麗名はもうぐったりしていた。慎吾は麗名の父が心臓疾患で亡くなっている事を思い出した。麗名にも同じ問題があるかと思うと気が気ではなかった。麗名はもう目をつぶりかけている。病院では緊急病室ですぐに心臓疾患の可能性を告げられる。しかし、翌朝まで何もできないと言う。

翌朝、麗名は精密検査に送られた。その間に、慎吾は沙織にメッセージを送った。検査の結果は絶望的なものだった。もう何も出来ない。いつ亡くなっても不思議はないと言うのだ。慎吾は病室で苦しい時間を過ごした。そして、その日の午後、麗名は最後の力を振り絞るように、慎吾に言った。
「私は何の取柄もない高校生三年生だった。慎吾はそんな私のことを気遣ってくれた。私のために修学旅行を諦めてくれた。その人に、私は一生を捧げてもいいと思った。慎吾はそれを受け取ってくれた。そして、今日、私は一生を捧げ終わる。何の取柄もない妻で終わる。その間中、いつも一緒に居てくれて、ありがとう。」
「麗名、麗名だけが僕のただ一人の本当の家族になってくれたんだよ。最高の取柄だよ!」
そして、麗名は目を閉じた。慎吾は、もう麗名が目を覚まさないと悟ったとき、麗名に最後の言葉をかけた。
「麗名はいつも起きるのが苦手だったよな。もう苦労して起きなくてもいいんだね。ゆっくりお休み。そして、大介さんによろしく。」

突然、大きな足跡がしたと思うと、沙織が部屋に入ってきた。慎吾は目を伏せた。沙織は大きな声で泣き出した。
「お姉さん!」

慎吾はどうしようもない絶望感に打ちひしがれていた。そして、この時初めて、理奈が自殺未遂に走った経過を実感した。その時、沙織が慎吾の肩を叩き、言った。
「お兄さん。私は悲しい。お姉さんを失ってどうしようもなく悲しい。だけど、私はわかる。お兄さんの悲しさはそんなもんじゃない。お姉さんと高校時代からずっと一緒に過ごしてきたんだから。お兄さん、悲しいのはわかるけど、私達をこれ以上悲しませないでね。」
慎吾は何も言わなかった。だが、沙織の気持ちは受け取っていた。

数日後、麗名の葬儀があった。安心~の里から、武良、モモ、理奈、そして年老いた義男が車で駆け付けた。次の日、慎吾は会社から退職した。会社の計らいで、慎吾と麗名のトラックは沙織が受け継ぐことになった。慎吾は身の周りの物を処分し、アパートを引き払った。

慎吾は旅に出た。何十日もかかって、歩いて京都まで来た。今、嵐山の橋げたに立っている。その隣には、沙織がいる。慎吾が旅の途中に連絡していたのだ。
「麗名、僕たちにとって、もう北海道は故郷ではない。それで、京都に来たよ。麗名は、前に、京都は住んでみたいぐらい素敵な街だと言ったよね。この素敵な街に住んでくれよ。」
そこまで言うと、麗名の遺灰を嵐山の橋げたから保津川に放った。そして、慎吾が楽譜を見ながら麗名のハーモニカで、必死にドビュッシーの「月の光」の最初の部分を吹いた。途切れ途切れであったが、少なくとも沙織にはその音楽がわかった。
「ごめんね、ドビュッシーのコンサートに連れていけなくて。だから、僕が吹いたんだよ。聞こえた?」

丁度その頃、京の西の山々には日が沈んだ赤みが映え、東の空にはおぼろげながら月が光っていた。慎吾と沙織が川岸に戻った時、慎吾は沙織に言葉をかけた。
「お幸せに。」
沙織は黙ってうなずいた。そして、慎吾は西に、沙織は東に向かって歩き出した。

20.山寺

ここは山陰地方のある山寺だ。夕刻に、旅人風の男が尋ねてきた。
「ごめんください。」
返事はない。男はまた言った。
「ごめんください。」
かなり長いこと経って、誰かがやってくる音がした。
「はい、はい。お待たせ。年取ると、耳が遠くなるし、足も弱る。どんなご用件かな?」
「ぶしつけですが、今晩ここに泊めていただけないでしょうか。無銭旅行の旅のものだのです。」
「そりゃ、構いませんよ。何も大したことはできないが、ここは、来るものは拒まずの寺ですから。」
「ありがとうございます。」

「僕は、しばらく前に妻を亡くしました。その後は、こうやって、徒歩で、あちこちとさまよっているのです。何かしらの安堵を求めているのです。」
「そうですか。お気の毒に。私も未だに安堵を求めていますよ。その気なら、いくらここに居たっていいんですよ。ところで、あなたのお名前は?私は、京和大慈と言います。」
「僕は石館慎吾です。」
「はぁ~。慎吾さんですか。前の住職から聞いた話では、その昔、ここに『慎』さんと『おれい』と言う夫婦が奉公していたらしいよ。二人の話はこの寺で代々語り継がれているんです。」
「そうですか。それは奇遇です。僕の死んだ妻は麗名と言いました。ところで、奇遇と言えば、僕はもう一組慎吾さんと麗名さんいう人たちを知っています。僕たち夫婦はたった一回、ほんの少ししか会ったことがないのですが、その夫婦には間接的に大変お世話になりました。」
「それはそれは、確かに奇遇ですな。」

そこに滞在中、慎吾は寺のまわりを散歩するようになった。庭の裏の方には外へ出る小さな門があった。そして、ふと、その横の木の壁に掘ってある文字に目が留まった。そこには、どうやら、「慎」、「麗」と二文字彫ってある。特に、麗の字が複雑だからか、率直に言ってうまく彫れているわけではない。その二文字の上には横長の三角形が、二文字の間には縦線が引いてある。丁度、相合傘のようだ。慎吾は「これは、京和さんの言っていた夫婦に違いない」と思った。同時に、麗名との三日目のデートで郷土資料館から出るときの相合傘を思い出していた。そして、よく見ると、それぞれの字の下にもう一字ずつ字が書いてあるようだ。ただ、それは彫ってあるのではなく、何か硬いものでこすったような跡である。どうしても、「慎」の字の下には「吾」、「麗」の字の下には「名」とあるように見える。それで、慎吾は、自分の思い出をそこに重ねるかのように、「吾」と「名」の所を指で何回も、何回もなぞった。

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作者注:この小説の時代設定は初めから終わりまで、すべて執筆当時を想定しています。

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