慎吾と麗名の旅奏曲(4):完結編

2020年4月4日 蓮 文句 第一話 旅籠屋 時は江戸時代の末期、所は今で言う山陰地方。当然、町人の旅は徒歩、旅人の宿泊は旅籠屋と決まっていた。 当時十六才のおれいは出雲のある豪商の住み込みの女中見習いとして奉公していた。主な仕事はここの奥さんの身の回りの世話である。さて、この奥さんは嫁いでもう何年か経つが子宝に恵まれずにいた。そこで、夫君はこの奥さんを有馬温泉の湯泉神社に祈願と同時に湯治場での治療に送ることにした。おれいはそのお供を言いつかった。二人は、出雲を出て、松江、米子から山間部に入り、津山を通って、姫路、明石と経由して、有馬温泉に到着した。旅慣れない女二人の旅、途中山道もあり、片道二週間程を要した。 有馬温泉では、宿を取るとすぐに湯泉神社に祈願した。これは二週間の滞在中毎日欠かさず行った。湯治場での表向きの療法は温泉につかる以外特にすることはなく、二人は毎日長いこと湯につかっていた。尚、物の本によれば、当時、温泉は混浴が普通で、女性の入浴時の世話も男性の三助がしていたということである。そして、実際の「治療」はと言えば、毎晩二人の部屋には二人の男が現れた。子宝が必要なのは奥さんだけであったが、この奥さんは自分だけに男があるのは極まりが悪いと思って計らったことであった。おれいは奉公中忙しく働かされていただけなので、生まれて初めての旅で、生まれて初めての経験をして、戸惑いが隠せなかった。さて、予定の二週間が終わり、二人は帰路についた。実は、この旅には、夫君に言い使った商用もあった。姫路の取引先で、小さいが比較的高価な品物を預かり、それを鳥取の取引先に届けるというものである。そこで、姫路からは、因幡街道の智頭往来ルートを通って、鳥取に抜け、その後は山陰道を出雲まで戻る予定だった。途中、智頭街道の志戸坂峠を越えた時は、二人ともたいそう疲れたため、やっとのことで鳥取側の最初の宿場に辿り着いた。そこには一軒だけ古びた兼業の旅籠屋があった。 やはり当時十六才の慎は、富山の薬売りの息子で、修行のため、現在の中国地方を担当する父のお供として、各地を回っていた。この父の薬物の中で一番の人気商品は子宝に効くという秘薬で、商いは順調であり、それなりの富を蓄えていた。この父は、大きな町に泊るときは決まって夜中に出かけて行って遅くまで帰ってこない。慎はいつも好奇心に満ち溢れていたが、父は慎には何も言わなかった。また、この父は子宝に関する相談を受け持つことも多く、時には子宝に恵まれない細君を個別に診察して差し上げるなどということもしていた。そのような時は、慎は幾ばくかの金をもらい、外でいついつまで過ごすようにと言われる。それで、慎は街に出てはうまそうな物を食らい、うまそうな酒を飲んだりすることもあった。 道中、この父子は山陰道から備前方面へ向かうに際し、鳥取で宿を取った。これから山々を超えて行くため、父はここでひと遊びしておかねばと思った。また、この日も個別診察を承り、慎を外にやった。仕方なく、街で一人で飲み食いをしていると、派手なかっこをした女が近寄ってきて一緒に飲み食いしてよいかと尋ねる。二人は、なんだかんだと差し障りのない話をしていたが、急にその女が、女を抱いたことがあるかと聞く。慎は正直に答えると、自分を抱かしてくれるという。そして、幾ら払うかというのだ。慎は父に貰った金のほとんどは飲み食いに使ってしまったので、懐には大した額は残っていなかった。それを見せると、その女は少しがっかりしていたようだが、ないよりはましかといいその金銭をすべて取り上げた。そして、ついて来いという。その時が、慎の初めての経験であった。翌日からは、商いをしながら、智頭街道を南下し、数日後には峠の一番手前の宿場まで行き着いた。そこには一軒だけ古びた兼業の旅籠屋があった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ その旅籠屋は部落の中心を流れる小さな川を渡ったすぐ反対側にあった。部落には他に店もなく、娯楽もなかった。慎の父は旅籠屋の食事を出すところで宿泊客に薬を売り込んでいる。そして、この同じ日に宿泊中の例の奥さんが湯泉神社に祈願してきたということを聞きつけ、個別診察を勧めている。夕飯の後、慎の父はこの奥さんを自分の部屋に呼び込んだ。奥さんは疲れていたが、断るのも億劫という感じでついて行った。そして、父は慎にいつものように外で時間を潰すように言った。ただ、この時は、慎に小遣いを与えなかった。おそらく父はこの部落には金を使うようなところがないことを知っていたからだろう。慎はもう食事も終わっていたし、この部落には時間を潰すようなところもないと悟っていた。その時、慎の脳裏に閃いたことがある。「そうだ、あの奥さんには若い女子がお供しとった。あの女子に声をかけてみよう。」慎はコッソリとその部屋を探した。この旅籠屋にはそんなに多くの部屋がなかったので、割と容易にその部屋を見つけることが出来た。慎はそっと声をかける。 「あの、奥様にお供の女子さんでしょうけ?」 何も返答がない。 「もう一度お尋ねする。奥様にお供の女子さんでしょうけ?」 暫くして、細々とした返事があった。 「何の御用だらーか。」 慎はとっさに嘘をついた。 「奥様のお使いで来た。」 また、沈黙が続いた。 「何のお使いだらーか?」 「薬を持ってきた。」 「何の薬だらーか?」 「奥様の薬や。部屋に持ってくるように言われた。」 すると、スーッと障子が開き、おれいが出てきた。慎は「間違いのうあの女子や」と、にんまりした。そして、どうしても外に連れ出したいという考えが浮かんだ。 「薬をごしなぃ。部屋に置えちょく。」 「これや。」 流石に薬売りの子供だけあって、慎はいつも懐に風邪薬の一つや二つは持っている。それを渡して言った。 「んで、奥様ちゃ時間がかかりそうや。外を散歩でもせんか?」 おれいはこれには返事をしない。少し、怪しんでいるようでもある。 「失礼した。わしちゃ薬売りの息子や。わしの名ちゃ慎や。ここに泊っとる。ほんの宿の前のところでいいんや。富山の菓子もあるちゃ。」 菓子と聞いて、おれいは興味を示したと見える。部屋の外に出てきた。 「ちょっこしそこまでだけや。」 慎が先に廊下を進んで、旅籠屋の玄関を出る。おれいも宿の草履を突っかけてついてきた。 「綺麗な月が見えるちゃ。ほれ、見てごらん。」 おれいは何も言わずに月を見あげた。おれいは自分の生家から奉公に出て二年ほどになる。寂しくなると、月を見上げて過ごしてきた。まだ生家が懐かしいのだ。おれいはボソッと呟く。 「月を見ーとお父やお母を思い出す。」 「そうやけ。離れて長いがけ?」 「はえ。2年程になー。」 「そうやけ。自分の家が一番やちゃ。菓子を食べっしゃい。なんて名前やけ?」 「おれい、とえう。」 おれいは慎の差し出した菓子を食べ始めた。気に入ったようで、むしゃむしゃとすべて食べた。 「好きか?良かったちゃ。少しその辺を歩いてみますけ?」 慎はそう言うと少しずつ歩き始めた。おれいは少し後をゆっくりと付いてきた。旅籠屋の前の橋を渡り、部落の通りに出た。やはり店はない。提灯が一つ二つとあるきりだ。慎は少し歩き方をゆっくりにしておれいと並ぶ。二人は、各々のことを少しずつ話した。おれいはあまり気にせずに、奥さんの子宝の祈願のため有馬温泉に行ったということを漏らしてしまった。そして、そこでの夜のことを思い起こし、顔を赤くした。だが、夜道故、慎には見えなかった。それでも、慎は慎で子宝の祈願のことが気になっていた。慎の父は当時で言えばその道の専門家である。 「わしのお父ちゃ子宝に効く薬を売っとるがや。奥様ちゃそれでお父と話しとるんがや。奥様ちゃ湯治場で何をしとったがやけ?」 「湯に入ったり、男を呼んだりしちょった。」 「おれいさん、それ、見たんか?」 それに対しては、おれいは何も答えなかった。 丁度その頃、二人は数えるほどの軒並みしかない部落の中心部を過ぎた。そこには小さな神社があったので、そこに入り、木の切り株に腰を降ろした。おれいは有馬温泉の夜のことが頭に浮かび、少なからず体が熱くなっていた。慎もまた、数日前の初体験が蘇り、興奮を抑えられずにいた。いつの間にか、二人は何も言わずに近くの草むらに寝転んで抱き合っていた。 現代人の皆様はこのような経緯をいきずりでふしだらな行為と言って批判するかもしれない。しかし、これは車も、テレビも、携帯どころか有線の電話さえない時代の話である。十六才で学校にも行かずに大人の世界に入りつつある慎とおれいには、どれだけ同い年の異性と遭遇する機会があろうか?自分の好みの相手を探し求めるような時間と自由があろうか?慎とおれいの出会いは、慎の強い動機とちょっとした機転が切っ掛けで実現した稀な出来事であった。若い二人には非常に限られたロマンスのひと時だったのである。という訳で、この話は、たとえ同じ国のことと言えども、時代の隔たりを考えれば、異国の文化と同様に捉えた方が良いかもしれない。 さて、まだ二人の気持ちが高揚している時に、突然、バチバチと言うような大きな音が聞こえ始めた。これには、事の最中とは言え、流石に驚かざるを得なかった。同時に、あの古びた旅籠屋の方角に火の粉が舞い上がっているのが見えた。二人は慌てて着物を着ると旅籠屋の方に駆け戻った。だが、旅籠屋に通じる橋の手前で立ち止まざるを得なかった。旅籠屋は完全に火の海と化していたのだ。部落の人々が非力な消防活動をしている。二人は唖然としてそこに留まっていた。他に何もできず、しっかりと寄り添っていた。火が完全に消えたのはもう夜明けに近いころだった。二人は疲れ果てていた。それでも、慎もおれいも各々の連れの状況が心配で部落の人に聞いてみた。話によると、最近界隈を荒らしまわっている賊が宿泊客の金銭を盗んだ上に火を放ったと言うのだ。そして、宿泊客は誰も生き残らなかったと言われた。 二人は唖然とした。慎は父を、おれいは奥さんを失ってしまったのだ。おれいはしくしくと泣きだした。慎も一人だったら、泣いていただろう。だが、今そうしている訳ににはいかなかった。この山奥の何もない部落で、昨夜偶然に知り合ったばかりの二人だけが唯一の知り合いとなってしまったのだ。そして、当然のこと、二人は何も持っていなかった。ここは、二人の故郷の富山にも出雲にも遠い、人里離れたところだ。どうしていいのかわからなかった。二人とも、いっそ連れと一緒に死んでしまっていたら事が簡単だったと思った。と同時に、たまたま旅籠屋を抜け出したために、命が救われたという僅かな慰めの感もあった。二人は長い間何も話さずにいたが、慎が口を開いた。 「おれいさん、わし達、運が良かったか悪かったかわからんが、二人だけ生き残った。どうしたらいいか一緒に考えてくれっけ?」 「慎さん、わかった。そうすーより、仕方がなえ。」 と言う訳で、どうするか話し合った。そして、昨夜出会ったばかりの二人はこれからの行動を共にしようと誓った。その後は、今までの疲労のため二人ともその橋の袂で倒れるように横になってしまった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 日もだいぶ高くなったころ、目が覚めてから、二人は人の好さそうな老人を捕まえて、まず自分たちの身の上のことを打ち明け、部落の周辺のことを聞いた。一番知りたかったのは、二人が転がり込めるようなところがあるかどうかということだった。この老人の話では、4里程だったか歩いたところに山寺がある、そこへ行ってみるのが良いかもしれないということだった。慎はその老人にまだ少しだけ残っていた風邪薬を見せて、何か食べ物と交換してくれないかと頼んだ。老人は気の毒に思い、薬と引き換えに自分の家からおこわのおにぎりを二つ持ってきてくれた。その老人の昼飯用にとってあったものだと言う。二人は老人に礼を言い、山寺に向けて出発した。 … Continue reading 慎吾と麗名の旅奏曲(4):完結編