ママ、どこ?(子リスの話)

2020年6月14日 蓮 文句 日本と違って、この国にはどこにでもリスがいます。街の中の公園、郊外の家の庭、農家の周りなど、至る所にいるのです。それなので、これは、そんなに珍しい話ではありません。ごく普通の、子リスの話なのです。 郊外にあるこの家には、二本のならの木があります。そして、それぞれの木の高いところに一つずつリスの巣があります。ある春の日、その内の一つの巣の中で、お兄さんと妹の子リス、二匹が生まれました。ところで、リスは誰も名前があるわけはないのですが、この話の中では、兄をアルディ、妹をディージャと呼ぶことにします。二匹のお母さんのことは、単にママと呼びましょうか。 リスの赤ちゃんは生まれた時、まだ毛がないのです。それもつかの間、子リスたちにはすぐにふさふさの毛皮が生え、立派なしっぽが出来上がります。さて、この二匹の子リスに毛皮が生えた時に分かったことです。アルディはママと同じく、少し茶色がかった灰色なのですが、ディージャはなぜか真っ白でした。それでも、家族の間で毛皮の色など気にするはずはありません。アルディとディージャはいつも一緒に遊び、家族みんなで仲良く暮らしていました。 初め、子リスたちはママの乳を吸って育ちました。その後、何週間かたって、少しずつ巣から出られるようになりました。それからは、ママが庭にある食べ物を探すことを教え始めました。みなさんご存知のように、リスはどんぐりが大好きなのです。ところが、その時は春だったので、まだどんぐりはありません。それで、仕方なく、木の芽、色々な種類の植物の種、キノコなど、その時そこにある物で我慢しなくてはならないのです。それでも、巣から出て、新しい世界を体験できるということは嬉しいことでした。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ リスは生まれてから十週間くらいで、乳離れをします。それからは、自分で探した物だけを食べるようになります。アルディとディージャにもそろそろ、その頃がやってきました。ある日、二匹とも自分たちで食べ物を探しに行った後、巣に戻ってママの帰りを待っていました。 ところが、ママはなかなか帰ってきません。巣の下の草むらを誰かが走る音がすると、ママかもしれないと思って期待しました。ところが、それは、うさぎでした。二匹はがっかりしました。また、誰かが走る音がしました。今度は、ネズミでした。とてもがっかりしました。またまた、誰かが走る音がしました。これは、ウッドチャックでした。どうしようもなくがっかりしました。その次は、誰かが木を昇って来る音がしました。二匹は、「今度こそ、ママに違いない」と期待をつのらせました。それは、隣の木に住む叔母さんのリスでした。この叔母さんはママのお姉さんです。心配して様子を見に来てくれたのです。 仕舞には、一生懸命鳴いていた鳥たちも寝静まってしまいました。それでも、まだママは帰ってきません。アルディとディージャは、真っ暗な夜を、生まれて初めてママなしで過ごさなければなりませんでした。心配で心配で、眠れない夜でした。とうとうディージャは泣き出してしました。悲しい時は、リスだって泣いてもいいですよね。アルディは、ディージャよりほんの数分早く生まれただけですが、一応、お兄さんということで、泣きたいところをこらえていました。その代わり、時々、後足でどんどんと木の枝を蹴って、気を紛らわせていました。辛い時は、リスだって足を踏み鳴らしてもいいですよね。 そして、夜が明けました。ママはとうとう帰ってきませんでした。二匹は乳離れしたとは言え、まだまだ、色々なことをママに頼っていました。どうしても、ママと一緒に居なくては気が済みませんでした。 すると、また、叔母さんリスがやってきました。叔母さんは、二匹のことをなぐさめようとしましたが、うまくできませんでした。どんなに優しくても、やはり、ママではないのです。ところで、リスの世界では、お父さんたちは子育てには参加しません。私たち人間には納得できないことですが、リスの世界では当然のことなのです。それで、この話には、お父さんリスは出てきません。 さて、ママは次の日も、次の夜も帰ってきませんでした。そして、リスの場合、人間の世界と違って、どこかに行方不明の届けを出すというようなことはありません。一日、二日して帰ってこない場合、普通、リスは諦めなければならないのです。 ところで、アルディとディージャは、まだまだ一人前とは言えません。それで、哀れに思って、叔母さんが二匹を自分の巣に連れてきました。ところが、叔母さんはすでに自分の子供が五匹居るので、急に、巣がきゅうくつになってしまったのです。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ アルディとディージャは叔母さんに感謝しました。それでも、まだママのことが忘れられませんでした。それに、きゅうくつな巣で過ごすのも大変なのです。それは、日本の住宅事情を考えれば、想像がつくことだと思います。 それで、アルディは叔母さんの巣を飛び出して、ママを探しに行くことにしました。そう決めるとすぐに、アルディは木を駆け下りて家の前の通りを渡りました。すると、あわてたディージャがついてくるのです。アルディは何度もディージャのことを振り払おうとするのですが、ディージャは必死でついてきます。それで、アルディも諦めました。それで、二匹は一緒にママを探しに行くことにしました。 地面に降りてすぐに注意しなければならないのは大きな動物です。犬や猫などのペットはもちろん、この辺には、キツネ、たぬき、タカといった野生動物がいます。幸い、リスは抜群の木登り能力とジャンプ力で、木にさえ登れればそれらの動物から逃れることができます。 当然、夜寝る時は木の上です。木の上の高いところにいる限り、安全なので、ぐっすりと眠れるのです。そして、主に朝夕の静かな時、食べ物を探します。この時期にある食べ物はどんぐりのように栄養がないので、沢山食べないとなりません。 それから、動物よりももっと巨大で、速くて、危ないのは、自動車です。この辺は人々がみんな車で移動するので、大変多くの車が道を通ります。それで、道を渡るときは、右を見て、左を見てと十分に注意しなくてはならないのです。 アルディとディージャは旅の途中、何回か自動車事故にあったリスを見ました。その時はいつも、もしかしてママでだったらどうしようという不安がつのります。そして、事故にあったリスがママでないと分かると、ホッとします。ですが、同時に、そのリスの家族のことを大変気の毒に思うのです。そうです。リスは哺乳類で、高度に発達した脳を持っているので、私達人間とほとんど同じような感情を持っているのです。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ アルディとディージャが旅に出て何日もたちました。沢山のリスに出合ったのですが、ママは見つかっていません。そして、同じ年頃の若いリスの集団に会った時に、二匹の予想していないことが起こりました。その集団のリスたちが代わる代わる、ディージャのことを追っかけたり、ぶったり、いじめるのです。始め、アルディもディージャも、どうしてだか分かりませんでした。 そして、そんなことが、あっちでも、こっちでも、何度もあって、やっと気が付きました。それは、ディージャが真っ白だからだったのです。当然、アルディはディージャの兄なのでそんなことは気にしたことがなかったのです。それに、従兄にあたる、叔母さんの子供たちも、ずっとディージャのことを知っているので、そんなことはなかったのです。ところが、初めてディージャに会う多くの若いリスはディージャが真っ白だというだけでいじめるのでした。 ディージャはそれなりに気の強いリスなので、初めは、抵抗していました。ただ、それが、何回も何回も続くと、さすがのディージャも疲れてきました。どうして、真っ白なために、自分だけいじめられなければならないのかと、嘆きました。何度も何度も泣いたのです。アルディもそれを見ていて辛い思いをしていました。 アルディはディージャの近くにいる時は、いじめ集団を追い払おうとします。ただ、食べ物探しに熱中していると、二匹は離れ離れになっていることがあります。すると、どこからともなく、いじめ集団が現れては、ディージャだけをいじめるのです。それで、アルディとディージャは次々と新しい土地に移って行きました。 そして、かなりの距離を旅して来た時に、別の驚きがありました。その土地のリスたちはみんな真っ黒なのです。今度は、ディージャだけでなく、アルディもいじめの対象になりました。アルディはこの時初めて、ディージャの気持ちが本当に分かりました。そして、二匹は、どうして毛皮の色が違うだけで他のリスをいじめるのだろうと怒り、がっかりしました。いずれにしても、そこでは、安心して食べ物を探すことも出来ずに、また他の土地に移らざるを得ませんでした。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 何週間かかけて、アルディとディージャは行けるところはすべて行ってみたと思いました。それでも、ママを見つけることは出来ませんでした。それで、仕方なく、旅から帰ってきました。疲れ切っていたディージャは真っ直ぐに自分たちの巣に戻りました。 アルディは、周りの様子を見回るために、隣の家にあるすごく高い木に登りました。そして、その時、急に目についたものがあります。隣の家の子供、ジムが裏庭で泣きながら一匹のリスを大事そうに両手で持っているのです。ただ、そのリスは完全にぐったりとしていて全く動きません。アルディはすぐに気が付きました。それは、ママだったのです。 懐かしさと嬉しさがこみあげて、ママがどういう状態かということは全く眼中にありませんでした。それで、思いっきりママの所へジャンプしたのです。みなさんも知っていると思いますが、リスはとても遠くまでジャンプすることが出来ます。場合によっては、自分の体の何十倍もの距離をジャンプすることが出来るのです。 まず、アルディはうまくジムの肩に捕まりました。ママを持っていたジムは、他のリスが急に跳んできて、とてもびっくりしました。それで、あわてて持っていたママを手放して、アルディを振り払ったのです。ママは地面に落ちました。その直後に、アルディはママの真上に落ちました。その時、アルディの前足がママの胸を上から押し付けるような格好になったのです。 その瞬間に、今までぐったりとしていたママが急に眼を覚ましました。ママは目の前にいるアルディを見て大変驚き、そして、大喜びしました。アルディも大喜びでした。しかし、ゆっくりしている暇はありません。二匹は一目散で自分たちの巣に戻りました。 アルディとママが巣に戻った時のディージャの驚きと喜びは表しようがありませんでした。そして、それからは、三匹のリスの家族は、久々にゆっくりと、楽しい日々を過ごすことができました。聞いたことがありますか?時には、リスも大きな声で笑うんですよ。楽しい時は、リスだって笑ってもいいですよね。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ そして、その間に、みんなもう気が付き始めていました。アルディはもう一人前になったのです。巣を出て、自分の生活を始める時が来たのです。それで、アルディはママとディージャに見送られて、生涯の旅に出ました。この旅の途中で、アルディはお父さんになるでしょう。そうしたら、もうこの辺には戻って来ないかもしれません。アルディにはそれが寂しくない訳ではありません。ただ、ママを助けられたことで、納得のいく旅立ちになったのです。 それに、一年もしないうちに、ディージャは近くの木に自分の巣を作ることでしょう。そして、ディージャの子供たちにとっては、お母さんが真っ白だということは全く関係のないことなはずです。その子供たちは、他の真っ白いリスに出合っても、いじめることはないはずです。 ところで、隣の家の子供、ジムのことです。ジムはリスをペットとして飼っていたことを後悔しました。やはり、野生の動物をペットにすることは無理だし、いけないことだと分かったのです。そして、それ以上に、死んだと思っていたリスが生き返るのを見て大変感動しました。観察力のある彼は、アルディがママの心臓をマッサージするような格好になったことが、死んだはずのリスを生き返らせることになったのではと考えたのです。彼はその後、医学を学び、今現在使われている心肺蘇生法(CPR)の開発者の一人として知られるようになりました。彼の本名はジェームズ・エラムと言います。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【この小説はフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。】

Essays on Mindfulness and Meditation

Here are the links to the essays on mindfulness and meditation available on this site. Attachment and Non-Attachment: Attachment Theory and Buddhism. (2009) Right Mindfulness through Diagrams: Experimentation beyond Bare Attention. (2014) [full document at https://archive.org/details/Komagata14RightMindfulness%5D A Pothole Analogy Applied to the Peace of Mind. (2016) Concerns about McMindfulness. (2016) Unconditional Parenting and Secure Attachment. … Continue reading Essays on Mindfulness and Meditation

絶望の波跡【改訂版】

2020年7月1日 (初版:同年6月1日) 蓮 文句 *この作品は初版の挿話3部分ほぼ全体とその他にも何か所か書き直したものです。* 1.疑惑 幸路は妻の望美と1DKのアパートで質素に暮らしていた。ある日、幸路の高校時代の友人、貫太から電話があった。特別な事情があって暫く泊まらせてくれないかと言う。アパートは手狭ではあるが、台所でも寝れるからという友人の頼みなので、兎に角受け入れた。幸路と貫太は久しぶりに会ったので、当初は毎日、夕食時にビールを飲みながら昔話に花を咲かせた。 その頃、幸路は日曜休日を除いて朝から夕方まで近くの倉庫で荷物の仕分けと積み込みの仕事をしていた。望美は平日の4~6時間だけやはり近くのスーパーでパートをしていた。滞在中の貫太はと言うと、毎日昼間に数時間出かけるが、それ以外はアパートに留まっているようだった。 その調子で2週間は経ったろう。旧友とは言え、小さなアパートに三人の生活が長くなると、幸路は少し息苦しくなってきた。幸路の「いつまで居るのか」という問いに対して、貫太は「もう少し」と言うだけで、はっきりした返答をしない。 それからさらに2週間ほどした頃、貫太がやっと「出て行けそうだ」と言った。幸路はほっとした。次の日、幸路はシフト調整の手違いがあり、仕事から2時間ほど早く帰ってきた。アパートのドアを開けようとした時、中から望美の興奮したような声が聞こえた。はっきりと、「あたしはどうすればいいの?」と聞こえたのだ。その後、貫太と望美がなにやら言い合っている様子だったが内容は分からなかった。幸路はドキッとした。「何かおかしい」と思わざるを得なかった。 そして、急に最近の様子を思い起こした。 「そう言えば、最近、望美の貫太に対する態度が変わってきたような気がする。今まで気にしないようにしていたが、今の望美の言葉で急に怪しく思ってきた。それに、貫太は俺の前で取り繕っているような気配もある。もしかして、俺が仕事をしている間にあの二人の間に何かあったのでは?」 幸路はそんなことを考え始めたら止まらなくなってしまった。中に入る気になれず、急にドアから手を離してその場を立ち去った。近くの公園まで来て、そこのベンチに座った。しきりに考えまい、考えまいとしたのだが、頭の中はその事で一杯だった。それと同時に、望美との経緯も思い出していた。二人はボウリング場で知り合い、半年ほど付き合ってから結婚して4年と少し経つ。望美はいつもお弁当を作ってくれるし、帰宅時には笑顔で迎えてくれる。また、忘年会などで幸路が飲み過ぎた時に、望美が飲み屋までやってきて、幸路を抱きかかえるようにして連れ帰ったこともあった。今までずっと、幸路は望美との結婚生活が幸せと思っていたし、ありがたく思っていた。それで、そこで少し待てば、落ち着くだろうと思った。 ところが、その間に、もう一つ思い起こしたことがあった。数日前帰宅した時の事だ。いつもは幸路が帰宅するときには夕食が用意できているのに、その日は望美がまだ準備をしていた。それだけではない。望美の髪の毛が完全に乾いていなかったし、その日に限ってシャワーが使ったばかりの様に濡れていた。これは、幸路が毎日仕事から帰ってすぐにシャワーを浴びるので、気が付いたことだ。その時は、一瞬、望美に聞こうかとも思ったが、何かを勘ぐっていると思われるのも嫌で何も言わなかった。だが、今となっては、この事が決定的と思った。あの日、確かに、望美は幸路の帰宅少し前にシャワーを浴びたのだ。結婚してからずっと、望美は毎日必ず朝にシャワーを浴びていたので、望美が午後にシャワーを浴びて夕食の準備が遅れたと言うのは極めて異例の事だ。 シャワーの件と、さっきの望美の言葉とを合わせると、幸路はもう望美と貫太の関係を疑わない訳にはいかなかった。頭の中は怒りで破裂しそうであった。そこで急に立ち上がり、携帯の電源を切ってから、アパートとは反対の方角に歩き始めた。どこに行くと言う当てがある訳ではない。兎に角、反対の方向に行かなくては気が済まなかった。憤ったまましばらく歩くと、そこは、多摩川の河原だった。 2.逃避 幸路は多摩川の河原まで来た時、一瞬立ち止まった。ここ、青梅から川上に向かうと奥多摩の山間部に行きつくだけである。幸路は人気のない所、特に、山の中には恐怖心があった。それで、自然と川下に向かって歩き出した。途中、ずうっと、望美と貫太の事で頭がはちきれそうであった。 「どうして、俺は貫太を泊まらせたりしたんだ。それが、間違いだ。日中、何時間も望美と貫太だけアパートに残しておいたのは明らかに俺の失策だ。後悔しているのは確かだが、今となっては取り返しがつかない。それでも、あの二人には良心と言うものがないのか。恥と言うものがないのか。どうしようと言うのだ。もし、結婚生活を捨てる覚悟で浮気をしたとしたら、望美はもともと結婚生活に満足していなかったんではないか。それに気が付いていなかった俺が愚かだっただけか。望美を満足させられなかった俺の落ち度だろうか。」 「それにしても、直接、望美、そして貫太と話した訳ではないから、これは俺の妄想だろうか。いや、それはあり得ない。あの望美の言葉とシャワーの事を思えば、絶対に間違いない。それでも、面と向かって話をすべきか。もし、望美が過ちを認め、許しを求めたらどうだろうか。俺は望美の事を許すことが出来るだろうか。いや、もし面と向かったら、今の俺の頭の中の状態ではまともな対応が出来る訳がない。何も良いことはない。それに、望美と貫太がもうすでに駆け落ちでもしていたら、俺には絶えられる訳がない。俺の頭の中の混乱状態は、自分の意志で断ち切らなければならない。」 同じことを何回も、何回も考えながら歩いて、5時間ほど経ったろう。立川近辺まで来た頃には、日はとうに暮れ、夜も更けてきていた。かなり疲れてきたので真っ暗な公園の中にあるベンチに腰を掛けた。頭の中は依然、怒りで一杯であった。少し休もうと思い横になったが、眠れる状況ではない。暫くじっとしていると今度は寒くなってきた。いっそのこと、このまま凍え死んでしまえば良いとさえ思ったが、それほどの低温でもない。怒りと寒さに侵されたまま、眠れぬまま暫く横になっていた。だが、急に、夕食も食べていないし、何も飲んでもいないことに気が付いた。 そこで、今度は街の方に向かって歩き出した。まず夜間営業のATMで現金を引き出した。引き出せる限度額、全額を引き出した。それから、コンビニで暖かい缶コーヒーとおにぎりを2個を買って外に出た。コーヒーを飲みながら歩いていると、ネットカフェがあったのでそこに入って、持ち込んだおにぎりを食べた。暫くネットを見ていたが、それでも望美の事が頭から離れなかった。 今度は、ボウリング場で初めて望美を見た時の事を思い出していた。一目惚れだった。幸路は数人の男友達と来ていたのだが、隣のレーンにいた女性グループに望美が居たのだった。そして、明らかに望美も幸路の事を意識していると思った。幸路はその辺にあった紙切れに自宅の電話番号を書いた。その頃、幸路はまだ携帯電話を持っていなかったからだ。そして、望美のボールが戻って来た時に、その紙切れを素早くボールの所に置いた。望美はすぐにそれを取って、幸路に目配せした。その日の夜、幸路の自宅に望美から電話があり、その後はすぐに親しくなり結婚に至った。結婚後も幸せな毎日だった。少なくとも、幸路はそう思っていた。「今までは良かった。」幸路は何度も何度もそう思った。そして、その後、いつの間にか、うとうとしていたようだ。 気が付くと朝になっていた。そこが自分のアパートで、横に望美が寝ていたら、幸路は悪夢を見ていたと思ったかもしれない。だが、現実は厳しかった。ネットカフェで一人で夜を明かしたことを再認識すると、また、怒りが蘇った。「憎い。望美が憎い。貫太が憎い。」 3.回想 幸路は辛い昨夜の思いを振り切るかのようにネットカフェを出た。寝不足の目に朝日が眩しかった。そして、また苦悶が始まった。「とうとう望美に何も言わずに、アパートにも帰らずに一泊してしまった。心配しているだろうか。携帯の電源は切ってしまったが、留守電が入っているだろうか。そうだとしても、今それを聞く気にはなれない。警察に連絡したりしてはいないだろうか。たとえ過ちを犯した妻とは言え、妻には変わらない。心配をさせてしまったかもしれないという罪悪感は拭えない。今すぐに電話をして謝ろうか。」 しかし、そう思った途端にまた望美と貫太の事が頭に浮かび、怒りが呼び戻った。「いや、ひょっとして、俺が帰らないことを喜んでさえいるかもしれない。今話す事は出来ない。」そこで、また多摩川の河原に戻り、さらに川下に向かって歩き出した。その日は良い天気で日差しも強かった。日中の気温はどんどん上がり、太陽がぎらぎらと照り付ける。暑くなり、途中で上着を脱ぎ、腰の周りに結んだ。休憩のため、何回か木陰のベンチに腰を下ろすこともあった。 「俺は何でこんなことをしているんだろう。何の解決にもならないではないか。確かに望美と貫太は過ちを犯しただろう。だが、こうやってその事実から逃げていて何になるのか。問題に真正面から対応できないものか。」 途中、公園の横を通った時には、望美と二人でピクニックをしたことを思い出した。 「あの頃、望美は子供を欲しがっていた。しかし、俺は反対だった。表向きの理由は子供が居たらきちんと育てる義務がある。それが重荷だということだ。だが、俺の本音はと言うと、子供が生まれたら、子供に望美を取られてしまうという心配があったからだ。それは、自己主義だと言って批判されればそれまでかもしれない。」 「それから、問題の一つは望美の愛想が良すぎることかもしれない。望美は誰にでも笑顔を振る舞う。それは良いことに違いない。だが、世の男達は望美が自分に気があると思いはしないだろうか。まてよ。もしかして俺もその一人か?ボウリング場で俺に気があると思ったのは、単に望美が愛想が良かったからか?でも確かに自分から電話してきたし結婚までしたんだから好きだったのは確かだろう。」 今度は自分の最初の彼女の事を思い出していた。それは高校時代だった。その彼女とは時折、街でデートをする程度で深い関係にはなっていなかった。それでも、彼女に振られた時は相当なショックであった。 「あの時も辛かった。元来、俺は拒絶に弱いのだ。これは小さい頃からずっとだ。それで、もしも拒絶されるかもしれないというような状態だったら女性に限らず、親しくなろうとはしない。親しい関係にならなければ、あの時や今のような苦しみを味わわなくて済む。俺は生涯独り者で居た方がいいのかもしれない。どうしてこのような性格なのか?親譲りか、あるいは、育ちの問題か。いずれにしても、自分のせいとは思いたくない。」 「それに、俺はしつこい性格だ。中学、高校と6年間バスケット部にいた。何かをとことんやり遂げるという自信はある。だが、悩むと弱い。悩みもとことん悩み続ける。それで、今は辛い。そして、どうやら、そこから抜け出すのが苦手だ。うまく方向転換が出来ない。なんて、不利な性格なのか。」 その日は合計6時間程歩き、野川を渡って、二子玉川に着いた。その辺りをうろうろした後、24時間喫茶に入った。何もすることがなく、本棚にあるコミックを読み始めたのだが、どうもストーリーに入り込めない。仕舞には、流石に疲れが出て、いつの間にか眠りに落ちていた。そして、こんな夢を見た。双子と思われる姉妹が多摩川の河原、両岸に一人ずつ立っている。届く訳はないのに、必死に腕を伸ばして、互いに手を取ろうとしている。その内に、二人の腕がどんどん長くなり...。そこで目が覚めた。 4.決心 翌朝、幸路は24時間喫茶を出て、3時間程歩き、大田区、京浜東北線の鉄橋付近まで来た。その後、更に少し進んで、とうとう多摩川の河口近く、羽田空港の手前までやって来た。もうこれより川下には行けない。どうしようか。何かを考え出そうとしても、結局頭の中にあることは今まで同様、完全に堂々巡りで、一向にらちが明かない。その時、また、最初の彼女と別れた後の事を思い出した。「あの時、俺はもう立ち直れないと思ったが、それから何年か経って望美に出会ったのだ。おそらく、今も、もう少し時間が必用なのだろう。そうしたら、時間が解決してくれるに違いない。今更逆戻りせずに、全く新しい生活を始めよう。それが俺の性分だ。そうしたら、何とかなるだろう。」 幸路は、そのすぐ後に携帯を多摩川に投げ捨てるかのように見えた。ところが、どうしたことか急にその動作を辞めた。まず、携帯電話のすべての個人情報を消去した。その後、少し歩いて、最初に見つけた電化製品店のリサイクル品回収箱に携帯を投げ込んだ。そして、「これで良し」と独り言を言った。 多摩川沿いに来れるところまで来たので、幸路はこの辺で取り合えず滞在出来るところを探そうと思った。あたりを歩いていると、電車の線路沿いに簡易宿泊所があり、そこを借りの住まいとすることにした。そこを拠点に、日中は毎日のように多摩川の河原に行って、川沿いに行ったり来たりした。また、時には街中を当てもなく歩き回ることもあった。そして、一週間ほど経った頃に、タクシー運転手募集の看板を見つけたので事務所に入ってみた。仕事に必要な二種免許は会社の補助で10日程で取れる。そして、すぐに社員寮に入れるという。また、住民票を移さずに、住所が確認できる郵便物で運転免許証の住所変更が出来るということも知った。幸路は望美に居所を知られたくなかったので、これは好都合と思った。 それに、幸路は両親にも連絡しなかった。「そんなことをしたら、これからやり直そうとしている俺の気持ちに水を差すだけだ」と思ったからだ。そんな状態は、水入らずの親子には想像できないであろうが、幸路の場合、それほど驚くことではなかった。幸路と両親との関係は劣悪ではないが極めて疎遠である。これは、望美とその両親の関係も同様であった。結婚する時、一応二人で両家に挨拶には行ったが、親類縁者を招待するような結婚式はせず、友人を集めて飲み会をしただけだ。極端な言い方をすれば、駆け落ち的な結婚で、その後は二人とも両家にほとんど足を踏み入れていなかったのだ。 そして、その頃は、羽田空港が沖合に移転した直後だったので、タクシー会社も活気があった。近いので、幸路も自然と羽田で待機することが多くなった。ただ、タクシーの仕事は体に良くない。それで、幸路は出来る限り歩くことで運動とすることに努めた。良く行くところはやはり多摩川の河原だ。幸路の性格上、今だに過去の事を思い起こして怒ったり、悲しんだりすることは多い。それでも、四六時中そうしている訳にもいかないので、いつの間にかボーっと何も考えていないということもあった。次第に、そんな無心の状態が続くこともあった。そして、幸路の悟ったことは、無心の状態の後は気持ちが落ち着いているということであった。そこで、いつの間にか、歩くときに積極的にそのような状態を保とうとするように努めた。言うなれば、自分なりの歩行禅を身につけていったというこになろう。幸路は思った。「運転の仕事は楽じゃない。だが、俺の粘り強さで、なんとか続けられるだろう。」 5.先輩 タクシーの運転手は比較的孤独な職業だ。それでも、出車前後に同僚と話をすることはある。ある日、幸路が車から出た時に少し年配の女性運転手から声をかけられた。 「あんた、新入り?」 「はい。与野瀬と言います。」 「そう?アタシは真夜。」 「真夜さん、随分珍しい名前ですね。」 「結婚した相手のせいだよ。まぁ、あいつが普通じゃなかったのは、名前だけじゃなかったけどね。」 「どうしたんですか?」 「まぁ、浮気と言えば浮気かな。」 「えっ?」 「そうだよ。人は、なんで浮気なんかするんだろうね。」 「ほんとに、なんで!で~...、実は、僕も...」 「そうでしょう。よくある話だよね。」 「その~、妻と二人で暮らしていたアパートに友人を滞在させたことが間違いでした。」 「そうなのぉ。」 真夜に何となく親しみを感じ、幸路は今までの経緯を話し始めた。途中で、何度も当時の感情が蘇り、怒ったり、悲しんだり、自己嫌悪に陥ったりした。真夜は相槌を打ちながら親身に聞いてくれた。幸路が言葉に詰まると、幾らでも待ってくれるが、時には、「それは何某と言う意味?」等と確認を入れてくることもあった。大体話し終った時、幸路は何故かほっとしたような気がした。今思えば、家を飛び出してから、誰にも自分の感情を打ち明けていなかったのだ。 真夜は何度も頷いていたが、ポツリと言った。 … 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