絶望の波跡【改訂版】

2020年7月1日 (初版:同年6月1日)

蓮 文句

*この作品は初版の挿話3部分ほぼ全体とその他にも何か所か書き直したものです。*

1.疑惑

幸路は妻の望美と1DKのアパートで質素に暮らしていた。ある日、幸路の高校時代の友人、貫太から電話があった。特別な事情があって暫く泊まらせてくれないかと言う。アパートは手狭ではあるが、台所でも寝れるからという友人の頼みなので、兎に角受け入れた。幸路と貫太は久しぶりに会ったので、当初は毎日、夕食時にビールを飲みながら昔話に花を咲かせた。

その頃、幸路は日曜休日を除いて朝から夕方まで近くの倉庫で荷物の仕分けと積み込みの仕事をしていた。望美は平日の4~6時間だけやはり近くのスーパーでパートをしていた。滞在中の貫太はと言うと、毎日昼間に数時間出かけるが、それ以外はアパートに留まっているようだった。

その調子で2週間は経ったろう。旧友とは言え、小さなアパートに三人の生活が長くなると、幸路は少し息苦しくなってきた。幸路の「いつまで居るのか」という問いに対して、貫太は「もう少し」と言うだけで、はっきりした返答をしない。

それからさらに2週間ほどした頃、貫太がやっと「出て行けそうだ」と言った。幸路はほっとした。次の日、幸路はシフト調整の手違いがあり、仕事から2時間ほど早く帰ってきた。アパートのドアを開けようとした時、中から望美の興奮したような声が聞こえた。はっきりと、「あたしはどうすればいいの?」と聞こえたのだ。その後、貫太と望美がなにやら言い合っている様子だったが内容は分からなかった。幸路はドキッとした。「何かおかしい」と思わざるを得なかった。

そして、急に最近の様子を思い起こした。
「そう言えば、最近、望美の貫太に対する態度が変わってきたような気がする。今まで気にしないようにしていたが、今の望美の言葉で急に怪しく思ってきた。それに、貫太は俺の前で取り繕っているような気配もある。もしかして、俺が仕事をしている間にあの二人の間に何かあったのでは?」

幸路はそんなことを考え始めたら止まらなくなってしまった。中に入る気になれず、急にドアから手を離してその場を立ち去った。近くの公園まで来て、そこのベンチに座った。しきりに考えまい、考えまいとしたのだが、頭の中はその事で一杯だった。それと同時に、望美との経緯も思い出していた。二人はボウリング場で知り合い、半年ほど付き合ってから結婚して4年と少し経つ。望美はいつもお弁当を作ってくれるし、帰宅時には笑顔で迎えてくれる。また、忘年会などで幸路が飲み過ぎた時に、望美が飲み屋までやってきて、幸路を抱きかかえるようにして連れ帰ったこともあった。今までずっと、幸路は望美との結婚生活が幸せと思っていたし、ありがたく思っていた。それで、そこで少し待てば、落ち着くだろうと思った。

ところが、その間に、もう一つ思い起こしたことがあった。数日前帰宅した時の事だ。いつもは幸路が帰宅するときには夕食が用意できているのに、その日は望美がまだ準備をしていた。それだけではない。望美の髪の毛が完全に乾いていなかったし、その日に限ってシャワーが使ったばかりの様に濡れていた。これは、幸路が毎日仕事から帰ってすぐにシャワーを浴びるので、気が付いたことだ。その時は、一瞬、望美に聞こうかとも思ったが、何かを勘ぐっていると思われるのも嫌で何も言わなかった。だが、今となっては、この事が決定的と思った。あの日、確かに、望美は幸路の帰宅少し前にシャワーを浴びたのだ。結婚してからずっと、望美は毎日必ず朝にシャワーを浴びていたので、望美が午後にシャワーを浴びて夕食の準備が遅れたと言うのは極めて異例の事だ。

シャワーの件と、さっきの望美の言葉とを合わせると、幸路はもう望美と貫太の関係を疑わない訳にはいかなかった。頭の中は怒りで破裂しそうであった。そこで急に立ち上がり、携帯の電源を切ってから、アパートとは反対の方角に歩き始めた。どこに行くと言う当てがある訳ではない。兎に角、反対の方向に行かなくては気が済まなかった。憤ったまましばらく歩くと、そこは、多摩川の河原だった。

2.逃避

幸路は多摩川の河原まで来た時、一瞬立ち止まった。ここ、青梅から川上に向かうと奥多摩の山間部に行きつくだけである。幸路は人気のない所、特に、山の中には恐怖心があった。それで、自然と川下に向かって歩き出した。途中、ずうっと、望美と貫太の事で頭がはちきれそうであった。

「どうして、俺は貫太を泊まらせたりしたんだ。それが、間違いだ。日中、何時間も望美と貫太だけアパートに残しておいたのは明らかに俺の失策だ。後悔しているのは確かだが、今となっては取り返しがつかない。それでも、あの二人には良心と言うものがないのか。恥と言うものがないのか。どうしようと言うのだ。もし、結婚生活を捨てる覚悟で浮気をしたとしたら、望美はもともと結婚生活に満足していなかったんではないか。それに気が付いていなかった俺が愚かだっただけか。望美を満足させられなかった俺の落ち度だろうか。」

「それにしても、直接、望美、そして貫太と話した訳ではないから、これは俺の妄想だろうか。いや、それはあり得ない。あの望美の言葉とシャワーの事を思えば、絶対に間違いない。それでも、面と向かって話をすべきか。もし、望美が過ちを認め、許しを求めたらどうだろうか。俺は望美の事を許すことが出来るだろうか。いや、もし面と向かったら、今の俺の頭の中の状態ではまともな対応が出来る訳がない。何も良いことはない。それに、望美と貫太がもうすでに駆け落ちでもしていたら、俺には絶えられる訳がない。俺の頭の中の混乱状態は、自分の意志で断ち切らなければならない。」

同じことを何回も、何回も考えながら歩いて、5時間ほど経ったろう。立川近辺まで来た頃には、日はとうに暮れ、夜も更けてきていた。かなり疲れてきたので真っ暗な公園の中にあるベンチに腰を掛けた。頭の中は依然、怒りで一杯であった。少し休もうと思い横になったが、眠れる状況ではない。暫くじっとしていると今度は寒くなってきた。いっそのこと、このまま凍え死んでしまえば良いとさえ思ったが、それほどの低温でもない。怒りと寒さに侵されたまま、眠れぬまま暫く横になっていた。だが、急に、夕食も食べていないし、何も飲んでもいないことに気が付いた。

そこで、今度は街の方に向かって歩き出した。まず夜間営業のATMで現金を引き出した。引き出せる限度額、全額を引き出した。それから、コンビニで暖かい缶コーヒーとおにぎりを2個を買って外に出た。コーヒーを飲みながら歩いていると、ネットカフェがあったのでそこに入って、持ち込んだおにぎりを食べた。暫くネットを見ていたが、それでも望美の事が頭から離れなかった。

今度は、ボウリング場で初めて望美を見た時の事を思い出していた。一目惚れだった。幸路は数人の男友達と来ていたのだが、隣のレーンにいた女性グループに望美が居たのだった。そして、明らかに望美も幸路の事を意識していると思った。幸路はその辺にあった紙切れに自宅の電話番号を書いた。その頃、幸路はまだ携帯電話を持っていなかったからだ。そして、望美のボールが戻って来た時に、その紙切れを素早くボールの所に置いた。望美はすぐにそれを取って、幸路に目配せした。その日の夜、幸路の自宅に望美から電話があり、その後はすぐに親しくなり結婚に至った。結婚後も幸せな毎日だった。少なくとも、幸路はそう思っていた。「今までは良かった。」幸路は何度も何度もそう思った。そして、その後、いつの間にか、うとうとしていたようだ。

気が付くと朝になっていた。そこが自分のアパートで、横に望美が寝ていたら、幸路は悪夢を見ていたと思ったかもしれない。だが、現実は厳しかった。ネットカフェで一人で夜を明かしたことを再認識すると、また、怒りが蘇った。「憎い。望美が憎い。貫太が憎い。」

3.回想

幸路は辛い昨夜の思いを振り切るかのようにネットカフェを出た。寝不足の目に朝日が眩しかった。そして、また苦悶が始まった。「とうとう望美に何も言わずに、アパートにも帰らずに一泊してしまった。心配しているだろうか。携帯の電源は切ってしまったが、留守電が入っているだろうか。そうだとしても、今それを聞く気にはなれない。警察に連絡したりしてはいないだろうか。たとえ過ちを犯した妻とは言え、妻には変わらない。心配をさせてしまったかもしれないという罪悪感は拭えない。今すぐに電話をして謝ろうか。」

しかし、そう思った途端にまた望美と貫太の事が頭に浮かび、怒りが呼び戻った。「いや、ひょっとして、俺が帰らないことを喜んでさえいるかもしれない。今話す事は出来ない。」そこで、また多摩川の河原に戻り、さらに川下に向かって歩き出した。その日は良い天気で日差しも強かった。日中の気温はどんどん上がり、太陽がぎらぎらと照り付ける。暑くなり、途中で上着を脱ぎ、腰の周りに結んだ。休憩のため、何回か木陰のベンチに腰を下ろすこともあった。

「俺は何でこんなことをしているんだろう。何の解決にもならないではないか。確かに望美と貫太は過ちを犯しただろう。だが、こうやってその事実から逃げていて何になるのか。問題に真正面から対応できないものか。」

途中、公園の横を通った時には、望美と二人でピクニックをしたことを思い出した。
「あの頃、望美は子供を欲しがっていた。しかし、俺は反対だった。表向きの理由は子供が居たらきちんと育てる義務がある。それが重荷だということだ。だが、俺の本音はと言うと、子供が生まれたら、子供に望美を取られてしまうという心配があったからだ。それは、自己主義だと言って批判されればそれまでかもしれない。」

「それから、問題の一つは望美の愛想が良すぎることかもしれない。望美は誰にでも笑顔を振る舞う。それは良いことに違いない。だが、世の男達は望美が自分に気があると思いはしないだろうか。まてよ。もしかして俺もその一人か?ボウリング場で俺に気があると思ったのは、単に望美が愛想が良かったからか?でも確かに自分から電話してきたし結婚までしたんだから好きだったのは確かだろう。」

今度は自分の最初の彼女の事を思い出していた。それは高校時代だった。その彼女とは時折、街でデートをする程度で深い関係にはなっていなかった。それでも、彼女に振られた時は相当なショックであった。

「あの時も辛かった。元来、俺は拒絶に弱いのだ。これは小さい頃からずっとだ。それで、もしも拒絶されるかもしれないというような状態だったら女性に限らず、親しくなろうとはしない。親しい関係にならなければ、あの時や今のような苦しみを味わわなくて済む。俺は生涯独り者で居た方がいいのかもしれない。どうしてこのような性格なのか?親譲りか、あるいは、育ちの問題か。いずれにしても、自分のせいとは思いたくない。」

「それに、俺はしつこい性格だ。中学、高校と6年間バスケット部にいた。何かをとことんやり遂げるという自信はある。だが、悩むと弱い。悩みもとことん悩み続ける。それで、今は辛い。そして、どうやら、そこから抜け出すのが苦手だ。うまく方向転換が出来ない。なんて、不利な性格なのか。」

その日は合計6時間程歩き、野川を渡って、二子玉川に着いた。その辺りをうろうろした後、24時間喫茶に入った。何もすることがなく、本棚にあるコミックを読み始めたのだが、どうもストーリーに入り込めない。仕舞には、流石に疲れが出て、いつの間にか眠りに落ちていた。そして、こんな夢を見た。双子と思われる姉妹が多摩川の河原、両岸に一人ずつ立っている。届く訳はないのに、必死に腕を伸ばして、互いに手を取ろうとしている。その内に、二人の腕がどんどん長くなり...。そこで目が覚めた。

4.決心

翌朝、幸路は24時間喫茶を出て、3時間程歩き、大田区、京浜東北線の鉄橋付近まで来た。その後、更に少し進んで、とうとう多摩川の河口近く、羽田空港の手前までやって来た。もうこれより川下には行けない。どうしようか。何かを考え出そうとしても、結局頭の中にあることは今まで同様、完全に堂々巡りで、一向にらちが明かない。その時、また、最初の彼女と別れた後の事を思い出した。「あの時、俺はもう立ち直れないと思ったが、それから何年か経って望美に出会ったのだ。おそらく、今も、もう少し時間が必用なのだろう。そうしたら、時間が解決してくれるに違いない。今更逆戻りせずに、全く新しい生活を始めよう。それが俺の性分だ。そうしたら、何とかなるだろう。」

幸路は、そのすぐ後に携帯を多摩川に投げ捨てるかのように見えた。ところが、どうしたことか急にその動作を辞めた。まず、携帯電話のすべての個人情報を消去した。その後、少し歩いて、最初に見つけた電化製品店のリサイクル品回収箱に携帯を投げ込んだ。そして、「これで良し」と独り言を言った。

多摩川沿いに来れるところまで来たので、幸路はこの辺で取り合えず滞在出来るところを探そうと思った。あたりを歩いていると、電車の線路沿いに簡易宿泊所があり、そこを借りの住まいとすることにした。そこを拠点に、日中は毎日のように多摩川の河原に行って、川沿いに行ったり来たりした。また、時には街中を当てもなく歩き回ることもあった。そして、一週間ほど経った頃に、タクシー運転手募集の看板を見つけたので事務所に入ってみた。仕事に必要な二種免許は会社の補助で10日程で取れる。そして、すぐに社員寮に入れるという。また、住民票を移さずに、住所が確認できる郵便物で運転免許証の住所変更が出来るということも知った。幸路は望美に居所を知られたくなかったので、これは好都合と思った。

それに、幸路は両親にも連絡しなかった。「そんなことをしたら、これからやり直そうとしている俺の気持ちに水を差すだけだ」と思ったからだ。そんな状態は、水入らずの親子には想像できないであろうが、幸路の場合、それほど驚くことではなかった。幸路と両親との関係は劣悪ではないが極めて疎遠である。これは、望美とその両親の関係も同様であった。結婚する時、一応二人で両家に挨拶には行ったが、親類縁者を招待するような結婚式はせず、友人を集めて飲み会をしただけだ。極端な言い方をすれば、駆け落ち的な結婚で、その後は二人とも両家にほとんど足を踏み入れていなかったのだ。

そして、その頃は、羽田空港が沖合に移転した直後だったので、タクシー会社も活気があった。近いので、幸路も自然と羽田で待機することが多くなった。ただ、タクシーの仕事は体に良くない。それで、幸路は出来る限り歩くことで運動とすることに努めた。良く行くところはやはり多摩川の河原だ。幸路の性格上、今だに過去の事を思い起こして怒ったり、悲しんだりすることは多い。それでも、四六時中そうしている訳にもいかないので、いつの間にかボーっと何も考えていないということもあった。次第に、そんな無心の状態が続くこともあった。そして、幸路の悟ったことは、無心の状態の後は気持ちが落ち着いているということであった。そこで、いつの間にか、歩くときに積極的にそのような状態を保とうとするように努めた。言うなれば、自分なりの歩行禅を身につけていったというこになろう。幸路は思った。「運転の仕事は楽じゃない。だが、俺の粘り強さで、なんとか続けられるだろう。」

5.先輩

タクシーの運転手は比較的孤独な職業だ。それでも、出車前後に同僚と話をすることはある。ある日、幸路が車から出た時に少し年配の女性運転手から声をかけられた。
「あんた、新入り?」
「はい。与野瀬と言います。」
「そう?アタシは真夜。」
「真夜さん、随分珍しい名前ですね。」
「結婚した相手のせいだよ。まぁ、あいつが普通じゃなかったのは、名前だけじゃなかったけどね。」
「どうしたんですか?」


「まぁ、浮気と言えば浮気かな。」
「えっ?」
「そうだよ。人は、なんで浮気なんかするんだろうね。」
「ほんとに、なんで!で~...、実は、僕も...」
「そうでしょう。よくある話だよね。」
「その~、妻と二人で暮らしていたアパートに友人を滞在させたことが間違いでした。」
「そうなのぉ。」

真夜に何となく親しみを感じ、幸路は今までの経緯を話し始めた。途中で、何度も当時の感情が蘇り、怒ったり、悲しんだり、自己嫌悪に陥ったりした。真夜は相槌を打ちながら親身に聞いてくれた。幸路が言葉に詰まると、幾らでも待ってくれるが、時には、「それは何某と言う意味?」等と確認を入れてくることもあった。大体話し終った時、幸路は何故かほっとしたような気がした。今思えば、家を飛び出してから、誰にも自分の感情を打ち明けていなかったのだ。

真夜は何度も頷いていたが、ポツリと言った。
「でもさぁ、考えようによっては、怒る相手が居ると言うのは...、ひょっとすると...、割り切れて、良いことかもしれないな。」
「えっ?」
「これは、アタシの場合だけど、あいつの浮気の相手は実在しなかったんだよ。」
「えっ?!」
「最初は、出張と言って、連日家を空けたりしたんで、アタシは実際に相手がいると思い込んでいた。ところが、ある日偶然に、あいつがコミックの女主人公と熱烈な『会話』をしているのを聞いたんだよ。当然、一人芝居なんだけど、あいつは本気だった。アタシも、初めからあいつが彼女のファンだということは知っていた。何十巻もある本をすべて持っていたし、最新刊が出るとすぐに買いに行っていた。だけど、まさか、あいつの『浮気』の相手が彼女とは思いもしなかった。兎に角、あの会話は普通じゃなかった。それに、あいつの『出張』と言うのは、実は、彼女と『実際に』出会うために、コミックに出てくる場所、ありとあらゆるところに行っていたんだよ。それに気が付いた時は、架空の人物と格闘していた自分に呆れた。なんだか、自分が、風車を敵の巨人と思いこんで突進したドン・キホーテのような気がしたよ。それで、あいつを精神科に連れて行ったら、案の定、かなりの重症で、即刻入院した。そして、入院中に狂乱死してしまったんだ。」
「え~っ!。」

「その後は、怒りよりも、悲しさよりも、何とも言えない虚無感が漂ったよ。後から聞いた話では、あいつの母親も精神症で入院したことがあったそうだし、どうやら、血筋にあったらしい。その後、アタシは働かなくてはならなくなった。他に出来ることもなくて、この仕事を選んだ。その頃は女の運転手は珍しかったから、ちょっと強気にならないと、と思って、話し方まで変えたんだよ。」
「へ~、そうだったんですか。」
「まぁ、昔の話だし、仕方がないよね。それからは、運転しているうちに何か良いことがあるかもしれないと思って、ずっとやって来た。でも、アタシの場合、一向に良いことは起こらなかったね。そしたら、いつの間にか、こんな年になってしまったよ。ハッハッハッ!でも、あんたはまだ若いから、何か良いことあるんじゃない。」

6.渋滞

幸路が運転を始めてもう何年も経った。その間に、経済的には安定してきたため、会社の人に保証人になってもらって、アパートに移った。それ以外は、特に変わった事もない日々だった。それでも、過去の事を忘れたわけではない。毎日のように望美の事を思い出してはいた。また、多摩川沿いを歩いている間に、凄く落ち着いた気分になり、望美に電話をしようと思ったことも何回かあった。

ある日の夕刻、いつものように羽田空港で乗客を待っていた。自分の番になると、一人の女性が乗り込もうとした。動作が非常にゆっくりで、ドアや座席に手を触れながら、ほとんど手探りという様子で乗り込もうとしている。気になって後ろを振り向いた時、幸路はドキッとした。まず初めに目についたのは、その女性の顔である。顔面の右側の一部が火傷の痕のようになっている。そして、両目とも閉じており、片手には小さな旅行鞄を、もう一方の手には白い杖を持っている。幸路は思わず、
「大丈夫ですか?」
と声をかけた。その女性は、
「大丈夫です。目が見えないので、すこし時間がかかりますが、我慢してください。」
と言った。

女性が完全に乗車して、幸路がドアを閉めてから尋ねた。
「どちらまで?」
「狛江までお願いします。」
「狛江のどの辺でしょうか?」
「市役所の辺りへ行ってください。」
「分かりました。この時間少し混雑していると思いますが、高速を使ってよろしいですか?」
「はい、お願いします。」

首都高に入ると、幸路にも予想以上の渋滞だった。ほとんど前に進まない状態であった。
「お客さん、申し訳ありません。予想以上に混んでいました。すぐ近くには出口がないので、暫くこのままの状態が続くと思います。大丈夫ですか?」
「大丈夫です。気を使ってくださってありがとうございます。うちは高知の田舎から出てきたので、こんなにたくさんの車を見るのは初めてです。」

幸路は、「あれ、目が見えるのかな?」と思った瞬間に、追加の言葉があった。
「失礼しました。もうお分かりと思いますが、目は全く見えないのです。それでも、音とか振動とかには随分と敏感なので、周りの状態は見えるように分かることも多いのです。それで、時々『見る』と言ってしまうのです。」
「そうですか。それでは、私なんかが見逃しているような事が分かるんですね。」
「時には目が見えなかったために素晴らしい経験をすることもありました。当然、たいへんなこともありましたけど。うちの顔の火傷の痕は母がガス代を使っていた時に誤って油がかかってしまったためなんです。その時はそれは大変でした。それ以来、母は揚げ物はしなくなりました。うちの顔を見てすぐに気が付いたと思いますが?」
「確かに、お客さんの顔を見た時はドキッとしました。それは、慣れてないための驚きだったと思います。」

「あなたは正直な人ですね。うちの顔を見て『ドキッとした』とはっきり言ったのは、あなたが二人目です。もう一人は、比較的最近うちの母の葬儀をして頂いたお坊さんでした。そして、そのお坊さんもあなたも、そう言った時にみじんも醜いとか耐えられないと言った自分の価値観を加えていないようで、救われます。」
「多分、私にはロクな価値観はないと思いますが。それより、お母様の事はお悔み申し上げます。」
「ありがとうございます。母は苦労してきたので、今ごろ、ほっとしているかもしれません。そして、死ぬ前にうちが今まで知らなかったことを教えてくれました。うちに双子の妹が居ると言ったのです。そして、その妹は養父母と共に東京の狛江という所に居るはずだと教えてくれました。それで、うちはその妹を探そうと思って東京に出てきたんです。」

7.申出

幸路は乗客との話を続けた。
「えっ、それでは、その双子の妹さんとは全く別の暮らしをしてきたと言う訳ですか?」
「そうです。うちの父は雇われ漁師だったんですが、最後はアラスカ沖のカニ漁に携わっていました。ところが、母の妊娠中に遭難し不帰の人となってしまったのです。母は一人で目の見えない双子を育てる自信がなく、一年もしないうちに妹だけを養子に出したということです。」

「そうだったんですか。大変でしたね。ところで、その妹さんの事はどのくらい分かっているのですか?」
「東京の狛江ということと、二つの川に挟まれた地域に住まいがあるということだけです。」
「えっ?それでは、市役所というのは?」
「あぁ、それは、市役所が二つの川に挟まれた地域の真ん中辺にあるということも聞いたからです。あっ、それから、もう一つ考えられる事があります。これは、定かではないのですが、うちが小さい時に何でもないのに、暫く左手が痛かった事があります。その時は気が付きませんでしたが、今思えば、これは、妹の左手に何かが起こったのではないかと思います。」
「そうですか。それは、不思議ですね。ただ~、この後、狛江市役所の近辺に着いたらどうされるおつもりですか?もう、暗くなってしまっていますし。私の職業柄、東京の地理はそれなりに把握しているのですが、その~、二つの川に挟まれた地域と言っても、基本的には人口7万人程も居る狛江市全体が多摩川と野川という二つの川に挟まれた地域に当たりますよ。」

すると、後部座席でしくしく泣き始める音がしてきた。幸路は「これはまずいな、ちょっと突っ込みすぎたかな」と思った。
「お客さん、私の言ったことが差し障るようだったら許してください。ついつい余分なことを言ってしまいました。」
暫く泣き声が続いたが、やっと治まったと思われる頃に、また声が聞こえた。
「急に泣き出して申し訳ありません。なんだか急に不安になってしまって。」
「こちらこそ、すみませんでした。お客さんの不安になるようなことを言ってしまって。」
「うち、母が死んで、一人になってしまって、十分に考えもせず、準備もせずに飛び出して来てしまったのです。」
「そうだったのですか。」
そう言った途端に、幸路は自分が青梅から飛び出して来たことを思い出した。
「実は、私も何年か前に、家を飛び出して来たんですよ。当然、事情は違いますが、多摩川に沿って何日か歩いてここ大田区にたどり着いたときは、全く何も計画がありませんでした。」
「そうだったんですか。その時は、お困りだったでしょう。」
「確かに、困っていました。泊まる所もなかったんです。」

この時、幸路が思いついた事がある。そして、この不憫なお客さんに謝罪する意味もあって、その事を言い始めた。
「ところで、お客さん、もし、宿泊先が決まっていなかったら、私のアパートに来てもいいですよ。この近くなんです。とても小さいのですが、私は寝室と隔てられた台所でも寝れますから。そして、落ち着いてから、ゆっくりと狛江の妹さんを探すということも出来ますし。」

また暫くの沈黙が続いた。幸路は今度は「ちょっと出しゃばり過ぎたかな」と思った。ところが、その後に、細々とした声で返答があった。
「そんなに親切なことを言ってくれてありがとうございます。初対面でほんとに図々しいとは思いますが、お願い出来ますでしょうか。確かに、これから狛江に行って何が出来るかと言われれば、その通りですから。うちは沖、右波と言います。右の波と書きます。狛江に居るはずの妹は左波と言います。姓は分かりません。」
「沖、右波さんですね。海らしい名前ですね。私は、与野瀬幸路と言います。多分、幸せな路を歩んで欲しいという親の気持ちからでしょうかね。なかなか名前の通りには行きませんが。」
「そうでしょうか。これからではありませんか?」

8.光明

幸路は次の出口で首都高を出て、割と近いところにある自分のアパートへ向かった。そして、安全なところに駐車し、メーターを止めてから右波に言った。
「沖さん、今、私がアパートまで案内しますから、ちょっと待ってください。」
「あの、支払いは?」
「気にしないでください。空港からここまでなので大したことはありません。」
「何から何まですみません。」

幸路が先に車から出て、外からドアを開け、右波の手を取って外に出るのを手伝った。そして、開いている方の手で右波の荷物を持った。そのままゆっくりと階段を上がり、自分のアパートのドアを開けて右波を中に通した。次に、右波を椅子に座らせ、電気ポットの湯でお茶を入れるてから言った。
「あの、私は深夜過ぎまで仕事なので、すぐ車に戻らなければなりません。トイレは今座っている椅子から右手の後ろ、それから、左手にある引き戸の奥の六畳間に今布団を敷きますので、疲れたら休んでいてください。もし、何か分からないことがあったら、家の電話から、私の携帯に電話してください。電話機をこのテーブルの上に置いておきます。短縮ボタン9番に私の携帯の番号が入っています。このボタンです。」
そう言うと、右波の手を取って、そのボタンの場所を示した。
「ゆっくりとお相手できなく申し訳ありません。明日は仕事がないので、狛江に行く計画と準備をお手伝いします。」
「与野瀬さん、ほんとにありがとうございます。見ず知らずの人間にこんなに親切にしていただいて、ありがとうございます。いってらっしゃいませ。」
「では、後ほど。」

幸路は急いで車に戻り、仕事を続けた。慌ただしく、右波に十分時間をかけてあげられなかったのは悪い気がしたが、なぜか、爽やかな気持ちにもなっていた。何年間かに渡る一人生活の後、一時でも滞在者がいる状態に喜びさえ感じた。そして、予定通り仕事を終え、夜半過ぎにアパートに帰ると、何をして過ごしていたのか、右波はまだ起きていた。

「与野瀬さん、お帰りなさいませ。」
「沖さん、ただいま。こんなに遅くまで、大丈夫ですか?眠くありませんか?」
「初めての飛行機の旅で疲れていないわけではないのですが、与野瀬さんが帰って来るのをお向かえしない訳にはいきませんでした。」
「ありがとうございます。じゃ、もう遅いので休みましょう。また、明日もあることですし。」
「分かりました。お手洗いは使わせて頂きました。もう一人で行けます。」
「そうですか。じゃ、六畳間の方に案内します。」
幸路は右波の手を取って奥の部屋に通した。
「それじゃ、おやすみなさい。ゆっくりしてください。」
「はい、ありがとうございます。おやすみなさい。」

幸路は台所に予備の寝袋を用意して横になった。長い勤務を終えて疲れてはいたが、なんだか嬉しいような気もして、すぐには寝付かれなかった。

9.翌日

翌朝、幸路は、カチャカチャという食器の音で目を覚ました。右波が流しに立っていろいろな物を触っているのだ。
「あ~、おはようございます。」
「与野瀬さん、おはようございます。起こしてしまったら、許してください。ほんとは何か準備が出来ないかと思ったのですが、さすがに、初めての場所なので、手探り状態で、戸惑っていました。」
「じゃ、一緒に台所にあるものを確認してみますか?大した物はないので、簡単ですよ。」
「お願いします。」

幸路は右波の手を取って、一つずつ確認していった。そして、二人で一緒にお湯を沸かし、トーストを用意した。幸路は、ほとんど独り言のように言った。
「あ~、こうやって朝ごはんを一緒に食べてくれる人が居るのは何年振りかな~。」
「そうなんですか?うちは母が死んで一か月くらい一人だったんですけど、それでも寂しかったのです。似たようなものですね。」
「よく眠れましたか?」
「えぇ、ぐっすりと。昨日はいろいろと新しいことを沢山経験し、疲れていたと思います。」
「朝の身支度が出来たら、近くに小さな本屋があるので、そこで狛江の地図を買いに行きましょうか。それに、少し食料も仕入れたいので。」
「お願いします。」

その後、買い物に出かけた時は、右波は幸路の肘に捕まって歩いた。時々、右波が幸路の今まで気が付かなかったような街の様子を聞いたりした。どうやら、右波は頭の中に地図を作っているようだった。アパートに戻ってからは、買ってきた食品を一緒に冷蔵庫や戸棚にしまった。これで、右波も材料の場所が分かる。その他にも、洗濯機や物干し竿など、いろいろと日常使う物の位置も確認した。幸路は、右波がそれら多くの事をすぐに覚えてしまうことに感心した。

そして、昼食の前に、右波が尋ねた。
「与野瀬さん、もし、試さしてくれるのでしたら、うちが昼食の用意をしてみたいのですが。」
「えっ、大丈夫ですか?」
「正直言って、そんなに自信はないのです。もし、分からない時に助けて頂ければ、出来るだけ、うちがやってみたいんです。」
「分かりました。お願いします。」

幸路には、目が見えても食事の用意というのは大変なことなので、目が見えなくてどうするのか全く見当がつかなかった。右波は、その後すぐに、お米を2合、炊飯器にセットして、ここで幸路に炊飯器のボタンの事を尋ねた。それから、大根とニンジンを洗って、皮を剥き、手鍋に入れてスープを作り始めた。この時にまた、幸路にキッチン・タイマーのボタンの事を聞いた。次に、スーパーで買ってきたお惣菜を皿に盛って、箸とスプーンをテーブルの上に用意した。その後、スープの味付けを始めたが、またこの時に幸路に調味料の事を聞いた。

「与野瀬さん、用意が出来ました。初めてなのでうまくできたかどうかわかりませんが、この調子で少しずつ覚えます。」
これを聞いて、幸路は涙ぐんでいた。「この目の見えない右波が自分に昼食を作ってくれた。」そう思うと、何も答えられずにいた。
「与野瀬さん、どうして泣いているのですか?何か問題でも?」
「沖さん、とんでもない。嬉しいんです。最近、こんな嬉しい思いをしたことがなかったんです。なんだか、家族が出来たようで。」
「喜んでくれて、うちこそ、嬉しいです。さぁ、食べましょう。」

10.両手

昼食の後、幸路と右波は、右波の双子の妹、左波を探しに狛江に行く計画を立てた。幸路のアパートから電車で狛江に行く最も簡単で早いのは、蒲田駅から京浜東北線で川崎へ、そこから南武線で登戸へ、さらに小田急線に乗り換えて狛江まで行く経路のようだ。駅から駅まで一時間弱というところだろう。

二人は、幸路の次の休みの日を待って、狛江まで左波の捜索に出向いた。残念ながら、幸路はこういった探偵まがいの仕事には向いていないようで、なかなか有効な手が打てない。市役所に行ったり、市立図書館に行ったり、公民館に行ったり、思いついたことはしてみたのだが何の手掛かりもつかめなかった。特に役所関係は個人情報の公開に厳しく、あまり手助けにはならなかった。それでも、二人は何回も狛江に足を運び、それなりに地域の様子はつかめてきた。そして、名前の他に、重要な手掛かりは左波も生まれつきの全盲だということである。それで、矛先を少し変え、東京にある盲学校にも行ってみた。都立の盲学校三校には該当する卒業生は見当たらなかった。また、普通校に通っていた可能性もあるので、狛江市内の小中高校をすべて当たってみたが手掛かりはなかった。

その間、右波はアパートでの生活にも慣れ、炊事、洗濯、掃除をすべてこなせるようになっていた。そして、幸路が仕事に行くときは、弁当とスナックを持たせるようにもなっていた。幸路が早朝に出掛ける時は必ず「いってらっしゃい」、深夜過ぎに帰ってくる時は必ず「お帰りなさい」と声をかけてくれる。また、幸路が仕事中に、右波一人で買い物に行くことも出来るようになっていた。幸路は、最初、右波が一人で買い物に行くことをひどく心配していたが、一か所ずつ、一緒に下調べと練習をして、それが出来るということを確認したのだった。

そんな調子で何か月か過ぎた。偶然に始まった二人の共同生活は、お互いに寂しさを補い合う為の手段であったかもしれない。それでも、幸路は、目の見えない右波が家事を手伝ってくれるのが嬉しかったし、右波の誠意に少なからず心を打たれた。そして、その感情が積み重なっていき、いつの間にか、完全にその人柄に惹きつけられていった。右波も見知らぬ土地で、左波探しに協力してくれる幸路に感謝したし、視覚障害者の自分に対する幸路の対応が安心できるものと確信した。そんな二人の間柄を反映して、街を歩く時、右波は、幸路の肘に捕まる代わりに、段々に腕を組むようになっていった。

さて、左波の捜索を始めて暫く経った訳であるが、さすがの右波も少し希望を失いかけていた。幸路は慰めようとして言葉をかけた。
「右波、こんなに一生懸命調べたのに何の手掛かりもつかめなく残念だ。でも、左波さんが亡くなったという情報もないし、長期戦で行こうよ。少しずつ、地域を広げるという手もあるし、何か他の方法を考えないといけないかもしれない。それに、ひょっとしたら、もう狛江に居ないということもあるよね。」
「そうね。確かに残念。でも、うちも根気よく続ける。」
「そして、右波、ちょっと気なっているのは~、もし、左波さんが見つかったら、右波はどうするつもり?」
「え~、正直言って見つけられるかどうか、今は自信がない。それに、見つかったとしても、左波がどんな生活をしているか全く分からないし。その時になってみないと...。でも~、たとえ見つからなかったとしても...、うち、東京に来て良かったと思っている。幸路と知り合えて。」

暫くの沈黙の後、幸路が思い切ったように切り出した。
「右波、俺、考えていたことがあるんだけど。あの~、もしかして...、ここで...、このままずっと、俺と一緒に暮らしてくれる?」
「うん!嬉しい!!幸路、ほんとよね?」
「あぁ、ほんとに。俺は嘘をつくのは苦手だよ。」
「実はね、うち、幸路がほんとのことを言ってくれてるんだなぁって分かるわ。いつも言うように、うちは目は見えないけど、幸路の息とか、そして、今は心臓の音まで聞こえるの。それで、言葉に出ない感情が伝わってくることもあるの。」
「えっ、ほんと?それじゃ、俺の、今の気持ちも分るの?」
「えぇ...、伝わってくる。幸路、うち...、」

そう言うと、右波は、両手を幸路の方に差し出した。幸路は何も言わずにその両手をしっかりと握ると、右波を立たせて、初めはそっと、それから強く抱きしめた。

11.温泉

それからしばらく経った連休の日、幸路と右波は伊豆へ一泊旅行に出かけた。質素な生活に慣れている二人にしてはやや気張った温泉ホテルを予約した。着いてすぐに、このホテルに数多くある家族露天風呂の一つを予約し、ゆっくりと湯につかった。途中、右波が恥ずかしそうに言った。
「幸路、そんなにじろじろ見ないでよ。ちょっと恥ずかしいよ。」
「いや~、お見通しだね。だけど、家族風呂だからいいでしょ?こういう広々としたお風呂って滅多に入れないし、うちのアパートじゃぁ、小さくて二人で一緒に入れないじゃない。」
「そうだけど。それじゃ、たまには温泉旅行もいいよね。うち、温泉って始めてなんだ。」

その後は、少し贅沢な食事をし、食後にはビリヤードをした。右波は手でボールの位置を探り、器用にキューを使ってボールを打つ。どうやら、ボールの位置をすべて記憶できるようで、幸路と同じくらいの事は出来る。幸路は感心した。

次に、右波が卓球をしようと言った時には、幸路がためらった。「目が見えないのに、どうやってボールが打てるのだろう?」と思わざるを得なかった。卓球台に着いて、右波はピンポン玉を台の上に落とし、跳ね返ってきたところを同じ手で掴んだ。これを2、3回試してから、「行くわよ」と言うと、台から跳ね返ったボールをラケットで打った。ボールはネットを超えて、幸路の台に入った。あっけにとられた幸路はボールを打ち返すことが出来なかった。右波は「ワン・ゼロね。」と言うと、次のサーブをした。今度はさっきと反対のサイドに入り、幸路はまたしても打ち逃した。幸路がサーブをする番になった時、幸路は「まさか、相手のサーブは打てないだろう」と高を括っていた。幸路がわざと優しいサーブをすると、右波はいとも簡単にその球を打ち返した。またしても、あっけにとられた幸路は返球が出来なかった。そんな調子で、最終的には右波が勝ったのであった。それを周りで興味深く見ていた他の宿泊客は皆拍手をした。

「ねぇ、右波。なんであんなに卓球うまいの?どうやって、飛んでくるボールの場所が分かるの?」
「子供の頃ね、音の出るボールで随分練習したんだ。だけど、よく注意すると、普通のボールでも音が聞こえるようになるのよ。後は、やる気と集中力の問題よ。」
「それ、信じられないよなぁ。」
「ねぇ、運動してお腹空いたから、食べ放題の夜食に行こうよ。」
「確かに。栄養補給しないと。」

翌日は朝食の後、ホテルの屋上にある展望テラスから景色を眺めた。
「あ~、いい景色だ。」
「ほんとだね。太平洋が良く見える。幸路はもう分かってるよね、この意味が。うちは太平洋岸で育ったから、海や草木の音や匂い、風、太陽の光、すべてを全身で感じてきた。そして、今も太平洋を感じている。父は太平洋の一部になってしまったし、母は太平洋を望む墓地で眠っている。母の死後は寂しかったけど、今は幸せ。ねぇ、偶然って素晴らしいね!」
幸路が思ったのは、「素晴らしいのは右波だ!」という事だった。

その後、右波は思いついたように言った。
「ねぇ。今度、したいことがあるんだけど。」
「何?」
「一度、幸路をうちの故郷の高知へ連れて行きたい。うちの生まれ育った所を見て欲しい。」
「それは良い考えだ。俺も行きたい。沖右波さんの生まれ育った南国、土佐の海岸へ。俺は大阪より西には行った事がないんだ。」
「じゃ、計画しようね。」
「うん、絶対しよう。」

帰りの電車の中で右波が小さな声で言ったことがあった。
「ねぇ、幸路。なんだか、新婚旅行みたいだったね。」
「そうだなぁ。新婚旅行かぁ。結婚...、」

12.計画

伊豆旅行から帰って、幸路は真剣に考えていることがある。「右波と一緒に居ると幸せだ。それに、何より、右波は信頼できる。そして、自分にも一緒にやっていけるという自信が出来てきた。右波もうれしそうだし、結婚してくれるかな?ひょっとして、俺の名前の幸せな路を歩むという意味はほんとなんじゃないかな。」その時に思い出したのが望美との結婚であった。「そう言えば、俺が失踪して全く連絡していないから、多分、俺はまだ望美と結婚したままの状態なんじゃないか。右波と結婚するにはまず、それを何とかしないと。」

幸路は正直に自分の考えをいった。
「右波、最近ずっと考えているんだけど、俺、右波と一緒になりたい。一緒に生活しているだけじゃなくて、結婚したいんだ。」
「幸路、うち、それはとても嬉しい。あの伊豆旅行の帰り、うちもそんなことを夢見ていた。覚えてる?うちの言ったこと。」
「うん。新婚旅行みたいってことだよね。それで~、言いにくいんだけど、俺には過去がある。結婚歴があって、離婚していないんだ。」
「そうだったの。それで?」
「右波と結婚するためには、まず離婚を成立させないとならない。俺は、それは確実に出来ると思っている。もう別居して何年も経つし、子供も財産もない。それに...、彼女が浮気をしたんだ。」
「そうだったの。気の毒ね。」
「あぁ。ただ、少し時間がかかると思うし、俺は彼女とは顔を合わせたくない。」
「弁護士を通して代理で出来ない?」
「そうだな。調べてみるよ。」
「それから、幸路、うちは幸路と一緒に居るだけですごく幸せだから、結婚という形にこだわらなくても大丈夫だよ。無理しないでね。」
「あぁ、でも、調べるよ。」
「ありがとう。」

その後、幸路は離婚の手続きについて調べ始めた。会社の人に教えてもらって弁護士に相談した。離婚は両者が合意すれば比較的簡単に成立する。もし、相手が同意しない場合は、裁判所が絡んだ調停離婚で、これは何か月か、かかる可能性がある。それでも解決しなければ本格的な裁判となる。そして、裁判にならなければ、相手と顔を合わせずに離婚出来る。そこで、いずれにしても、弁護士に仲介してもらって、望美の意向を聞き出すのが第一歩であると思った。ところが、早く右波と結婚したいのは事実であったのだが、幸路はなかなか手を付けられずにいた。どうやら、間接的でも望美との交渉の間に何か予期せぬ問題が発覚しないかと言う懸念があったようだ。

それで、離婚の件は棚上げのまま、また何か月か経った。そんなことには関わらず、幸路と右波は相変わらず新婚の夫婦の様に暮らしていた。また、左波の捜索は気が向いた時に少しずつといった状態に変わっていった。そして、ある日、幸路がいつものように深夜過ぎにアパートに帰ってきた時の事である。ドアのカギを開けようとしたところ、カギが閉まっていない。幸路は即座に「おかしい」と思った。ドアを開けて中に入ると、まず目についたのは買い物袋が玄関に無造作に転がっている。幸路の心拍数が急に上がった。恐る恐る台所の方を見ると薄暗い中で右波が横たわっているように見える。慌てて電灯をつけた瞬間、幸路は周囲1キロ四方に聞こえるような大声で「右波!!!」と叫んだ。その後、靴も脱がずに、右波の所に駆け寄って、抱き上げたのだが、右波の体はすでに冷たく、硬くなっていた。幸路は右波の名前を叫び続けた。

騒ぎを聞きつけて、直に隣人と一階に住んでいる管理人がやって来た。様子を見た管理人がすぐに110番し、間もなく警察官がやって来た。警察官は幸路を右波から引き離し、警察署に連れて行った。右波の遺体は救急車で病院に運ばれると言うことだった。警察署に連れて来られた幸路は完全に取り乱しており、警察官が何を聞いてもまともな反応が出来なかった。警察官としてもどうしようもなく、幸路をその部屋に残して出て行った。

翌朝、取り調べ室でうつ伏せていた幸路は警察官に起こされ、何とか取り調べを終えた。幸路の証言はすべて第三者の証言で裏付けられたため、幸路の容疑は取り消された。その後、幸路は葬儀社で最後に右波と対面し、火葬の後、右波の遺灰を引き取った。

それから暫く、幸路は仕事を休んだが、何もできずにいた。結局、右波の思い出のあるアパートは引き払い、会社の社員寮に戻り、兎に角、仕事を再開した。

13.継母

それから暫く経ったのであるが、幸路は依然落ち込んでいた。仕事が終わって、車から出た時に、先輩の女性タクシー運転手、真夜が声を掛けてきた。
「あんた、随分と落ち込んでいるようだけど、大丈夫?」
「はぁ、まだ悲しみが消えないんです。一緒に住んでいた彼女が暴行事件に巻き込まれて...、亡くなったのです。丁度、結婚をしようと計画していた最中でした。」
「あらぁ、気の毒に...」

真夜は、この時も幸路の話をじっくりと聴いてくれた。それは、一人になってしまった幸路には、唯一の救いであった。その後、今度は、真夜が話し始めた。
「それは、悲しいよね。アタシもあの時は悲しかったなぁ~。」
「どうしたんですか?」
「アタシの母が死んだ時だよ。アタシがまだ小学生の時、急性の肺炎の一種で、正確な病名は覚えてないんだけど、死んでしまった。ほんとに、小学生には辛いよね。」
「そうだったんですか。気の毒です。」
「そして、暫くして、父が再婚したんだよ。」
「...」

「多分、あんたは、アタシに同情してるんじゃないかな?アタシも初めは嫌で嫌で、この継母に当たり散らしていた。ところが、どっこい、この継母は全く怒らないし、動じない。仕舞には、アタシの方が根負けした。アタシも、もう当たらなくなった。それからは、予想外の展開だったよ。後で知ったことだけど、この継母、子供好きだが子供が生めない体質だったんだ。それで、アタシの事を自分の子供の様に扱ったんだ。」
「へ~。」
「いつも優しくしてくれるんだけど、アタシが悪いことをすれば叱る。当然、生みの親が死んだのは悲しかったけど、アタシは、段々と、この継母も自分の母親と思うようになってきた。仕舞には、死んだと思っていた実の母がこの継母の中に蘇ってくるような気がしてきた。二人が一体のような気さえしてきたんだ。不思議だよね。それで、結局、アタシはなんて幸せなんだろうと思ったよ。父が死んでからは、母はアタシと一緒に住んでいる。今や、周りの人は誰も継母とは思っていないよ。」

「素晴らしい人ですね。どうしてなのでしょう?」
「アタシもね、初めは不思議だった。それで、聞いたんだ。そしたら、どうやら、この母自身、似たような経験をしたらしい。母は、浮気の結果の婚姻外出生で、両親とも意志も、育児能力もなかった為、遠い親戚に引き取られた。ところが、この養父母はよくできた人たちで、母は実の子供と同様に育てられたそうだ。それだけじゃない。その養父母は自分たちの期待を押し付けずに、必ず母の気持ちや意見を尊重してくれたんだって。それで、母がアタシにしてくれたことは、全く当たり前の事だったんだと。それに比べると、アタシの狂乱死した夫の両親は違う。母は精神症で情緒不安定、父は異常に厳格で有無をも言わさないタイプ。夫は父から体罰も受けたらしい。だから、夫は両親と心の触れ合うような体験をしてきたはずがない。」
「なるほど。やはり、親の影響だったんですか。」
この時、幸路はちらっと自分の両親の事を思いついたが、すぐに真夜が話を続けたので。それ以上は考えなかった。
「そうだね。アタシ達は子供がいないから何ともしようがないけどね。あんたも、その内子供が出来たら、気を付けないとね。」

14.再度

また、何年か過ぎた。その間に、あの大地震があり、老朽化していた社員寮の一部が破損し、結局、全部建て替えになった。それ以外は、特に変わった事もない日々だった。それでも、過去の事を忘れたわけではない。毎日のように右波の事を思い出してはいた。また、時には望美の事も思い出した。そして、過去何年間もしてきたように、仕事のない時は決まって多摩川沿いを歩くのだった。

ある日の夕刻、いつものように羽田空港で乗客を待っていた。自分の番になると、一人の女性が乗り込もうとした。動作が非常にゆっくりで、ドアや座席に手を触れながら、ほとんど手探りという様子で乗り込もうとしている。幸路は何かを強く感じた。気になって後ろを振り向いた時は、自分の目を疑った。右波だと思ったのだ。だが、次の瞬間、違うと悟った。その女性は右波にそっくりで、盲目だが、顔に火傷の痕がない。その時、幸路は気が付いた、「佐波さんにちがいない」と。

女性が完全に乗車して、幸路がドアを閉めてから尋ねた。
「どちらまで?」
「狛江までお願いします。」
その女性の声は正に右波にそっくりだった。そして、狛江という。幸路はその女性が左波だと確信したが、まだその事には言及しなかった。慌てる必要はないと思ったからだ。いずれにしても、右波と一年近くも探して見つからなかった人が今後部座席に座っていると思うと興奮した。
「狛江のどの辺でしょうか?」
「市役所の辺りへ行ってください。」
幸路は思った。「同じだ。あの時と同じだ。」
「分かりました。この時間少し混雑していると思いますが、高速を使ってよろしいですか?」
「はい、お願いします。」

首都高に入ると、幸路の予想以上の渋滞だった。ほとんど前に進まない状態であった。
「お客さん、申し訳ありません。予想以上に混んでいました。すぐ近くには出口がないので、暫くこのままの状態が続くと思います。大丈夫ですか?」
「大丈夫です。気を使ってくださってありがとうございます。後は自宅に帰るだけなので、ゆっくりしています。」

交通渋滞はしばらく続いた。幸路はもう我慢が出来なくなった。
「あの~、お客さん、人違いだったらお許しください。あなたは左波さんではありませんか?」
幸路には左波の表情は見えなかったが、明らかに絶句の状態に思えた。暫くの沈黙の後、返答があった。
「そうです。どうして、わたしの事をご存じなのですか?」
「ほんとに唐突で失礼します。実は、私は4年ほど前、左波さんの双子のお姉さん、右波さんと一緒に暮らしていたのです。結婚しようとしていたのです。」
左波はまたもや、絶句の様子だった。かなりの沈黙の後、また話し始めた。
「『結婚しようとしていた』というのはどういう意味ですか?」
「実は...、亡くなりました。」
「うっ、...、そう言えば、丁度その頃、突然に胸が痛くなって、母が慌てて病院に...、」
と言うと、左波はまた黙り込み、その後、しくしくと泣き出した。幸路は、「まずいことを言ってしまったな」と思ったが、どうしようもなかった。それで、暫くそのまま、様子を伺った。

15.約束

左波はかなり長いこと泣いていた。そして、やっとのことでまた話し始めた。
「あなたは右波からどのくらいわたしの事を聞いていたか分かりません。わたしは小さい頃から、養子として育てられていたのは承知していました。けれど、一年ほど前に育ての母がガンで亡くなる前に、初めてわたしの生い立ちを聞いたのです。わたしの育ての父はその時までに脳梗塞で亡くなっています。ご存じと思いますが、わたしの生まれた時の名前は左の波と書きます。ところが、養子に引き取られた時に、左はそのままで、『なみ』は奈良の奈に美しいという字に変えられたのです。」
「そうだったのですか。右波さんと私は必死で左波さんのことを探しましたが、見つけられませんでした。漢字のせいもあったんですね。」

「そうかもしれません。残念です。実は、わたしも右波の事を探そうと、高知に行って、今帰ってきたところなのです。養母が最後に言ったことは、わたしの実の家族は、高知のそばの、太平洋の見える所に住む沖家だと言うことでした。幸い、大都会ではないので、その情報で、その家を見つけることは出来ましたが、すでに空き家でした。高知市の東にある香南市というところでした。ただ、近所の人に聞いて、遠い親戚に会うことが出来ました。それで、今まで知らなかったことを知りました。生みの父はアラスカ方面で遭難、生みの母は何年か前に亡くなったということ。母のお墓参りもしてきました。やはり香南市にある、太平洋が見える墓地です。そこに一族全員用の納骨壇というものがあって、母はそこに眠っていました。そして、母の死後に右波がわたしを探しに東京に出たということを聞いたのです。」

「そうだったんですか。私は右波さんが東京に出てきた最初の日を今でも鮮明に覚えています。丁度左波さんが私の車に乗って来た時のような様子でした。そして、狛江に行って欲しいと言いました。その後、狛江に行ってからどうしていいか分からない様子だったので、結局、私のアパートに滞在してもらって、すぐに左波さんの捜索を始めたのです。その後、私たちは懇意になり、結婚をしようと話をしていたところだったのです。」
ここまで来て、幸路は言葉に詰まった。だが、思い切って続けた。
「右波さんの遺灰は私が預かっています。」
また、左波が泣き出した。

その後、二人とも黙ったまま狛江に着いた。そこは、どちらかと言うと喜多見駅に近い、小さな家が密集しているあたりだった。幸路は「捜索中もこの辺には来たことがなかったな」と思った。左波の家の前で清算をした時、幸路は左波の左手にかなり大きな火傷の痕があるのを見た。「右波が言っていた通りだ」と思った。その後、左波がためらいながら言い出した。
「あの、見ず知らずのあなたにこんなことを言い出して良いかどうか分からないのですが。右波の遺灰を高知の家族用納骨壇に収めてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。右波さんもお母さんも一緒になれれば喜ぶと思います。」
「ありがとうございます。そして、あなたも右波と結婚までしようとした方ですから、高知まで、ご一緒していただけますでしょうか?」
「もちろんです。左波さんが日程を決めて頂ければ、私は休暇を取ります。あっ、申し遅れましたが、私は与野瀬幸路と言います。幸せな路と書きます。」
「ありがとうございます。与野瀬幸路さんですね。わたしは川辺左奈美です。それから、後ほど連絡する時のため、電話番号を教えてください。携帯電話をお持ちでしたら、わたしの番号にかけて頂けますか?090-〇×□△-7373です。」
「分かりました。今、かけます。」
「来ました。では、この番号に連絡します。今日は、ありがとうございました。ごきげんよう。」
「右波さんの遺灰は当日持参します。では、その時まで。」
バックミラーには、左波が丁寧にお辞儀をしている様子が見えた。

左波を降ろしてから、幸路は思いに耽っていた。あんなに真剣に探していた左波が幸路のタクシーに乗ってきたとは。幸路は今まで双子に出合ったことはほとんどなかったので、多少の混乱もしていた。将来を共にしたかった右波に生き写しの人が居る。確かに言葉使いは多少違うが、声や態度はそっくりだ。そして、その左波と高知へ旅することになった。その時、右波が幸路を高知に連れて行きたいと言っていたことを思い出した。「右波、やっと、一緒に高知に行ける」と思った。

16.供養

それから一週間後に、左波から幸路の所へ電話があった。その次の週の木曜から金曜にかけて一泊で高知に行けないかという。旅の計画はすべて左波がすると言う。幸路は了解して、旅の日を待った。

約束の日の午前中、幸路は羽田空港の〇×航空の高知行きのチェックイン・カウンターで左波と待ち合わせた。そして、昼過ぎには高知空港に着き、タクシーで太平洋の見える墓地の家族用納骨壇へ直行した。そこで、納骨を済ませ、僧侶に供養をしてもらった。その僧侶は双子の母の供養をした人で、右波の事も覚えていた。左波を見ると、丁寧にお辞儀をして、「お悔み申し上げます」と言った。「右波さんはお母さん思いの素晴らしい人でした」とも言った。

供養が終わった後も、幸路と左波は暫くそこから太平洋を眺めていた。かなり経ってから、幸路がしんみりと語った。
「私が右波さんと伊豆に行った時、右波さんは太平洋が『見える』と言っていた。体全体で見ていたようだった。そして、ここ高知で太平洋を見ながら育ったことを話してくれた。その時、私を高知に連れて来たいと言った。確かに...、一緒に来た...」
幸路は涙ぐんだ。左波も泣いていた。

二人は長いこと黙っていたが、今度は左波がと話し始めた。
「わたしはずっと狛江で育ち、海を体験したことはほとんどありません。だから、ここで育った右波のことを羨ましいとも思います。でも、わたしは、わたしだけ養子に出されたことは仕方がないと思っています。わたしの養父母はほんとに良くしてくれました。それで、わたしは、わたしなりの人生を送って来れたのですから。」
「右波さんと私は東京中駆け巡って、左波さんのことを探したのですが、見つからなかった。なぜでしょう?」
「一つには、わたしが川崎の学校に行っていたこともあると思います。川崎市多摩区の多摩女学園大学付属の小中高校に通っていたのです。それも、その間は毎日、母が車で送り迎えをしてくれていました。その後、そのまま多摩女学園大学に進んだのですが、その時は、通える距離なのに学生寮に入りました。両親は社会経験のためと言っていました。それなので、東京の学校を探しても、わたしの情報はどこにもない訳です。

「そうだったんですか。左波さんの名前が左奈美と書かれていたことと合わせて、それで、私たちは苦労した訳ですね。でも、凄いですね。大学まで進まれて。」
「楽ではありませんでした。それでも、沢山の人に助けられて、ほんとに良い経験をしました。卒業後は自宅から仕事をすることが出来るようになりました。わたしの仕事はテープ起こしと言って、録音された音声を文字に変換する、言わば、聞き取りの作業です。そして、視覚障碍者の電話相談のボランティアもしているんですよ。少しでも、同じような障害を持つ他の人を助けたいと思って。そして、両親の死後は、家を相続させていただいたので、今のところ生活していけるのです。それに、必要な物はほとんど配達してもらっているので、あまり外には出ないんです。」

その後、二人はゆっくり歩いて、ホテルに向かった。幸路は久々に視覚障害者と歩いて、右波の事を思い出さずにはいられなかった。間もなく、左波が話し始めた。
「与野瀬さん、あなたは流石に歩き方がよくわかっていますね。右波と一緒にいつも歩いていらっしゃったからでしょう?」
「左波さんと歩いていると、まるで右波さんと歩いているようです。双子というのはほんとに似ているんですね。ところで、右波さんの顔の右側に火傷の痕があったのをご存知ですか?」
「いいえ。そうなんですか?わたしたちは双子でも生後すぐに別れてから一度も会ってないわけで。ただ、わたしが小さいころ、急に顔の右側が痛くなり、暫く続いたことがありました。そして、与野瀬さん、今や、あなたが、この世でただ一人、わたし達双子、二人共のことを知っている人なわけですね。」
「その点には気が付きませんでした。ほんとにそうですね。不思議です。でも、私は左波さんにもお会いできてほんとに良かったと思います。このことをぜひ右波さんにも伝えたい。」
「右波は分かっていますよ。」
「えっ?そうですか?」
「そうです。」
ただ、左波はそれ以上は何も言わなかった。

17.成仏

その後、幸路と左波は海岸まで坂を下りて行き、海辺の道を歩き、途中、喫茶店で休憩をしてから、夕刻にホテルに着いた。ホテルでチェックインした後は、部屋で暫くくつろぎ、その後、それぞれ大浴場へ行った。夕食は現地の新鮮な魚介類が豊富に出て、東京育ちの二人には嬉しいものだった。食後はホテルのお土産店に寄って、幸路が会社の人に土産を買った。左波は何も買わなかった。幸路は、数週間前に来たばかりだからかなと思ったが、左波が小さな声で言った。
「実は、わたし、自宅で仕事をしているし、あまり他の人と交流がないので、前回もお土産は買わなかったのです。」

部屋に戻ると、和室には布団が二組並べて敷いてあった。幸路は少し驚いた。どうやら、左波はその驚きを察したようで、説明するように言い始めた。
「幸路さん、実は、わたし、右波から言い使ったことがあるのです。」
「えっ?右波さんとは別れてから一度も会っていないんですよね。」
「その通りです。ですが、この旅を計画している時なんですが、夢の中に右波が現れて、わたしにこう言ったのです。『左波、一生のお願いがあります。うち、無残な死に方をして、幸路さんにきちんとお別れを出来なかったのです。それで、実は、体が無くなった今でも、死にきれないでいるのです。左波、高知に行く時に、左波の体を一晩だけ借して下さい。うち、幸路さんにもう一度だけ抱かれたいのです。そうしたら、うちも成仏できると思います。お願いします。』」

これを聞いて、幸路は涙が止まらなかった。右波への思いが込み上げてきた。そして、左波は続けた。
「それから、幸路さん、わたしのことは気にしないでください。心配はご無用です。わたしは独り者だし、誰も気にする必要はありません。幸路さん、今、わたしは、右波の体です。」

そう言うと、左波は、両手を幸路の方に差し出した。幸路は右波との最初の体験を思い出した。「不思議だ。同じだ。確かに、今、目の前に居るのは左波だ。火傷の痕があるのは左手で、顔ではない。だが、今両手を差し出しているのは、正に、右波だ。」
幸路はその両手をしっかりと握って、言った。
「左波さん、ありがとう。右波、会いたかった。」

翌日、幸路と左波は高知から羽田に帰ってきた。二人とも、行きとは打って変わって無口になってしまった。羽田でこれからタクシーに乗ろうという時に、左波が重い口を開いた。どうも、泣いているように見える。
「幸路さん、右波に会わせて頂いてありがとうございます。そして、あなたと会えて良かった。さようなら。」
「左波さん、私こそ、会えて良かった。また、会えますか?」
「いいえ。」
「えっ?どうして?!」
「分かって下さい。会いたくないのではないのです。わたしはあなたが右波に再会するための仲立ちだったのです。昨夜、右波は成仏できたはずです。それで、わたしの務めは終わったのです。ありがとうございます。お元気で。さようなら。」
幸路が返答する間もなく左波はタクシーに乗り込み、走り去った。

左波が行ってしまった後、幸路はいつまでもそこに立ち止まっていた。途中、同じ会社の運転手達が何人も幸路を見かけては、「お~い、与野瀬、何でそんなところに突っ立ってんだよ~?仕事はどうした~?」と声をかけて行った。

18.電話

幸路はまた大事な人を失ってしまったような気がしていた。また、このまま何年も過ぎるのだろうかと思っていた。ところが、それから数か月したころ、急に、夢の中に右波が出てきた。幸路は夢の中で必死に「右波!」と叫ぼうとしているのだが、声がでない。その時、右波がはっきりと言った、「左波をよろしく」と。幸路は飛び起きた。どういう意味か分からなかった。だが、何かが起こっているという興奮は抑えがたかった。

その日の昼間、仕事中に、いつものように羽田空港で待機していると、携帯が鳴った。「左波さんの番号だ!」そう認識すると、幸路は急いで電話に出た。
「幸路さん?」
「左波さんですね!」
「そうです。突然電話をしてすみません。」
「いや、話がしたかったんです。会いたかったんです!」
「ほんとですか?前にも言った通り、もう幸路さんとは会うまいと心に決めていたのですが、事情があって、どうしても我慢が出来なくなって電話してしまいました。許して下さい。」
「そんな、俺はずっと会いたかったんです。でも、左波さんにもう会えないと言われて諦めかけていました。」

「実は、わたしの中に新しい命が宿っているのです。幸路さんの一部とわたしの一部が一緒になって成長を続けているのです。気が付いてから、わたしは悩みました。でも、幸路さんに知らせない訳には行かないと思って。それより、わたし自身が無性に幸路さんに会いたくなってしまったのです。」
「えー!そうなんですか?!俺たちの子供が?!!」
「でも、...右波のことが、...。」
「その、右波なんですが、昨夜、夢に出てきて、はっきりと、『左波をよろしく』と言ったんです。そしたら、今、左波さんから電話で。」
「それでは、右波も許してくれるんですね!わたしの家に来てくれますか?まだ、覚えていますよね?」
「いつ行っていいのですか?」
「いつでも。今でも。」
「それじゃ、今日は仕事を早退して今からすぐに行きます。会社に車を戻して、タクシーに乗って行きます。3時間以内に行けると思います。」
「ありがとう。早く会いたい!」

19.合流

実際、幸路は3時間以内に左波の家に着いた。タクシーの乗客としてここに来るのは少し変な気分だったが、兎に角、左波に早く会いたかった。ドアをノックして、「幸路です」と言うと、左波が出てきた。二人は何も言わずに、そのまま玄関で激しく抱き合った。そして、左波が幸路の手を取って寝室に向かった。

翌朝、二人はなかなか床を離れなかった。だが、空腹の限界が来て起きだした。
「幸路さん、わたし、今日は仕事を休みにしたので一日中自由に時間を使えるわ。それから、わたし、もう、我慢できなくて。こんなこと、わたしから言っていいのかどうか分からないのだけど...、わたしと...、一緒に居てくれる?」
「もちろん。俺、考えたんだけど、当面、休業しようと思ってるんだ。明日にでも、一度、寮に帰って荷物を持ってきていい?」
「嬉しい。じゃ、ほんとにここに居てくれのね!」
「うん。なんだか、左波さんとはもう長いこと一緒のような気がするよ。ところで~、また、お腹触らして?子供は~、この辺かな?」
「くすぐったい。わたしね、思ったんだけど。右波は自分が成仏するためにわたしの体を借りたわけなんだけど。ひょっとして、その時にわたしたちを結び付けてくれたんじゃないかと。」

「そうかもしれないね。俺は今でも右波が恋しいのは確かなんだ。それで、もし、俺が間違って、左波の事を『右波』と呼んでも怒らないでくれる?」
「いいの。わたしは、右波無しではあなたと結ばれかったのだから。」
「そうだ。今日は俺が食事を用意するよ。右波と生活をしている時は、右波が家事をすべてやってくれた。そのお返しをしたいんだ。」
「ありがとう。わたし、こんなに幸せでいいのかしら。」
「左波、幸せなのは俺の方だよ。」

その日から、幸路がすべての家事を始めた。ただ、いくら一人暮らしが多いと言っても、今まで大したことをしてきたわけではないので、実際は左波が手取り足取り教えるということが多かった。それでも、幸路の右波に対する感謝が左波に向かって現れているのは確かだった。そして、約束通り、幸路は社員寮から自分の荷物を全部持ってきた。左波は今まで通り、テープ起こしの仕事は続けたが、二人の時間を取るために仕事の量は減らした。

それまで、左波は家に閉じこもりがちだったのだが、幸路が一緒に住むようになって、二人で出歩くことが多くなった。一番良く行ったのは近くの野川沿いの公園である。時には、少し遠いが、多摩川の河原まで歩いたこともある。それで、左波は、やっと天気や季節の移り変わりを実感し楽しむことが出来るようになってきた。時間が経つにつれ、左波のお腹はだんだんに大きくなり、少し、身動きが遅くなってきた。その頃までには、幸路がうまく家事をこなすようになっていて、左波も楽に過ごしていた。

そして、左波が妊娠8か月になった。幸路は大きくなった左波のお腹をさすりながら聞いた。
「ところで、左波、子供の性別は調べてないけど、どっちかな?」
「実はね、わたしは分かっているわ。」
「えっ?ほんとに?どうやって?」
「わたしには『見える』のよ。どっちか聞きたい?」
「うん。教えてよ。」
「女の子。」
「へ~。凄いな。それじゃ、そろそろ、名前も考える?」
「そうだね。幸路も考えてよ。わたしはね、わたしたち双子に共通の『波』という字を使ったらいいんじゃないかと思うわ。」
「それはいいアイデアだ。その線で考えよう。」
この時、幸路は「俺はやっぱり幸せな路を進めるかもしれない」と思った。もう一つ思いついた事がある。「そうだ、子供が生まれるに際して、結婚のことを考えないと。やはり、子供にはきちんとした環境を与えないと。」

ところが、その日の夕方、左波に急に大量の出血があり、同時に強い腹痛を訴えた。幸路は心配になって、救急車を呼び、左波を近くの慈恵医大第三病院に連れて行ってもらった。診断の結果は常位胎盤早期剥離で、かなりの出血で、母子ともに危険な状態と言われた。幸路は気が気でなかった。医師の判断で、すぐに帝王切開となった。だが、未熟児の子供は、出産後、間もなく息を引き取った。そして、出血に伴うショック状態のため、左波もこの世を去った。

手術室の外で、その報告を受けた幸路はいつまでもうずくまっていた。あまりにあっけなかった。たったの数時間の間に、幸せの頂点から絶望のどん底に落ち込んだ。そして、その後は、ほどんど意識のない日時が過ぎた。正気が戻ったのは、母子の遺灰を手に左波の家に帰るところだった。だが、左波の居なくなった家に居ることは絶えられず、自分の荷物を持って、元の社員寮に戻った。仕事の再開は少し待ってもらって、毎日多摩川沿いを歩き続けた。

それから一週間ほどして、幸路はやっとしなくてはならないことに気が付いた。「そうだ、左波と娘を、右波とお母さんの所に連れて行こう。」それで、すぐ翌日に二人の遺灰を持って高知に飛んだ。また、フライトの途中で思いついて、死んだ娘を「小波」と名付けだ。その足で、太平洋の見える墓地の納骨壇に行き、二人の遺灰を収め、供養してもらった。「これで、右波と左波はずっと一緒に居られる。少しでもの慰みだ。」幸路はそう思わざるを得なかった。帰りの飛行機の中で、幸路が密かに期待したことは飛行機事故であった。しかし、周りの幸せそうな家族の様子を見ていて、それが、なんと自分勝手な期待かと思わざるを得なかった。

20.同窓

今回の幸路の落ち込みは今までにも増していた。言葉数も少なくなってしまった。その様子を見て、また、先輩の真夜が声を掛けた。
「あんた、最高に落ち込んでるみたいだね。」
「えぇ。」
「なんだか口を利くのも大変そうだね。嫌かもしれないけど、ちょっとそこの24時間喫茶に寄って行こうよ。」
「はぁ。」

気力のない幸路は連れられるままにその喫茶に入った。
「気の毒だよね、ほんとに。今までにも大変なことがあったのは知ってるけど、あんた、今回は、それ以上みたいだね。まぁ、何も話さなくていいよ。実は、今日は、アタシの方が聞いて欲しいことがあるんだよ。聞いてくれるかなぁ~?もしそう言う気分じゃなかったら、聞き流してもいいから。」
「...」
「実は、先週、中学の時の同窓会に行ってきたんだ。卒業以来初めてだから、すごく楽しみにしていたんだ。確かに、中学時代の友人に会うのは実に懐かしかった。ところが、一つ、想像もしていないことがあって、苦しくなって、途中で帰ってきてしまったんだ。」
「...」

「あれは中学三年の頃だった。榎春という男の子がよくアタシにちょっかいを出していた。アタシに気があるということは分かっていた。でも、榎春はアタシの好みではなかった。というより、誰も相手にしないようなタイプだった。その榎春が、高校の時に自殺をしたということを、この同窓会で初めて知ったんだ。そして、それは、失恋のせいだということだった。当然、高校はみんなバラバラだったから、アタシはその事を知らなかったんだ。だけど、榎春の事を聞いた時に、急に思い出したことがある。榎春がアタシにまとわりついてうるさかった時に、当然冗談のつもりだったんだけど、『死んでしまえばいい』と言ったことがあったんだ。それを思い出した瞬間から、急に苦しくなってきた。ひょっとして、『アタシが榎春を死に追いやったんじゃないか?』それが頭にこびりついて離れなくなった。榎春が自殺したのは高校の時なので、確かに、それは、アタシとは関係ないかもしれない。たとえそうだとしても、アタシがあんな残酷なことを言ったということは許されないことだ。アタシは自分の事を特に善人とか思いやりがあるとは思っていない。だけど、そんなに残虐な人間とも思っていなかった。そして、一番辛い事は、アタシの言葉が起こしたかもしれない残酷な事態を知らずに、今まで平気な顔をして生きてきたということだ。それで、耐えられなくなって、具合が悪いと言って同窓会を出ざるを得なかった。その後、やり切れない日々を過ごしているんだよ。今までも、アタシは、母、夫、父と順に死んで、不幸がなかったわけではない。だけど、榎春の自殺は、ある意味ではそれ以上の苦痛なんだ。」
「...」

「そして、...、思ったんだよ。死んでしまえば良かったのはアタシの方じゃないかって。」
「真夜さん、...。そんな、...。それは、...。」
「そうだよね。あんたは、人にそんなひどいことをしたことをないよね。」
「いや、僕は...。それに、知らないうちに罪を犯していないとは...、とても、...。でも、真夜さん。一つ言えることは、真夜さんは、何度も僕の話を聞いてくれて、僕を助けてくれたじゃないですか。真夜さんが居なかったら、僕も居なかったかもしれないし...。」
「あんた、ありがとう。そう言ってくれて、嬉しいよ。少しは気が紛れるよ。はぁ~...。そして...、アタシは、もう婆さんになってしまった。今更という感はあるけど、確かに、自分の言うことなすことに、もっと気を付けないと思ってる。『知らなかった』という言い訳をしなくて済むようにしないと、と思っている。」
「確かに、そうですね。でも、簡単じゃないですよね...。」
「ところで、アタシ、もうじき、退職しようかと思っているんだ。」
「えっ?そんな年なんですか?そうは見えなかったけど。」
「まだ、気持ちだけは若いつもりだけどね。まぁ、言っちゃ悪いけど、あんたもこの仕事を始めた頃に比べたら、随分年取ったよね。お互い、短い人生だから、これからも悔いのないように生きないとね。」

21.夜道

またまた、何年か過ぎた。その間に先輩の真夜が退職し、有志で小さな退職祝いの集まりをした。それ以外は、特に変わった事もない日々だった。それでも、過去の事を忘れたわけではない。毎日のように右波と左波の事を思い出してはいた。また、時には望美の事も思い出した。そして、今までずっとしてきたように、仕事のない時は相変わらず、多摩川沿いを歩くのだった。

ある夜、羽田で乗せた女性の乗客は狛江に行って欲しいと言った。幸路はハッとした。狛江と言われたのは右波と左波の時以来であった。それで、また以前の思い出が蘇っていた。と、同時にこの人はどういう人だろうかという好奇心も生じた。その後、首都高に入ったが、この時は渋滞はなく、順調に狛江まで来た。そこからは、言われるままに調布との境界に近い地域の路地に入ってその女性を降ろした。何事もなく行程を終えた幸路はほっとしたと同時に、少しがっかりしたような気もした。幸路は思った、「この辺だったら京王線の方が近いかな。だけど、喜多見にも遠くはない。左波の家まで簡単に歩ける距離だ。」そして、また、左波と右波の事を思い出しては、悲しみに耽っていた。自分の中にまだ残っている二人の温かみだけが慰めだった。

そんな思いの中、帰路に着いて細い路地をゆっくりと走行中、急に目についたものがある。微かな街灯の光の下に人が倒れているように見える。即座に停止し、車から降りて近寄ると、それは女性だった。服装が乱れ、暴行でもされたのではないかと思われた。幸路と同年代のようだ。心配して、「大丈夫ですか」と声をかけ、抱き起した時、幸路は仰天した。その女性が望美に見えたからだ。「人違いだったら勘弁して下さい」と前置きして、「望美?」と尋ねた。だた、その女性は気を失っているようで返答はない。どんな状態か分からないので、すぐに119番した。救急車が来ると、幸路は事情を話して、病院までついて行くと言った。救急隊員は近くの慈恵医大第三病院に行くので、見失ったら、そこに行けば良いと言われた。当然、幸路には知れた病院だ。病院に着くと、緊急窓口で再び状況を伝え、そこで待機した。

緊急窓口の係の人は幸路に怪訝な顔で聞いた。
「それでは、あなたはタクシーの運転手で、道路で倒れていた女性を発見されて...、その女性があなたの奥さん『かも』しれないということですね?」
「はい。そうです。」
「今、緊急看護師がその女性の容態を調べていますので、その間に、この紙にあなたの連絡先を書いてくれますか?」

幸路が書き終わった書類を渡すと、係の人がまた話し始めた。
「与野瀬さんですね?」
「そうです。」
「今受けた看護師からの情報だと、持ち物からですが、あなたの助けた女性も確かに与野瀬さんだということです。」
「やっぱり!与野瀬望美ですね!望美の状態はどうなんですか?」
「詳しい状態はまだわかりませんが、望美さんだということは間違いなさそうです。それでは、確かにあなたの奥さんですね?」
「抱き上げた時にそうかとも思ったのですが。もう15年程でしょうか、会っていなかったので、確信できませんでした。それに、あまりにも偶然だったので...。過去に問題があり、ずっと別居の状態なのです。連絡もしていませんでした。」
「そうですか。いずれにしても、私たちは警察に連絡する義務がありますので、このまま、ここで待っていて下さい。」

幸路の頭の中は混乱状態であった。もはや記憶の中にしか存在していなかった望美がここにいる。「どうしてあそこの路上に意識不明の状態で倒れて居たのだろう」と思ったのだが、それもつかの間、すぐに一人の警察官が来て、幸路に質問を始めた。

幸路は今までの経緯を話した。警察官は警察署と何やら連絡を取り合っていたが、また幸路に話し始めた。
「あなたの言っていることは、私たちの持っている情報と合致しているようです。それに、あなたは嘘をつくような人にも思えないのですが、一応取り調べの対象にせざるを得ないとの事です。その理由は、あなたが大田区で沖右波さんの死亡を届け出たことと関連しています。」
「えっ?どういう関係があるのですか?」
「直接の関係ではありません。単に、あなたに関連のある女性が二人暴行事件に巻き込まれたという理由です。これは、全く手続き上、念のためなんですが、両事件ともあなたが加害者ではないということを再度確認する必要があるということなんです。ですから、心配はしないでください。それより、いくら別居していたとはいえ、あなたと望美さんは離婚をされてはいません。それで、夫として、あなたがしなくてはならないことがあります。その点は十分承知してください。」

22.回復

望美は応急処置の後、当初集中治療室に入れられたが、容態は安定していると判断され、翌朝には普通の病室に移された。暴行と全身打撲と言うことだった。幸路は会社に連絡して家族の緊急事態に対応するということでそのまま病院に留まった。状況を察して、病院側は簡易ベッドを用意してくれた。そして、この時は、加害者と幸路のDNA鑑定があったが、当然、幸路の疑いは取り払われた。

次の日の午後になって、望美は眼を開けた。そして、幸路を見ると目を大きくして何かを言おうとしていたが、何も言葉は出なかった。それからまた眠りに入った。その日の夕方、幸路が疲労と寝不足でうとうとしていると、微かな声で目が覚めた。
「幸路?幸路でしょ?」
幸路は急いで望美を覗いて、言った。
「あぁ、俺だよ。望美、良かった、元気が出て。」
「あたし、死ぬの?」
「そんなことないよ。担当医は何も重大なことはないと言っていたよ。」
「ほんとに、そうかしら。なんだか、ボーっとしている。」
そう言うと、また眠ってしまった。

次の日、望美はかなりしっかりしていた。
「幸路、何年振りかしら。でも、どうしてここにいるの?」
「あぁ、もう15年くらい経つかな。実は、俺はタクシーの運転手をしているんだけど、たまたま通った路上で倒れている人を見かけたんで119番したんだ。ところが、その人が望美かもしれないと思って病院まで一緒に来たんだ。」
「幸路、あたしは、幸路に言いたいこと、言わなければならないことが沢山あったのだけど。恐ろしくて、幸路に一回も連絡できなかった。もう許してはくれないと思うけど、いつかは罪滅ぼしをしなくてはと思っていた。」

「俺も、自分の行動が正しいかったとは思わないよ。どんな理由であれ、突然失踪して、長い間逃げていて、卑怯だと思ったし、罪悪感が付きまとっている。でも、今、言えることは過去は変えられないということだ。」
「そうね。それでも、もし、幸路が耐えてくれるんだったら、許してくれなくても、すべてを話さないといけないと思うんだけど。」
「そうか。許す、許さないって言うのは辞めようか。お互い苦しいだけだ。俺も話すことはある。それは、望美にとっては、聞きたくないことかもしれない。」
「あたしに、どうのこうのいう権利はないわ。ところで、ここはどこ?」
「慈恵医大第三病院だよ。」
「そう。あたしは、この近くに住んでいるの。もし、あたしが退院できたら、うちに来てくれる?話がしたい。あたしは今一人なの。」
「あぁ、いいよ。行くよ。」

23.退院

そして、その二日後に望美は退院した。この時は、幸路が自分のタクシーで望美を連れて行った。望美は小さなマンションに住んでいた。幸路は望美が落ち着くと、マンションのカギを一つ預かって、まず会社まで車を戻しに行き、暫く休暇をもらい、着替えを少し持って望美のマンションに戻った。その間、望美はずっと横になったままのようだった。

その後暫くは、幸路が食事を用意し、その他の家事をした。体調が落ち着くと、望美は過去のいきさつを話し始めた。顔を伏せ、辛そうだった。
「あの日、幸路が帰ってこなかったので、あたしは心配になったの。幸路の携帯はすぐに留守電に入ってしまったので、あたしからは連絡出来なかったし。そして、次の日、仕事場に電話したら、前の日はいつもより2時間早く職場を出たという事を聞いたの。今日はどうしたのかと聞かれたので、アパートに帰っていない。行方不明だと言わなければならなかった。そして、あたしは気が付いたの。幸路があたしと貫太さんの会話を聞いたに違いないと。幸路、あたしはほんとにひどい女だ。今どんなに謝っても謝り切れない。幸路との生活は幸せだったのに、あたし、どうして!貫太さんと関係して...、貫太さんから一緒になろうと言われて...、確かに、そのことを話して...、」

「わかったよ。ほんとのことを言ってくれてありがとう。」
「でも、幸路が出て行ってしまった後は、浮気の事を話したくなくて、警察にも親にも連絡しなかった。それからは、ほんとに辛かった。貫太さんとの仲もすぐに冷めた。それでも、貫太さんは、幸路が戻ってくるまで留まると言った。ところが、実際には、すぐに、出たり入ったりの状態になった。そして...、あたしが妊娠しているということが分かったの。」
「えっ?!」
「そう。そして、その子は、明らかに、貫太さんが来る前に出来ていたの。あなたの子供なのよ。それは、生まれて来た子を見た時に一番実感したわ。」

幸路には信じられなかった。そして、思った。「望美と自分の間に子供が居て、今まで知らなかったとは!知らなかったということは、自分の子供の養育に携わってこなかったことの言い訳になるだろうか?」まだ驚きが治まらない間に、望美が話しを続けた。

「そして、子供が生まれる、もう、かなり前に貫太さんは完全に居なくなっていた。あたしは、後悔仕切れなかった。死にたいと思った。でも、死ぬ勇気もなかった。どっちにしても幸路が許してくれる訳もないし、連絡も出来ないでいた。それからは、隣の鮎出さん一家が助けてくれなかったらどうなっていたか分からない。」
「そうか...、鮎出さん達が。それは、辛かっただろう...。そして、子供は?」
「『美世里』という名前を付けたの。美しい、世界の、里と書くの。与野瀬美世里。」
「いい名前だ。15歳くらいだよね。どうしてここに居ないの?」

「それは、言いにくいのだけど、順に話すわ。あと、幸路が出て行ってしまって、5年ぐらい経った時、急に警察官が来たの。あたしは、幸路の身に何か起こったのではないかと、気がきではなかった。警察官は、幸路の身の上に心配はない。只、幸路の知り合いが事故に遭ったので事実関係を確認しに来たと言った。それ以外は一切教えてくれなかった。あたしは、事情があって別居している。居所は知らないし、連絡もしていないと言わざるを得なかった。」
「そうか...、あの頃...、」
「それからしばらくして、あたしの両親は交通事故で死に、両親が投資のために持っていたこのマンションを相続したの。そして、借りていた人が出て行った後に、ここに引っ越してきた。アパート代の節約になると思って。あっ、これを言わないと。幸路の両親のこと。」
「どうしたの?」
「ここに引っ越して来て間もなく、はがきが青梅から転送されてきたの。二人一緒に経費老人ホームに移るって書いてあった。幸路にも連絡できなかったし、あたしはその時の状態を話すことは出来なくて、実は返事をしていないの。ごめんさない。はがきは、冷蔵庫の横の書類ポケットに入ってるわ。」
「そうか、老人ホームか。俺もこんなに連絡していないで、親不孝も甚だしいな。それで?」

「そして、ここに移って暫くは、近くのスーパーで働いていた。アパート代がないから、それで十分だったの。その頃までは美世里も何とか普通に育っていた。幸路が居ないのは寂しかったけど、どうすることも出来ずにそのまま生活していた。そして、あの大地震の時にマンションの耐震対策の問題が指摘されて、改築の積み立てが始まったの。これが、かなりの負担で、スーパーの仕事だけでは賄えないようになった。あたしは、何も取柄がないし、段々と夜の仕事に入って行ったの。あたしは、ほんとに間違いばかりしてきた。」
「自分を責めても仕方ないよ。気の毒だよ。」
「いいえ、もっとひどいの。自分で自分の事を許せない。あたし、体を売る様になったの。」
「え-っ?!!!」

幸路も、流石にこれには驚いた。「望美がそんなことまで?!」
「幸路、許せないでしょ!詳しいことは言えないわ。あまりにひどかったから。ただ、それが美世里に決定的な悪影響を与えたことだけは事実なの。美世里はその頃から数々の問題に巻き込まれて...。暫く前に家を出て、帰って来ない...」
望美は泣き出した。幸路は慰めようとしたが、出来なかった。何も言葉が出なかった。幸路は望美を床に入れると、自分はダイニング・キッチンで横になった。それでも眠れるわけではなかった。幸路の頭の中は、完全に混乱状態だった。

24.混迷

それから数週間の間に、望美の容態は順調に回復し、日常生活はほぼ普通に出来るようになった。幸路は依然、混沌としていたが、少しずつ、今までの事を望美に話した。望美は幸路の話の途中、何回も泣いた。そして、望美が回復するにつれ、幸路は、望美との今後の事を考えていた。「お互いに15年に渡る苦難の後の再会で、よりを戻せるだろうか。別々の路を行かざるを得ないだろうか。そして、美世里のことはどうしたら良いのか。」だが、何も良い考えは浮かばなかった。

ある時、望美が一人で買い物に行ったのだが、その帰り、アパートの階段を上っている時に、急にふらふらとして段を踏み外し、転倒した。大きな音がしたので、部屋の中に居た幸路は気になって外に飛び出すと、望美が倒れていた。幸路は慌てて119番した。望美は救急車で、再び慈恵医大第三病院に運ばれた。幸路が駆け付けた時には、息も絶え絶えで、「美世里を...」と言って息を引き取った。脳内毛細血管の出血に伴う障害と言われた。これは、暴行事件の時の頭部打撲に起因するが、非常に小さい血管なので検査では見つからずに進行してしまったのだろうと言われた。

望美の死は、幸路に、右波や左波の時のような絶望感はもたらさなかった。だが、今まで以上に複雑な気持ちを起こさせた。望美が限りなく哀れに思えたし、その理由の一端を担った自分がひどく邪悪に思えた。

「あの時、俺が貫太を滞在させなかったらこんなことにはなっていなかったはずだ。あるいは、俺にもう少し分別と忍耐があったなら。そして、望美は自分の体を張ってまで、一人で美世里を育ててきた。たとえそれがうまくいかなかったとしても、俺の無責任な行動に比べたら、それは勇敢だし尊敬さえすべきことかもしれない。それにしても、もし俺が右波あるいは左波と幸せな暮らしを続けられていたとして、その最中に、哀れな望美と美世里の事を知ったら、どう感じただろうか?どうしようもない罪悪感に駆られたのではないか?と言うことは、右波、そして左波との幸せな時でさえ、俺の汚点が陰に潜んでいたと言うことか?もしかして、それが何の罪もない右波と左波を禍に巻き込んだのかもしれない。そうだ、右波と左波は、俺に出合いさえしなければ、あんなに若くして死ななくても済んだはずだ。そう思うと無性に辛い。それに...、ひょっとすると俺の欠陥はすでに、望美との生活の間にも現れていたのか?まさか、それで望美が浮気を?どう転んでも、辛いだけではないか。」

そして、幸路がその頃考えたもう一つのことは、自分の両親のことである。
「老人ホームに移ったことは分かった。すでに、それから随分と経っている。どうしているだろうか?今や、自分の娘が家出中の状態で、自分自身が親に現状や居所を伝えていなかったというのは何とも罪なことだ。おそらく、こんなことだから、俺の周りで不幸ばかり起こるのだろう。これは、すべて俺のせいかもしれない。」
それでも、なかなか連絡出来ないでいたが、ある日、思い切って電話してみた。だが、その電話番号はもう他の人に使われていた。それで、老人ホームの番号を調べて、そこに掛けてみた。事務員の話では、数年前の流行性感冒の時に父親が亡くなり、その後、母親はすでに患っていた認知症が急に進行し、近くの特別養護施設に移ったと言うことだった。

幸路は、その特養の電話番号を教えてもらい掛けてみた。丁度、フロア担当の相談員が居て、話してくれた。
「大変言いずらいのですが、お母さまは4か月ほど前に亡くなられています。」
「そうでしたか...。」
「入所時から認知症はかなり進んでいて、すでに亡くなられていた配偶者の事も分からない様子でした。ところが、ご自分がもう生きていたくないという意志だけは非常に強く、食事を全く受け付けてくれないのでした。私たちは全力を尽くして、食事を召し上がっていただくようにしました。また、担当医と共に胃ろうを勧めたのですが、頑として受け付けてくれませんでした。残念ながら、ご家族とも連絡が取れず、最終的には栄養失調で亡くなられてしまいました。誠に申し訳ありません。」
「こちらこそ、申し訳ありませんでした。大変お世話になりました。」
幸路は思った。「遅かったか。何と言うことか!いずれにしても、どうして俺の周りの人間はみな死んでしまうのか?」

しかし、その途端に、「いや、待てよ、まだ美世里がいる」と気が付いた。それにしても、まだ一度も会ったことのない娘の美世里の不幸に対して、自分にも責任があるということが、耐え難かった。そして、美世里が戻って来るかもしれないという気持ちから、マンションを維持する必要があると思った。幸か不幸か、幸路は望美と離婚していなかったので、マンションを相続することが出来た。ただ、マンションの改築積み立て金がかなりの額のため、狛江のタクシー会社に移って仕事を再開した。同時に、少しずつ美世里の捜索を始めた。初めは近所を歩いて回っていたが、後に自転車を購入し、狛江市内、そして近隣の市区と捜索範囲を広げていった。それにしても、幸路の持っている情報は与野瀬美世里という名前と、マンションに残っていた小学校の卒業写真だけである。それに、左波の捜索の時から自明のように、幸路にはそういった才能がない。それで、依然、手掛かりはつかめなかった。

その後も、幸路にとって辛い日々は続いた。そして、折を見ては、近くの野川沿いを歩き、また、時には多摩川まで足を延ばしたりした。だが、それは、迷える者の歩き方で、到底、歩行禅と言えるようなものではなかった。将来の見通しがなく、尚更、今までの出来事を振り返っていた。望美と貫太のこと。右波と左波のこと。自分の両親と美世里のこと。そして、真夜のこと。そんな中で、いつも辿り着く疑問は同じだった。「俺はほんとに幸せな路を歩むように生まれてきたのだろうか?これから何を拠り所にしたらいいんだ?」

25.書簡

小雨の降り始めたある日の午後、三鷹市下連雀の交差点を吉祥寺方面に向かって、一台の自転車が通過した。その時、すぐ横をトラックが通り、その影響で、自転車はよろよろした。次の瞬間に、トラックの後を走っていた乗用車が自転車に追突し、自転車と乗っていた男性は一緒に激しく突き飛ばされた。乗用車の中には数人の若者が乗っていたように見えたが、そのままスピードを上げて逃げるかのようにその場を立ち去った。

その時たまたま交差点に居合わせた歩行者が急いで男性の所に駆け寄った。自転車はぐにゃぐにゃに変形し、男性は身動きをしないし、頭部から出血もしているようだ。歩行者は即座に119番し、救急車と警察官がやって来た。男性は救急車で運ばれ、警察官は歩行者に事情を聴いた。警察官はその足で、男性の連れて行かれた杏林大学病院に向かった。 男性は頭部を含む全身打撲による即死であった。警察官は持ち物による身元確認を始めた。運転免許証には狛江市西野川の与野瀬幸路と記載されていた。

ところで、丁度その頃、幸路のマンションに狛江署の警察官が来て幸路に親展の書簡を手渡そうとしていた。しかし、狛江署にも幸路の死亡連絡が入ったので、その必要はなくなった。ただ、その警察官は、先に慈恵医大第三病院で幸路に尋問をした人で、まだ幸路の事を覚えていたので、気になってその書簡を読み始めた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

与野瀬幸路君、

もし、君がこの書簡を受け取ったとしたら、おれはもうこの世にはいない。ところで、今更、君にこんなものを送ったところで、何の役にも立たないことは承知なのだが、どうしても書いておかないといけないような気がして書いた。

君のアパートで世話になった頃は、仕事を失い、頼れる身寄りもなく、友人宅を転々としていた頃だった。そして、君も知っている通り、おれの少年時代というのは幸福なものではない。それが、おれの行いに悪い影響を与えたことは否定できない。しかし、それを理由に、おれの罪を釈明するつもりはない。

あの時は、おれはすぐに望美さんに惹かれた。彼女とは君の結婚パーティー以来の対面だったが、ほんとに、誰にでも愛想がいい人だ。そして、それが、誰にでも愛想がいいだけか、ひょっとして、おれに気があるのか、混乱してしまったのだ。君が仕事に行っている間に、おれは自分を抑えきれずに、望美さんを後ろから抱いてしまった。初め、彼女は抵抗した。それでも、君も知っている通り、おれはかなりの力がある。自分の思う通りにしてしまったんだ。明らかに、望美さんはうろたえていた。

ところが、どういう訳か、次の日から、彼女の方から求めてくるようになった。これを聞いたら、君は激怒することだろう。しかし、事実だから仕方がない。それで、おれは望美さんがほんとにおれに気があると思った。それで、おれと一緒にならないかと聞いたのだ。その時、望美さんは、確かに悩んでいるように思えた。君は、おれを滞在させたことを後悔しているかもしれない。だが、君の好意を踏みにじったのはこのおれだ。なんと邪悪なことか。おれに少しでも分別と忍耐があったなら、こんな事態にはならなかっただろう。おれが君の一生を破壊してしまったことに釈明の余地はない。

しかし、さらに無責任なことは、おれが望美さんの所から早々に姿を消してしまったことだろう。おれは望美さんにも謝る言葉がない。それについて、もう一つ言わなければいけないことがあった。君がアパートに帰って来なかった夜、望美さんの君に対する心配は並大抵のものではなかった。おれは止めたのだが、君を探すと言って、君のジャケットと胃の薬を持って出て行った。そして、深夜過ぎに取り乱した様子でアパートに帰って来てからは、おれの事は全く眼中にない様子だった。これも尋常ではないが、おれは君に嫉妬した。そして、やっと悟った。望美さんは、所詮おれと一緒になる訳はなかったのだと。

その後も、おれは、暴力、暴行と、罪を犯し続けた。細かいことは言うまい。そして、これは、つい最近の事であるが、おれの連れが浮気をしていたことに気付いた。許せなかった。そして、それで、やっと君の気持ちを察したのだ。なんとも、愚かで、罪悪なことか。おれは死んだところで今までの罪を償うことは出来ない。ただ、もう、生きていくことも出来ないのだ。最後まで、自分勝手なものだ。確かに、もし、過去に戻ることが出来たら、やり直したい。いや、その前に、両親を選ぶべきだったかもしれない。しかし、それが出来ないことは明白だ。重ねて言うが、君と望美さん、それから、名前は知らないが、君達の子供に謝る言葉はないのだ。

灘桝貫太拝

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【この小説はフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。】

関連小説:『美世里のはんこう』(予定)

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