絶望の波跡【改訂版】

2020年7月1日 (初版:同年6月1日) 蓮 文句 *この作品は初版の挿話3部分ほぼ全体とその他にも何か所か書き直したものです。* 1.疑惑 幸路は妻の望美と1DKのアパートで質素に暮らしていた。ある日、幸路の高校時代の友人、貫太から電話があった。特別な事情があって暫く泊まらせてくれないかと言う。アパートは手狭ではあるが、台所でも寝れるからという友人の頼みなので、兎に角受け入れた。幸路と貫太は久しぶりに会ったので、当初は毎日、夕食時にビールを飲みながら昔話に花を咲かせた。 その頃、幸路は日曜休日を除いて朝から夕方まで近くの倉庫で荷物の仕分けと積み込みの仕事をしていた。望美は平日の4~6時間だけやはり近くのスーパーでパートをしていた。滞在中の貫太はと言うと、毎日昼間に数時間出かけるが、それ以外はアパートに留まっているようだった。 その調子で2週間は経ったろう。旧友とは言え、小さなアパートに三人の生活が長くなると、幸路は少し息苦しくなってきた。幸路の「いつまで居るのか」という問いに対して、貫太は「もう少し」と言うだけで、はっきりした返答をしない。 それからさらに2週間ほどした頃、貫太がやっと「出て行けそうだ」と言った。幸路はほっとした。次の日、幸路はシフト調整の手違いがあり、仕事から2時間ほど早く帰ってきた。アパートのドアを開けようとした時、中から望美の興奮したような声が聞こえた。はっきりと、「あたしはどうすればいいの?」と聞こえたのだ。その後、貫太と望美がなにやら言い合っている様子だったが内容は分からなかった。幸路はドキッとした。「何かおかしい」と思わざるを得なかった。 そして、急に最近の様子を思い起こした。 「そう言えば、最近、望美の貫太に対する態度が変わってきたような気がする。今まで気にしないようにしていたが、今の望美の言葉で急に怪しく思ってきた。それに、貫太は俺の前で取り繕っているような気配もある。もしかして、俺が仕事をしている間にあの二人の間に何かあったのでは?」 幸路はそんなことを考え始めたら止まらなくなってしまった。中に入る気になれず、急にドアから手を離してその場を立ち去った。近くの公園まで来て、そこのベンチに座った。しきりに考えまい、考えまいとしたのだが、頭の中はその事で一杯だった。それと同時に、望美との経緯も思い出していた。二人はボウリング場で知り合い、半年ほど付き合ってから結婚して4年と少し経つ。望美はいつもお弁当を作ってくれるし、帰宅時には笑顔で迎えてくれる。また、忘年会などで幸路が飲み過ぎた時に、望美が飲み屋までやってきて、幸路を抱きかかえるようにして連れ帰ったこともあった。今までずっと、幸路は望美との結婚生活が幸せと思っていたし、ありがたく思っていた。それで、そこで少し待てば、落ち着くだろうと思った。 ところが、その間に、もう一つ思い起こしたことがあった。数日前帰宅した時の事だ。いつもは幸路が帰宅するときには夕食が用意できているのに、その日は望美がまだ準備をしていた。それだけではない。望美の髪の毛が完全に乾いていなかったし、その日に限ってシャワーが使ったばかりの様に濡れていた。これは、幸路が毎日仕事から帰ってすぐにシャワーを浴びるので、気が付いたことだ。その時は、一瞬、望美に聞こうかとも思ったが、何かを勘ぐっていると思われるのも嫌で何も言わなかった。だが、今となっては、この事が決定的と思った。あの日、確かに、望美は幸路の帰宅少し前にシャワーを浴びたのだ。結婚してからずっと、望美は毎日必ず朝にシャワーを浴びていたので、望美が午後にシャワーを浴びて夕食の準備が遅れたと言うのは極めて異例の事だ。 シャワーの件と、さっきの望美の言葉とを合わせると、幸路はもう望美と貫太の関係を疑わない訳にはいかなかった。頭の中は怒りで破裂しそうであった。そこで急に立ち上がり、携帯の電源を切ってから、アパートとは反対の方角に歩き始めた。どこに行くと言う当てがある訳ではない。兎に角、反対の方向に行かなくては気が済まなかった。憤ったまましばらく歩くと、そこは、多摩川の河原だった。 2.逃避 幸路は多摩川の河原まで来た時、一瞬立ち止まった。ここ、青梅から川上に向かうと奥多摩の山間部に行きつくだけである。幸路は人気のない所、特に、山の中には恐怖心があった。それで、自然と川下に向かって歩き出した。途中、ずうっと、望美と貫太の事で頭がはちきれそうであった。 「どうして、俺は貫太を泊まらせたりしたんだ。それが、間違いだ。日中、何時間も望美と貫太だけアパートに残しておいたのは明らかに俺の失策だ。後悔しているのは確かだが、今となっては取り返しがつかない。それでも、あの二人には良心と言うものがないのか。恥と言うものがないのか。どうしようと言うのだ。もし、結婚生活を捨てる覚悟で浮気をしたとしたら、望美はもともと結婚生活に満足していなかったんではないか。それに気が付いていなかった俺が愚かだっただけか。望美を満足させられなかった俺の落ち度だろうか。」 「それにしても、直接、望美、そして貫太と話した訳ではないから、これは俺の妄想だろうか。いや、それはあり得ない。あの望美の言葉とシャワーの事を思えば、絶対に間違いない。それでも、面と向かって話をすべきか。もし、望美が過ちを認め、許しを求めたらどうだろうか。俺は望美の事を許すことが出来るだろうか。いや、もし面と向かったら、今の俺の頭の中の状態ではまともな対応が出来る訳がない。何も良いことはない。それに、望美と貫太がもうすでに駆け落ちでもしていたら、俺には絶えられる訳がない。俺の頭の中の混乱状態は、自分の意志で断ち切らなければならない。」 同じことを何回も、何回も考えながら歩いて、5時間ほど経ったろう。立川近辺まで来た頃には、日はとうに暮れ、夜も更けてきていた。かなり疲れてきたので真っ暗な公園の中にあるベンチに腰を掛けた。頭の中は依然、怒りで一杯であった。少し休もうと思い横になったが、眠れる状況ではない。暫くじっとしていると今度は寒くなってきた。いっそのこと、このまま凍え死んでしまえば良いとさえ思ったが、それほどの低温でもない。怒りと寒さに侵されたまま、眠れぬまま暫く横になっていた。だが、急に、夕食も食べていないし、何も飲んでもいないことに気が付いた。 そこで、今度は街の方に向かって歩き出した。まず夜間営業のATMで現金を引き出した。引き出せる限度額、全額を引き出した。それから、コンビニで暖かい缶コーヒーとおにぎりを2個を買って外に出た。コーヒーを飲みながら歩いていると、ネットカフェがあったのでそこに入って、持ち込んだおにぎりを食べた。暫くネットを見ていたが、それでも望美の事が頭から離れなかった。 今度は、ボウリング場で初めて望美を見た時の事を思い出していた。一目惚れだった。幸路は数人の男友達と来ていたのだが、隣のレーンにいた女性グループに望美が居たのだった。そして、明らかに望美も幸路の事を意識していると思った。幸路はその辺にあった紙切れに自宅の電話番号を書いた。その頃、幸路はまだ携帯電話を持っていなかったからだ。そして、望美のボールが戻って来た時に、その紙切れを素早くボールの所に置いた。望美はすぐにそれを取って、幸路に目配せした。その日の夜、幸路の自宅に望美から電話があり、その後はすぐに親しくなり結婚に至った。結婚後も幸せな毎日だった。少なくとも、幸路はそう思っていた。「今までは良かった。」幸路は何度も何度もそう思った。そして、その後、いつの間にか、うとうとしていたようだ。 気が付くと朝になっていた。そこが自分のアパートで、横に望美が寝ていたら、幸路は悪夢を見ていたと思ったかもしれない。だが、現実は厳しかった。ネットカフェで一人で夜を明かしたことを再認識すると、また、怒りが蘇った。「憎い。望美が憎い。貫太が憎い。」 3.回想 幸路は辛い昨夜の思いを振り切るかのようにネットカフェを出た。寝不足の目に朝日が眩しかった。そして、また苦悶が始まった。「とうとう望美に何も言わずに、アパートにも帰らずに一泊してしまった。心配しているだろうか。携帯の電源は切ってしまったが、留守電が入っているだろうか。そうだとしても、今それを聞く気にはなれない。警察に連絡したりしてはいないだろうか。たとえ過ちを犯した妻とは言え、妻には変わらない。心配をさせてしまったかもしれないという罪悪感は拭えない。今すぐに電話をして謝ろうか。」 しかし、そう思った途端にまた望美と貫太の事が頭に浮かび、怒りが呼び戻った。「いや、ひょっとして、俺が帰らないことを喜んでさえいるかもしれない。今話す事は出来ない。」そこで、また多摩川の河原に戻り、さらに川下に向かって歩き出した。その日は良い天気で日差しも強かった。日中の気温はどんどん上がり、太陽がぎらぎらと照り付ける。暑くなり、途中で上着を脱ぎ、腰の周りに結んだ。休憩のため、何回か木陰のベンチに腰を下ろすこともあった。 「俺は何でこんなことをしているんだろう。何の解決にもならないではないか。確かに望美と貫太は過ちを犯しただろう。だが、こうやってその事実から逃げていて何になるのか。問題に真正面から対応できないものか。」 途中、公園の横を通った時には、望美と二人でピクニックをしたことを思い出した。 「あの頃、望美は子供を欲しがっていた。しかし、俺は反対だった。表向きの理由は子供が居たらきちんと育てる義務がある。それが重荷だということだ。だが、俺の本音はと言うと、子供が生まれたら、子供に望美を取られてしまうという心配があったからだ。それは、自己主義だと言って批判されればそれまでかもしれない。」 「それから、問題の一つは望美の愛想が良すぎることかもしれない。望美は誰にでも笑顔を振る舞う。それは良いことに違いない。だが、世の男達は望美が自分に気があると思いはしないだろうか。まてよ。もしかして俺もその一人か?ボウリング場で俺に気があると思ったのは、単に望美が愛想が良かったからか?でも確かに自分から電話してきたし結婚までしたんだから好きだったのは確かだろう。」 今度は自分の最初の彼女の事を思い出していた。それは高校時代だった。その彼女とは時折、街でデートをする程度で深い関係にはなっていなかった。それでも、彼女に振られた時は相当なショックであった。 「あの時も辛かった。元来、俺は拒絶に弱いのだ。これは小さい頃からずっとだ。それで、もしも拒絶されるかもしれないというような状態だったら女性に限らず、親しくなろうとはしない。親しい関係にならなければ、あの時や今のような苦しみを味わわなくて済む。俺は生涯独り者で居た方がいいのかもしれない。どうしてこのような性格なのか?親譲りか、あるいは、育ちの問題か。いずれにしても、自分のせいとは思いたくない。」 「それに、俺はしつこい性格だ。中学、高校と6年間バスケット部にいた。何かをとことんやり遂げるという自信はある。だが、悩むと弱い。悩みもとことん悩み続ける。それで、今は辛い。そして、どうやら、そこから抜け出すのが苦手だ。うまく方向転換が出来ない。なんて、不利な性格なのか。」 その日は合計6時間程歩き、野川を渡って、二子玉川に着いた。その辺りをうろうろした後、24時間喫茶に入った。何もすることがなく、本棚にあるコミックを読み始めたのだが、どうもストーリーに入り込めない。仕舞には、流石に疲れが出て、いつの間にか眠りに落ちていた。そして、こんな夢を見た。双子と思われる姉妹が多摩川の河原、両岸に一人ずつ立っている。届く訳はないのに、必死に腕を伸ばして、互いに手を取ろうとしている。その内に、二人の腕がどんどん長くなり...。そこで目が覚めた。 4.決心 翌朝、幸路は24時間喫茶を出て、3時間程歩き、大田区、京浜東北線の鉄橋付近まで来た。その後、更に少し進んで、とうとう多摩川の河口近く、羽田空港の手前までやって来た。もうこれより川下には行けない。どうしようか。何かを考え出そうとしても、結局頭の中にあることは今まで同様、完全に堂々巡りで、一向にらちが明かない。その時、また、最初の彼女と別れた後の事を思い出した。「あの時、俺はもう立ち直れないと思ったが、それから何年か経って望美に出会ったのだ。おそらく、今も、もう少し時間が必用なのだろう。そうしたら、時間が解決してくれるに違いない。今更逆戻りせずに、全く新しい生活を始めよう。それが俺の性分だ。そうしたら、何とかなるだろう。」 幸路は、そのすぐ後に携帯を多摩川に投げ捨てるかのように見えた。ところが、どうしたことか急にその動作を辞めた。まず、携帯電話のすべての個人情報を消去した。その後、少し歩いて、最初に見つけた電化製品店のリサイクル品回収箱に携帯を投げ込んだ。そして、「これで良し」と独り言を言った。 多摩川沿いに来れるところまで来たので、幸路はこの辺で取り合えず滞在出来るところを探そうと思った。あたりを歩いていると、電車の線路沿いに簡易宿泊所があり、そこを借りの住まいとすることにした。そこを拠点に、日中は毎日のように多摩川の河原に行って、川沿いに行ったり来たりした。また、時には街中を当てもなく歩き回ることもあった。そして、一週間ほど経った頃に、タクシー運転手募集の看板を見つけたので事務所に入ってみた。仕事に必要な二種免許は会社の補助で10日程で取れる。そして、すぐに社員寮に入れるという。また、住民票を移さずに、住所が確認できる郵便物で運転免許証の住所変更が出来るということも知った。幸路は望美に居所を知られたくなかったので、これは好都合と思った。 それに、幸路は両親にも連絡しなかった。「そんなことをしたら、これからやり直そうとしている俺の気持ちに水を差すだけだ」と思ったからだ。そんな状態は、水入らずの親子には想像できないであろうが、幸路の場合、それほど驚くことではなかった。幸路と両親との関係は劣悪ではないが極めて疎遠である。これは、望美とその両親の関係も同様であった。結婚する時、一応二人で両家に挨拶には行ったが、親類縁者を招待するような結婚式はせず、友人を集めて飲み会をしただけだ。極端な言い方をすれば、駆け落ち的な結婚で、その後は二人とも両家にほとんど足を踏み入れていなかったのだ。 そして、その頃は、羽田空港が沖合に移転した直後だったので、タクシー会社も活気があった。近いので、幸路も自然と羽田で待機することが多くなった。ただ、タクシーの仕事は体に良くない。それで、幸路は出来る限り歩くことで運動とすることに努めた。良く行くところはやはり多摩川の河原だ。幸路の性格上、今だに過去の事を思い起こして怒ったり、悲しんだりすることは多い。それでも、四六時中そうしている訳にもいかないので、いつの間にかボーっと何も考えていないということもあった。次第に、そんな無心の状態が続くこともあった。そして、幸路の悟ったことは、無心の状態の後は気持ちが落ち着いているということであった。そこで、いつの間にか、歩くときに積極的にそのような状態を保とうとするように努めた。言うなれば、自分なりの歩行禅を身につけていったというこになろう。幸路は思った。「運転の仕事は楽じゃない。だが、俺の粘り強さで、なんとか続けられるだろう。」 5.先輩 タクシーの運転手は比較的孤独な職業だ。それでも、出車前後に同僚と話をすることはある。ある日、幸路が車から出た時に少し年配の女性運転手から声をかけられた。 「あんた、新入り?」 「はい。与野瀬と言います。」 「そう?アタシは真夜。」 「真夜さん、随分珍しい名前ですね。」 「結婚した相手のせいだよ。まぁ、あいつが普通じゃなかったのは、名前だけじゃなかったけどね。」 「どうしたんですか?」 「まぁ、浮気と言えば浮気かな。」 「えっ?」 「そうだよ。人は、なんで浮気なんかするんだろうね。」 「ほんとに、なんで!で~...、実は、僕も...」 「そうでしょう。よくある話だよね。」 「その~、妻と二人で暮らしていたアパートに友人を滞在させたことが間違いでした。」 「そうなのぉ。」 真夜に何となく親しみを感じ、幸路は今までの経緯を話し始めた。途中で、何度も当時の感情が蘇り、怒ったり、悲しんだり、自己嫌悪に陥ったりした。真夜は相槌を打ちながら親身に聞いてくれた。幸路が言葉に詰まると、幾らでも待ってくれるが、時には、「それは何某と言う意味?」等と確認を入れてくることもあった。大体話し終った時、幸路は何故かほっとしたような気がした。今思えば、家を飛び出してから、誰にも自分の感情を打ち明けていなかったのだ。 真夜は何度も頷いていたが、ポツリと言った。 … 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慎吾と麗名の旅奏曲(2):東日本編

2019年9月1日(若干修正:2019年11月8日) 蓮 文句 1.修学旅行 高校三年の時、慎吾と麗名は同級生だった。それでも二人は全く話をしたこともなく、慎吾は麗名の存在さえ気に留めていない様子だった。そんなある日、慎吾は親と隣町での買い物の帰り、町はずれのコンビニに寄った。慎吾はハッとした。そこのレジで働いていたのは麗名だった。話をしたこともない同級生が一生懸命働いている。なぜかとてもけなげに、と同時にしっかりして見えた。レジに行くのがなんとなく照れ臭く、何も買わずにそこを出た。それから、慎吾は麗名のことを気に掛け始めた。人並外れておとなしい。授業中もほとんど発言しない。休み時間には他の女子と静かに話していることもあったが、一人で窓の外を見ているようなことも多かった。 クラスでは、一学期の間にすでに東京への修学旅行の計画が持ち上がっていた。自由行動の班を決める時、慎吾は麗名が一人だけ話し合いに加わっていないことに気が付いた。後で噂を聞いたところ、麗名の家庭は旅行費用が払えないため修学旅行には行かないということだった。慎吾の家は飛びぬけて裕福ではないが経済的に困ったこともなかったので、この噂はショックであった。 修学旅行の三日前の夜、慎吾は町の中心部まで出かけ、バーに入った。酎ハイをオーダーして飲んでいるところを巡回とみられる警察官に未成年飲酒で補導された。ことの次第は翌日高校に報告され、慎吾は一週間の停学処分を言い渡された。と同時に、この期間にある修学旅行への参加も禁止された。 級友たちが修学旅行に出かけてしまった朝、慎吾は麗名に電話して湖畔を散歩しないかと誘った。 「石館君、散歩に誘ってくれてありがとう。でも、どうしてお酒なんか飲んでいたの?まさかわざと捕まるようなことをしたんじゃないよね?」 「そんなことないよ。たまたまそういう気分だっただけだよ。ところで、同じクラスに居るのに、鹿野内さんとはまだ一回も話したことなかったよね。」 「そうね、私無口だから。石館君はサッカー部で随分活躍していたの知ってたけど。」 「あ~引退するまではね。今は時間が出来た。みんな受験勉強に躍起だけど、僕はなんだか気が抜けたような感じだ。」 「石館君は優秀だからもう大学のこととかしっかり考えているんでしょ?」 「いや、全然。正直言って気が進まない。何を勉強したいとか、何かになりたいというものがまだないんだ。そんな状態で大学に行ってしまっていいのかなと思っている。それより、困ったことに、両親の方が真剣なんだ。」 「そうなの。知らなかった。」 二人は暫く何も話さなかった。突然慎吾が立ち止まり、湖に小石を投げた。その波紋だけが観光シーズンの終った湖面に広がっていった。 「鹿野内さん、気に障ったらごめん。実は、前に街はずれのコンビニに寄った時、レジで働いているのを見たんだけど。」 「そうなの。毎日働いているの。」 「えっ、毎日?大変だね。土日も?」 「そうなの。うち、貧しいから。」 「そんな。詮索するつもりじゃなかったんだけど。」 「いいの。わかっているわ。これは事実だからしかたがないの。修学旅行に行けなかったのもそのせい。それは知っているでしょ?」 「うん。噂で聞いた。で~、鹿野内さんが働いているところを見て、大人と一緒に働いているところを見て、なんだかすごく立派だなって思ったんだ。」 「ただ、お金のためにしていることなのに。私は年取った父と二人暮らしで、父は警備員の仕事。父の前の事業からの借金もあるので、なかなかまともな生活が出来ないの。」 「そうだったのか。大変だなぁ。ねぇ、ポテトチップス持ってきたけど食べる?」 「ありがとう。」 二人は近くのベンチに腰を掛けた。二人はじっと静かな湖面を見つめている。何をするというわけではないが、二人ともそれなりに落ち着いた時間を過ごしているようだった。 午後になって、麗名が言った。 「石館君、この後、またバイトがあるので行かないと。近くのバス停から行くの。今日誘ってくれてありがとう。みんな修学旅行に行ってしまって寂しかった。」 「来てくれてよかった。バス停まで送って行くよ。」 「ありがとう。」 慎吾は麗名がバスに乗る直前に尋ねた。 「鹿野内さん、明日も会ってくれる?」 「えぇ。」 「じゃ、また同じ時間に同じ所で。」 麗名はうなずいた。慎吾は麗名のバスが来るまで待ち、見送った。 次の日、慎吾は少し時間に遅れてきた。 「ごめん。出際にちょっと両親と言い争いがあって。停学になって怒っているんだ。そして毎日ぶらぶらしているとか。大学受験にも差し支えるとか。もう嫌気がさす。」 「ごめんなさい。私に会ってくれるためにそんなこと言われて。それに、どうしても石館君はわざと修学旅行に行かないようにしたと思えて。」 「そんなことないよ。それに、もう修学旅行のことは忘れよう。それより、こうして鹿野内さんと会っていると気が休まる。うちの家族にはない暖かさがある。今日も会えて嬉しいんだ。」 「それだったらいいんだけど。もし昨日石館君が誘ってくれなかったら、私、多分家でずっと泣いていたと思う。私、何の取柄もないのに誘ってくれて、ありがとう。」 「来てくれて、嬉しいよ。」 二人は暫く黙って湖畔を歩いた。今日は少し風が出ている。昼に差し掛かったころ、麗名がバッグから何やら取り出した。 「石館君、よかったら、お昼食べない?おにぎり作ってきたの。」 「ほんと?お腹空いていたんだ。おにぎりいいな。昨日はポテトチップスだけでごめん。」 「当たり前の鮭のおにぎりだけど、いい?」 「鮭、大好きだよ。」 「父の夜食にいつも鮭のおにぎりを用意するの。うちではご馳走なの。父はほとんど毎日夜働いているでしょ。いつも入れ違いで寂しいことが多いの。それに、私の母は私が中学の時に病気で死んでしまったし。」 「そうだったんだ。」 おにぎりを食べ終わると二人はまた歩きだした。また少し風が強くなっている。 「この分だと明日は雨かな。今日のうちにちょっとボートでも乗ろうか。」 「えっ?ボート?」 「うん。そこにあるじゃない。もう観光客もいないし、僕らが少し乗ったって構わないよ。」 麗名はためらっている。それでも、慎吾はさっさとボートの所へ行き、湖岸まで引っ張っていった。 「鹿野内さん、おいでよ。」 麗名は依然ためらっていたが、やっとボートに飛び乗った。慎吾はボートを押しながら、自分も飛び乗った。しばらく慎吾がオールを操り湖上を巡った。誰もいない少しうす暗くなってきた湖面で二人だけ、ボートに乗っている。少し波立つ湖面をすうっと、だが当てもなくさ迷っている。しまいに、慎吾が勢いよく湖岸にこぎ着け、自分が飛び降りた。ボートをさらに引っ張ると麗名の手を取ってボートから降ろした。この時、慎吾は初めて麗名の手に触れた。暖かかった。 … Continue reading 慎吾と麗名の旅奏曲(2):東日本編

慎吾と麗名の旅奏曲(1):環太平洋編

2019年8月1日(若干修正:2019年9月1日) 蓮 文句 これは、先に発表された第一話「もう先生と呼ばないで」と第二話「きみの意識が戻るまで」の後続九話を含めた全11話です。第一話と第二話は個別に発表されたものと若干異なっている箇所があります。 1.もう先生と呼ばないで 慎吾は高校三年になって初めての英語のクラスに行くところだった。今までの教師が退職したので、新任の若い女の先生が来るということを聞いていた。いずれにしても慎吾は英語の授業をずっと嫌ってきたので、大した違いは無いだろうと思っていた。麗名は大学を卒業してすぐに慎吾の高校へ赴任してきた。三週間の教育実習の他は教壇に立ったことはなく、相当に緊張していたことに間違いはない。教師として最初のクラスは尚更のことだ。 慎吾が教室に着くと麗名はもう教室の前に居た。彼は麗名を見たその瞬間にもう完全に参ってしまった。彼は今まで何人か同級生と付き合った事はあるが、深い仲になったことはない。そして、たった今のようにどうしようもない感覚を覚えたこともなかった。そんな状況で慎吾が授業内容に注意を向けられたわけがない。途中麗名が一人ずつに教材を配ったとき、慎吾は麗名の手が少し震えているような気がした。新任の教師だからやっぱり緊張しているのかなと思った。それより、慎吾は自分の興奮状態を収めることに精一杯だった。 それから数週間が過ぎた。慎吾の麗名への想いはとどまる所を知らず、英語だけでなく全ての授業中、いや一日中そのことばかり考えていた。英語の授業はむしろ苦痛にさえなってきた。この憧れの人が級友皆に平等に英語を教えているからだ。もうたまらない。ある日の放課後、慎吾はこっそりと麗名のあとをつけた。同じ電車に乗り、同じ駅で降り、少し離れてついて行った。慎吾の心臓はもう破裂寸前だった。 麗名が自分のアパートのドアを開けようとした時、「先生。」という小さな声がした。振り返ると、そこには慎吾が立っていた。その時の麗名の驚き様はただものではなかった。「あっ」と叫んでいる様な顔をしているが声は出ていない。慎吾を凝視したまま凍結してしまったようだ。しばらくしてやっと麗名が口を開けた。 「あの、城ヶ崎君、どうしてここに。」 それは、半分は教師が生徒をたしなめるような口調であったが、後の半分は旅先で旧友にあったときのような親しみがあった。慎吾はきまりが悪そうに返答した。 「すいません。悪いとは思いながらついてきたんです。先生、すいません。どうしようもなかったんです。」 麗名はすぐには返答できなかった。そして思い切るように言った。 「城ヶ崎君、それはどういうことですか。」 麗名の顔は少し赤らいでいる。慎吾はもうすべて言うしかないと思っていた。 「先生。先生を一目見た時からもう頭が一杯で。授業中も苦しいくらいで。もう、直接会って話をしないと耐えられないと思ったんです。」 麗名は返答に困っているようだった。顔は更に赤くなってきた。しばらく経って、やや落ち着いてきたかと思われるとポツリと言った。 「城ヶ崎君、とにかく中に入って。こんなところを他の人に見られてしまっては。」 麗名は鍵を開けると慎吾を中に通した。アパートの中はガランとした感じで、隅には幾つか段ボール箱が積んであった。麗名は慎吾を小さな椅子に座らせると台所の流しの方を向いてしまった。そして、麗名の次の言葉は慎吾には少し意外だった。 「城ヶ崎君、コーヒー飲む?」 慎吾はもう信じられなかった。あの安城先生のアパートに二人だけでいる。 「二人だけ。先生、夢のようです。本当にどうして良いか分からなかったんです。」 麗名の方はうつむいてコーヒーの用意をしている。慎吾には麗名の表情どころか顔さえ見えなかった。次に麗名は独り言のように言った。 「こんな状態が学校に知れたら、わたしすぐクビにされてしまう。どうしよう。」 麗名が心配しているのを悟った慎吾はすかさず返事した。 「先生、オレ、絶対、誰にも何にも言わないから。心配しないで。」 麗名はそれには反応しなかった。まだコーヒーの方を向いている。少し身体が震えているようでもある。 「先生、すいません。悪い事だとは分かっていたし、先生を困らせようというつもりは全然なかったんだ。」 「城ヶ崎君。分かっているわ。わたし、今言った通り自分の仕事の事が心配なのは本当なんです。でも、実はもっと切迫していることがあって。」 慎吾にはその意味は全くわからなかった。 「もっと切迫していることって?」 麗名はまだコーヒーの方を向いている。 「城ヶ崎くん、コーヒーができたわ。」 そう言って、コーヒーカップを2つテーブルの上に置いた。麗名の顔を見た慎吾は驚いた。麗名の目からは涙が流れたあとがある。それなのに全然悲しそうではない。慎吾の身体は完全に興奮していた。 「わたし、どうしていいかわからないの。」 そう言ってコーヒーカップ一つを慎吾の方へ押した時、麗名の手が震え、カップが傾き、コーヒーがこぼれてしまった。慎吾は手を出してそれを抑えようとしたが間に合わなかった。 「ごめんなさい。」 「すいません。」 麗名と慎吾が同時にそう言った時に二人の手が触れ、次の瞬間には唇も触れた。麗名はちょっと後ずさりすると、完全に動揺した様子で、 「わたし、どうしよう。わたし、どうしよう。」 と繰り返している。 慎吾が話し始めた。 「先生、すいません。でも、オレ、もうどうしょうもないんだ。なんと言っていいかわからない。」 麗名はまだ動揺した様子で、「どうしよう。」といっている。顔は相変わらず赤く、興奮しているのは明らかだ。しばらくして麗名が観念したという様子で話し始めた。 「城ヶ崎くん、実は、わたし。実は、わたし、初めて会ったときからあなたのことを。あなたのことを考えていたんです。あなたが気がついたかどうかわからないけど、あなたに教材を渡す時になんだかいたずらに手が震えて。丁度さっきコーヒをこぼしてしまったときのように。それで、それから毎日・毎日が苦しくって。どうかして、あなたとお話出来ないかと考えていた。今日城ヶ崎君が急に現れた時、わたしはもう気絶同然でした。嬉しかったの。いや、それ以上。今、やっと二人だけに。」 そう言うと麗名はうつむいてしまった。 慎吾は信じられなかった。あの安城先生が自分のことをそんなに思っていてくれたなんて。あの安城先生が。もう世の中の他のことはどうでもよかった。すると麗名が突然立ち上がって言った。 「わたし、もう熱くなってしまって。ちょっと待っててね。」 と言うや他の部屋に行ってしまった。しばらくカサカサ、コトコトとした音がしていたが、直に戻ってくると、言った。 「こっちに来て。」 麗名が興奮している慎吾の手をとって通したのは彼女の寝室だった。慎吾はちょっと驚いた。そこは片付けたと思われる後にしては、かなり散らかっていたからだ。傍観者だったら引っ越して来て間もないからだと思うだろう。ただ、慎吾にはそんなことも麗名の「ごめんなさい。こんなところで。」という言葉も気にならなかった。そこがどんなところであろうがどんな状態であろうが、そんなことはこの二人にはもう関係のないことだった。 どのくらい経っであろう、麗名が仕方がないという感じで口を開いた。 「城ヶ崎君、もう遅いわ。帰らないと。お家の人が心配しているんじゃない?」 「先生、オレ、もうずうっとここにいたい。いや、今日のこの一日だけでももう死んでもいいくらいだ。」 すると、麗名がちょっとたしなめるように言った。 「そんな。変なこと言わないで。わたしのそばにいて。それから、城ヶ崎君、わたし達もう男と女の関係になってしまったのだから、わたしのこと『先生』って言うの辞めてください。」 … Continue reading 慎吾と麗名の旅奏曲(1):環太平洋編