絶望の波跡【改訂版】

2020年7月1日 (初版:同年6月1日) 蓮 文句 *この作品は初版の挿話3部分ほぼ全体とその他にも何か所か書き直したものです。* 1.疑惑 幸路は妻の望美と1DKのアパートで質素に暮らしていた。ある日、幸路の高校時代の友人、貫太から電話があった。特別な事情があって暫く泊まらせてくれないかと言う。アパートは手狭ではあるが、台所でも寝れるからという友人の頼みなので、兎に角受け入れた。幸路と貫太は久しぶりに会ったので、当初は毎日、夕食時にビールを飲みながら昔話に花を咲かせた。 その頃、幸路は日曜休日を除いて朝から夕方まで近くの倉庫で荷物の仕分けと積み込みの仕事をしていた。望美は平日の4~6時間だけやはり近くのスーパーでパートをしていた。滞在中の貫太はと言うと、毎日昼間に数時間出かけるが、それ以外はアパートに留まっているようだった。 その調子で2週間は経ったろう。旧友とは言え、小さなアパートに三人の生活が長くなると、幸路は少し息苦しくなってきた。幸路の「いつまで居るのか」という問いに対して、貫太は「もう少し」と言うだけで、はっきりした返答をしない。 それからさらに2週間ほどした頃、貫太がやっと「出て行けそうだ」と言った。幸路はほっとした。次の日、幸路はシフト調整の手違いがあり、仕事から2時間ほど早く帰ってきた。アパートのドアを開けようとした時、中から望美の興奮したような声が聞こえた。はっきりと、「あたしはどうすればいいの?」と聞こえたのだ。その後、貫太と望美がなにやら言い合っている様子だったが内容は分からなかった。幸路はドキッとした。「何かおかしい」と思わざるを得なかった。 そして、急に最近の様子を思い起こした。 「そう言えば、最近、望美の貫太に対する態度が変わってきたような気がする。今まで気にしないようにしていたが、今の望美の言葉で急に怪しく思ってきた。それに、貫太は俺の前で取り繕っているような気配もある。もしかして、俺が仕事をしている間にあの二人の間に何かあったのでは?」 幸路はそんなことを考え始めたら止まらなくなってしまった。中に入る気になれず、急にドアから手を離してその場を立ち去った。近くの公園まで来て、そこのベンチに座った。しきりに考えまい、考えまいとしたのだが、頭の中はその事で一杯だった。それと同時に、望美との経緯も思い出していた。二人はボウリング場で知り合い、半年ほど付き合ってから結婚して4年と少し経つ。望美はいつもお弁当を作ってくれるし、帰宅時には笑顔で迎えてくれる。また、忘年会などで幸路が飲み過ぎた時に、望美が飲み屋までやってきて、幸路を抱きかかえるようにして連れ帰ったこともあった。今までずっと、幸路は望美との結婚生活が幸せと思っていたし、ありがたく思っていた。それで、そこで少し待てば、落ち着くだろうと思った。 ところが、その間に、もう一つ思い起こしたことがあった。数日前帰宅した時の事だ。いつもは幸路が帰宅するときには夕食が用意できているのに、その日は望美がまだ準備をしていた。それだけではない。望美の髪の毛が完全に乾いていなかったし、その日に限ってシャワーが使ったばかりの様に濡れていた。これは、幸路が毎日仕事から帰ってすぐにシャワーを浴びるので、気が付いたことだ。その時は、一瞬、望美に聞こうかとも思ったが、何かを勘ぐっていると思われるのも嫌で何も言わなかった。だが、今となっては、この事が決定的と思った。あの日、確かに、望美は幸路の帰宅少し前にシャワーを浴びたのだ。結婚してからずっと、望美は毎日必ず朝にシャワーを浴びていたので、望美が午後にシャワーを浴びて夕食の準備が遅れたと言うのは極めて異例の事だ。 シャワーの件と、さっきの望美の言葉とを合わせると、幸路はもう望美と貫太の関係を疑わない訳にはいかなかった。頭の中は怒りで破裂しそうであった。そこで急に立ち上がり、携帯の電源を切ってから、アパートとは反対の方角に歩き始めた。どこに行くと言う当てがある訳ではない。兎に角、反対の方向に行かなくては気が済まなかった。憤ったまましばらく歩くと、そこは、多摩川の河原だった。 2.逃避 幸路は多摩川の河原まで来た時、一瞬立ち止まった。ここ、青梅から川上に向かうと奥多摩の山間部に行きつくだけである。幸路は人気のない所、特に、山の中には恐怖心があった。それで、自然と川下に向かって歩き出した。途中、ずうっと、望美と貫太の事で頭がはちきれそうであった。 「どうして、俺は貫太を泊まらせたりしたんだ。それが、間違いだ。日中、何時間も望美と貫太だけアパートに残しておいたのは明らかに俺の失策だ。後悔しているのは確かだが、今となっては取り返しがつかない。それでも、あの二人には良心と言うものがないのか。恥と言うものがないのか。どうしようと言うのだ。もし、結婚生活を捨てる覚悟で浮気をしたとしたら、望美はもともと結婚生活に満足していなかったんではないか。それに気が付いていなかった俺が愚かだっただけか。望美を満足させられなかった俺の落ち度だろうか。」 「それにしても、直接、望美、そして貫太と話した訳ではないから、これは俺の妄想だろうか。いや、それはあり得ない。あの望美の言葉とシャワーの事を思えば、絶対に間違いない。それでも、面と向かって話をすべきか。もし、望美が過ちを認め、許しを求めたらどうだろうか。俺は望美の事を許すことが出来るだろうか。いや、もし面と向かったら、今の俺の頭の中の状態ではまともな対応が出来る訳がない。何も良いことはない。それに、望美と貫太がもうすでに駆け落ちでもしていたら、俺には絶えられる訳がない。俺の頭の中の混乱状態は、自分の意志で断ち切らなければならない。」 同じことを何回も、何回も考えながら歩いて、5時間ほど経ったろう。立川近辺まで来た頃には、日はとうに暮れ、夜も更けてきていた。かなり疲れてきたので真っ暗な公園の中にあるベンチに腰を掛けた。頭の中は依然、怒りで一杯であった。少し休もうと思い横になったが、眠れる状況ではない。暫くじっとしていると今度は寒くなってきた。いっそのこと、このまま凍え死んでしまえば良いとさえ思ったが、それほどの低温でもない。怒りと寒さに侵されたまま、眠れぬまま暫く横になっていた。だが、急に、夕食も食べていないし、何も飲んでもいないことに気が付いた。 そこで、今度は街の方に向かって歩き出した。まず夜間営業のATMで現金を引き出した。引き出せる限度額、全額を引き出した。それから、コンビニで暖かい缶コーヒーとおにぎりを2個を買って外に出た。コーヒーを飲みながら歩いていると、ネットカフェがあったのでそこに入って、持ち込んだおにぎりを食べた。暫くネットを見ていたが、それでも望美の事が頭から離れなかった。 今度は、ボウリング場で初めて望美を見た時の事を思い出していた。一目惚れだった。幸路は数人の男友達と来ていたのだが、隣のレーンにいた女性グループに望美が居たのだった。そして、明らかに望美も幸路の事を意識していると思った。幸路はその辺にあった紙切れに自宅の電話番号を書いた。その頃、幸路はまだ携帯電話を持っていなかったからだ。そして、望美のボールが戻って来た時に、その紙切れを素早くボールの所に置いた。望美はすぐにそれを取って、幸路に目配せした。その日の夜、幸路の自宅に望美から電話があり、その後はすぐに親しくなり結婚に至った。結婚後も幸せな毎日だった。少なくとも、幸路はそう思っていた。「今までは良かった。」幸路は何度も何度もそう思った。そして、その後、いつの間にか、うとうとしていたようだ。 気が付くと朝になっていた。そこが自分のアパートで、横に望美が寝ていたら、幸路は悪夢を見ていたと思ったかもしれない。だが、現実は厳しかった。ネットカフェで一人で夜を明かしたことを再認識すると、また、怒りが蘇った。「憎い。望美が憎い。貫太が憎い。」 3.回想 幸路は辛い昨夜の思いを振り切るかのようにネットカフェを出た。寝不足の目に朝日が眩しかった。そして、また苦悶が始まった。「とうとう望美に何も言わずに、アパートにも帰らずに一泊してしまった。心配しているだろうか。携帯の電源は切ってしまったが、留守電が入っているだろうか。そうだとしても、今それを聞く気にはなれない。警察に連絡したりしてはいないだろうか。たとえ過ちを犯した妻とは言え、妻には変わらない。心配をさせてしまったかもしれないという罪悪感は拭えない。今すぐに電話をして謝ろうか。」 しかし、そう思った途端にまた望美と貫太の事が頭に浮かび、怒りが呼び戻った。「いや、ひょっとして、俺が帰らないことを喜んでさえいるかもしれない。今話す事は出来ない。」そこで、また多摩川の河原に戻り、さらに川下に向かって歩き出した。その日は良い天気で日差しも強かった。日中の気温はどんどん上がり、太陽がぎらぎらと照り付ける。暑くなり、途中で上着を脱ぎ、腰の周りに結んだ。休憩のため、何回か木陰のベンチに腰を下ろすこともあった。 「俺は何でこんなことをしているんだろう。何の解決にもならないではないか。確かに望美と貫太は過ちを犯しただろう。だが、こうやってその事実から逃げていて何になるのか。問題に真正面から対応できないものか。」 途中、公園の横を通った時には、望美と二人でピクニックをしたことを思い出した。 「あの頃、望美は子供を欲しがっていた。しかし、俺は反対だった。表向きの理由は子供が居たらきちんと育てる義務がある。それが重荷だということだ。だが、俺の本音はと言うと、子供が生まれたら、子供に望美を取られてしまうという心配があったからだ。それは、自己主義だと言って批判されればそれまでかもしれない。」 「それから、問題の一つは望美の愛想が良すぎることかもしれない。望美は誰にでも笑顔を振る舞う。それは良いことに違いない。だが、世の男達は望美が自分に気があると思いはしないだろうか。まてよ。もしかして俺もその一人か?ボウリング場で俺に気があると思ったのは、単に望美が愛想が良かったからか?でも確かに自分から電話してきたし結婚までしたんだから好きだったのは確かだろう。」 今度は自分の最初の彼女の事を思い出していた。それは高校時代だった。その彼女とは時折、街でデートをする程度で深い関係にはなっていなかった。それでも、彼女に振られた時は相当なショックであった。 「あの時も辛かった。元来、俺は拒絶に弱いのだ。これは小さい頃からずっとだ。それで、もしも拒絶されるかもしれないというような状態だったら女性に限らず、親しくなろうとはしない。親しい関係にならなければ、あの時や今のような苦しみを味わわなくて済む。俺は生涯独り者で居た方がいいのかもしれない。どうしてこのような性格なのか?親譲りか、あるいは、育ちの問題か。いずれにしても、自分のせいとは思いたくない。」 「それに、俺はしつこい性格だ。中学、高校と6年間バスケット部にいた。何かをとことんやり遂げるという自信はある。だが、悩むと弱い。悩みもとことん悩み続ける。それで、今は辛い。そして、どうやら、そこから抜け出すのが苦手だ。うまく方向転換が出来ない。なんて、不利な性格なのか。」 その日は合計6時間程歩き、野川を渡って、二子玉川に着いた。その辺りをうろうろした後、24時間喫茶に入った。何もすることがなく、本棚にあるコミックを読み始めたのだが、どうもストーリーに入り込めない。仕舞には、流石に疲れが出て、いつの間にか眠りに落ちていた。そして、こんな夢を見た。双子と思われる姉妹が多摩川の河原、両岸に一人ずつ立っている。届く訳はないのに、必死に腕を伸ばして、互いに手を取ろうとしている。その内に、二人の腕がどんどん長くなり...。そこで目が覚めた。 4.決心 翌朝、幸路は24時間喫茶を出て、3時間程歩き、大田区、京浜東北線の鉄橋付近まで来た。その後、更に少し進んで、とうとう多摩川の河口近く、羽田空港の手前までやって来た。もうこれより川下には行けない。どうしようか。何かを考え出そうとしても、結局頭の中にあることは今まで同様、完全に堂々巡りで、一向にらちが明かない。その時、また、最初の彼女と別れた後の事を思い出した。「あの時、俺はもう立ち直れないと思ったが、それから何年か経って望美に出会ったのだ。おそらく、今も、もう少し時間が必用なのだろう。そうしたら、時間が解決してくれるに違いない。今更逆戻りせずに、全く新しい生活を始めよう。それが俺の性分だ。そうしたら、何とかなるだろう。」 幸路は、そのすぐ後に携帯を多摩川に投げ捨てるかのように見えた。ところが、どうしたことか急にその動作を辞めた。まず、携帯電話のすべての個人情報を消去した。その後、少し歩いて、最初に見つけた電化製品店のリサイクル品回収箱に携帯を投げ込んだ。そして、「これで良し」と独り言を言った。 多摩川沿いに来れるところまで来たので、幸路はこの辺で取り合えず滞在出来るところを探そうと思った。あたりを歩いていると、電車の線路沿いに簡易宿泊所があり、そこを借りの住まいとすることにした。そこを拠点に、日中は毎日のように多摩川の河原に行って、川沿いに行ったり来たりした。また、時には街中を当てもなく歩き回ることもあった。そして、一週間ほど経った頃に、タクシー運転手募集の看板を見つけたので事務所に入ってみた。仕事に必要な二種免許は会社の補助で10日程で取れる。そして、すぐに社員寮に入れるという。また、住民票を移さずに、住所が確認できる郵便物で運転免許証の住所変更が出来るということも知った。幸路は望美に居所を知られたくなかったので、これは好都合と思った。 それに、幸路は両親にも連絡しなかった。「そんなことをしたら、これからやり直そうとしている俺の気持ちに水を差すだけだ」と思ったからだ。そんな状態は、水入らずの親子には想像できないであろうが、幸路の場合、それほど驚くことではなかった。幸路と両親との関係は劣悪ではないが極めて疎遠である。これは、望美とその両親の関係も同様であった。結婚する時、一応二人で両家に挨拶には行ったが、親類縁者を招待するような結婚式はせず、友人を集めて飲み会をしただけだ。極端な言い方をすれば、駆け落ち的な結婚で、その後は二人とも両家にほとんど足を踏み入れていなかったのだ。 そして、その頃は、羽田空港が沖合に移転した直後だったので、タクシー会社も活気があった。近いので、幸路も自然と羽田で待機することが多くなった。ただ、タクシーの仕事は体に良くない。それで、幸路は出来る限り歩くことで運動とすることに努めた。良く行くところはやはり多摩川の河原だ。幸路の性格上、今だに過去の事を思い起こして怒ったり、悲しんだりすることは多い。それでも、四六時中そうしている訳にもいかないので、いつの間にかボーっと何も考えていないということもあった。次第に、そんな無心の状態が続くこともあった。そして、幸路の悟ったことは、無心の状態の後は気持ちが落ち着いているということであった。そこで、いつの間にか、歩くときに積極的にそのような状態を保とうとするように努めた。言うなれば、自分なりの歩行禅を身につけていったというこになろう。幸路は思った。「運転の仕事は楽じゃない。だが、俺の粘り強さで、なんとか続けられるだろう。」 5.先輩 タクシーの運転手は比較的孤独な職業だ。それでも、出車前後に同僚と話をすることはある。ある日、幸路が車から出た時に少し年配の女性運転手から声をかけられた。 「あんた、新入り?」 「はい。与野瀬と言います。」 「そう?アタシは真夜。」 「真夜さん、随分珍しい名前ですね。」 「結婚した相手のせいだよ。まぁ、あいつが普通じゃなかったのは、名前だけじゃなかったけどね。」 「どうしたんですか?」 「まぁ、浮気と言えば浮気かな。」 「えっ?」 「そうだよ。人は、なんで浮気なんかするんだろうね。」 「ほんとに、なんで!で~...、実は、僕も...」 「そうでしょう。よくある話だよね。」 「その~、妻と二人で暮らしていたアパートに友人を滞在させたことが間違いでした。」 「そうなのぉ。」 真夜に何となく親しみを感じ、幸路は今までの経緯を話し始めた。途中で、何度も当時の感情が蘇り、怒ったり、悲しんだり、自己嫌悪に陥ったりした。真夜は相槌を打ちながら親身に聞いてくれた。幸路が言葉に詰まると、幾らでも待ってくれるが、時には、「それは何某と言う意味?」等と確認を入れてくることもあった。大体話し終った時、幸路は何故かほっとしたような気がした。今思えば、家を飛び出してから、誰にも自分の感情を打ち明けていなかったのだ。 真夜は何度も頷いていたが、ポツリと言った。 … Continue reading 絶望の波跡【改訂版】

慎吾と麗名の旅奏曲(4):完結編

2020年4月4日 蓮 文句 第一話 旅籠屋 時は江戸時代の末期、所は今で言う山陰地方。当然、町人の旅は徒歩、旅人の宿泊は旅籠屋と決まっていた。 当時十六才のおれいは出雲のある豪商の住み込みの女中見習いとして奉公していた。主な仕事はここの奥さんの身の回りの世話である。さて、この奥さんは嫁いでもう何年か経つが子宝に恵まれずにいた。そこで、夫君はこの奥さんを有馬温泉の湯泉神社に祈願と同時に湯治場での治療に送ることにした。おれいはそのお供を言いつかった。二人は、出雲を出て、松江、米子から山間部に入り、津山を通って、姫路、明石と経由して、有馬温泉に到着した。旅慣れない女二人の旅、途中山道もあり、片道二週間程を要した。 有馬温泉では、宿を取るとすぐに湯泉神社に祈願した。これは二週間の滞在中毎日欠かさず行った。湯治場での表向きの療法は温泉につかる以外特にすることはなく、二人は毎日長いこと湯につかっていた。尚、物の本によれば、当時、温泉は混浴が普通で、女性の入浴時の世話も男性の三助がしていたということである。そして、実際の「治療」はと言えば、毎晩二人の部屋には二人の男が現れた。子宝が必要なのは奥さんだけであったが、この奥さんは自分だけに男があるのは極まりが悪いと思って計らったことであった。おれいは奉公中忙しく働かされていただけなので、生まれて初めての旅で、生まれて初めての経験をして、戸惑いが隠せなかった。さて、予定の二週間が終わり、二人は帰路についた。実は、この旅には、夫君に言い使った商用もあった。姫路の取引先で、小さいが比較的高価な品物を預かり、それを鳥取の取引先に届けるというものである。そこで、姫路からは、因幡街道の智頭往来ルートを通って、鳥取に抜け、その後は山陰道を出雲まで戻る予定だった。途中、智頭街道の志戸坂峠を越えた時は、二人ともたいそう疲れたため、やっとのことで鳥取側の最初の宿場に辿り着いた。そこには一軒だけ古びた兼業の旅籠屋があった。 やはり当時十六才の慎は、富山の薬売りの息子で、修行のため、現在の中国地方を担当する父のお供として、各地を回っていた。この父の薬物の中で一番の人気商品は子宝に効くという秘薬で、商いは順調であり、それなりの富を蓄えていた。この父は、大きな町に泊るときは決まって夜中に出かけて行って遅くまで帰ってこない。慎はいつも好奇心に満ち溢れていたが、父は慎には何も言わなかった。また、この父は子宝に関する相談を受け持つことも多く、時には子宝に恵まれない細君を個別に診察して差し上げるなどということもしていた。そのような時は、慎は幾ばくかの金をもらい、外でいついつまで過ごすようにと言われる。それで、慎は街に出てはうまそうな物を食らい、うまそうな酒を飲んだりすることもあった。 道中、この父子は山陰道から備前方面へ向かうに際し、鳥取で宿を取った。これから山々を超えて行くため、父はここでひと遊びしておかねばと思った。また、この日も個別診察を承り、慎を外にやった。仕方なく、街で一人で飲み食いをしていると、派手なかっこをした女が近寄ってきて一緒に飲み食いしてよいかと尋ねる。二人は、なんだかんだと差し障りのない話をしていたが、急にその女が、女を抱いたことがあるかと聞く。慎は正直に答えると、自分を抱かしてくれるという。そして、幾ら払うかというのだ。慎は父に貰った金のほとんどは飲み食いに使ってしまったので、懐には大した額は残っていなかった。それを見せると、その女は少しがっかりしていたようだが、ないよりはましかといいその金銭をすべて取り上げた。そして、ついて来いという。その時が、慎の初めての経験であった。翌日からは、商いをしながら、智頭街道を南下し、数日後には峠の一番手前の宿場まで行き着いた。そこには一軒だけ古びた兼業の旅籠屋があった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ その旅籠屋は部落の中心を流れる小さな川を渡ったすぐ反対側にあった。部落には他に店もなく、娯楽もなかった。慎の父は旅籠屋の食事を出すところで宿泊客に薬を売り込んでいる。そして、この同じ日に宿泊中の例の奥さんが湯泉神社に祈願してきたということを聞きつけ、個別診察を勧めている。夕飯の後、慎の父はこの奥さんを自分の部屋に呼び込んだ。奥さんは疲れていたが、断るのも億劫という感じでついて行った。そして、父は慎にいつものように外で時間を潰すように言った。ただ、この時は、慎に小遣いを与えなかった。おそらく父はこの部落には金を使うようなところがないことを知っていたからだろう。慎はもう食事も終わっていたし、この部落には時間を潰すようなところもないと悟っていた。その時、慎の脳裏に閃いたことがある。「そうだ、あの奥さんには若い女子がお供しとった。あの女子に声をかけてみよう。」慎はコッソリとその部屋を探した。この旅籠屋にはそんなに多くの部屋がなかったので、割と容易にその部屋を見つけることが出来た。慎はそっと声をかける。 「あの、奥様にお供の女子さんでしょうけ?」 何も返答がない。 「もう一度お尋ねする。奥様にお供の女子さんでしょうけ?」 暫くして、細々とした返事があった。 「何の御用だらーか。」 慎はとっさに嘘をついた。 「奥様のお使いで来た。」 また、沈黙が続いた。 「何のお使いだらーか?」 「薬を持ってきた。」 「何の薬だらーか?」 「奥様の薬や。部屋に持ってくるように言われた。」 すると、スーッと障子が開き、おれいが出てきた。慎は「間違いのうあの女子や」と、にんまりした。そして、どうしても外に連れ出したいという考えが浮かんだ。 「薬をごしなぃ。部屋に置えちょく。」 「これや。」 流石に薬売りの子供だけあって、慎はいつも懐に風邪薬の一つや二つは持っている。それを渡して言った。 「んで、奥様ちゃ時間がかかりそうや。外を散歩でもせんか?」 おれいはこれには返事をしない。少し、怪しんでいるようでもある。 「失礼した。わしちゃ薬売りの息子や。わしの名ちゃ慎や。ここに泊っとる。ほんの宿の前のところでいいんや。富山の菓子もあるちゃ。」 菓子と聞いて、おれいは興味を示したと見える。部屋の外に出てきた。 「ちょっこしそこまでだけや。」 慎が先に廊下を進んで、旅籠屋の玄関を出る。おれいも宿の草履を突っかけてついてきた。 「綺麗な月が見えるちゃ。ほれ、見てごらん。」 おれいは何も言わずに月を見あげた。おれいは自分の生家から奉公に出て二年ほどになる。寂しくなると、月を見上げて過ごしてきた。まだ生家が懐かしいのだ。おれいはボソッと呟く。 「月を見ーとお父やお母を思い出す。」 「そうやけ。離れて長いがけ?」 「はえ。2年程になー。」 「そうやけ。自分の家が一番やちゃ。菓子を食べっしゃい。なんて名前やけ?」 「おれい、とえう。」 おれいは慎の差し出した菓子を食べ始めた。気に入ったようで、むしゃむしゃとすべて食べた。 「好きか?良かったちゃ。少しその辺を歩いてみますけ?」 慎はそう言うと少しずつ歩き始めた。おれいは少し後をゆっくりと付いてきた。旅籠屋の前の橋を渡り、部落の通りに出た。やはり店はない。提灯が一つ二つとあるきりだ。慎は少し歩き方をゆっくりにしておれいと並ぶ。二人は、各々のことを少しずつ話した。おれいはあまり気にせずに、奥さんの子宝の祈願のため有馬温泉に行ったということを漏らしてしまった。そして、そこでの夜のことを思い起こし、顔を赤くした。だが、夜道故、慎には見えなかった。それでも、慎は慎で子宝の祈願のことが気になっていた。慎の父は当時で言えばその道の専門家である。 「わしのお父ちゃ子宝に効く薬を売っとるがや。奥様ちゃそれでお父と話しとるんがや。奥様ちゃ湯治場で何をしとったがやけ?」 「湯に入ったり、男を呼んだりしちょった。」 「おれいさん、それ、見たんか?」 それに対しては、おれいは何も答えなかった。 丁度その頃、二人は数えるほどの軒並みしかない部落の中心部を過ぎた。そこには小さな神社があったので、そこに入り、木の切り株に腰を降ろした。おれいは有馬温泉の夜のことが頭に浮かび、少なからず体が熱くなっていた。慎もまた、数日前の初体験が蘇り、興奮を抑えられずにいた。いつの間にか、二人は何も言わずに近くの草むらに寝転んで抱き合っていた。 現代人の皆様はこのような経緯をいきずりでふしだらな行為と言って批判するかもしれない。しかし、これは車も、テレビも、携帯どころか有線の電話さえない時代の話である。十六才で学校にも行かずに大人の世界に入りつつある慎とおれいには、どれだけ同い年の異性と遭遇する機会があろうか?自分の好みの相手を探し求めるような時間と自由があろうか?慎とおれいの出会いは、慎の強い動機とちょっとした機転が切っ掛けで実現した稀な出来事であった。若い二人には非常に限られたロマンスのひと時だったのである。という訳で、この話は、たとえ同じ国のことと言えども、時代の隔たりを考えれば、異国の文化と同様に捉えた方が良いかもしれない。 さて、まだ二人の気持ちが高揚している時に、突然、バチバチと言うような大きな音が聞こえ始めた。これには、事の最中とは言え、流石に驚かざるを得なかった。同時に、あの古びた旅籠屋の方角に火の粉が舞い上がっているのが見えた。二人は慌てて着物を着ると旅籠屋の方に駆け戻った。だが、旅籠屋に通じる橋の手前で立ち止まざるを得なかった。旅籠屋は完全に火の海と化していたのだ。部落の人々が非力な消防活動をしている。二人は唖然としてそこに留まっていた。他に何もできず、しっかりと寄り添っていた。火が完全に消えたのはもう夜明けに近いころだった。二人は疲れ果てていた。それでも、慎もおれいも各々の連れの状況が心配で部落の人に聞いてみた。話によると、最近界隈を荒らしまわっている賊が宿泊客の金銭を盗んだ上に火を放ったと言うのだ。そして、宿泊客は誰も生き残らなかったと言われた。 二人は唖然とした。慎は父を、おれいは奥さんを失ってしまったのだ。おれいはしくしくと泣きだした。慎も一人だったら、泣いていただろう。だが、今そうしている訳ににはいかなかった。この山奥の何もない部落で、昨夜偶然に知り合ったばかりの二人だけが唯一の知り合いとなってしまったのだ。そして、当然のこと、二人は何も持っていなかった。ここは、二人の故郷の富山にも出雲にも遠い、人里離れたところだ。どうしていいのかわからなかった。二人とも、いっそ連れと一緒に死んでしまっていたら事が簡単だったと思った。と同時に、たまたま旅籠屋を抜け出したために、命が救われたという僅かな慰めの感もあった。二人は長い間何も話さずにいたが、慎が口を開いた。 「おれいさん、わし達、運が良かったか悪かったかわからんが、二人だけ生き残った。どうしたらいいか一緒に考えてくれっけ?」 「慎さん、わかった。そうすーより、仕方がなえ。」 と言う訳で、どうするか話し合った。そして、昨夜出会ったばかりの二人はこれからの行動を共にしようと誓った。その後は、今までの疲労のため二人ともその橋の袂で倒れるように横になってしまった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 日もだいぶ高くなったころ、目が覚めてから、二人は人の好さそうな老人を捕まえて、まず自分たちの身の上のことを打ち明け、部落の周辺のことを聞いた。一番知りたかったのは、二人が転がり込めるようなところがあるかどうかということだった。この老人の話では、4里程だったか歩いたところに山寺がある、そこへ行ってみるのが良いかもしれないということだった。慎はその老人にまだ少しだけ残っていた風邪薬を見せて、何か食べ物と交換してくれないかと頼んだ。老人は気の毒に思い、薬と引き換えに自分の家からおこわのおにぎりを二つ持ってきてくれた。その老人の昼飯用にとってあったものだと言う。二人は老人に礼を言い、山寺に向けて出発した。 … Continue reading 慎吾と麗名の旅奏曲(4):完結編

慎吾と麗名の旅奏曲(3):大西洋南下編

2020年2月6日(若干修正 2020年3月23日) 蓮 文句 1.ロンドン(イギリス) アメリカから国外追放となった慎吾と、名目ばかりのイギリス短期留学を終えた麗名は、ロンドンの安ホステルに滞在していた。ある日、麗名が外出から帰ってくると、ラウンジでは滞在者の多くがテレビでサッカーの観戦に夢中になっている。その中、片隅で慎吾が一人、日本語の本を読んでいた。麗名にとっては、このホステルで初めて見かける日本人であったので声をかけてみた。 「あの~、日本人ですよね。」 「そうです。」 「ここに座ってもいい?」 麗名は向かいのソファに座るとそこに置いてあった雑誌をパラパラとめくり始めた。慎吾はちょっと気になっているようで、ちらちらと麗名の方を覗いている。そして、口を出した。 「ここで日本人は珍しいね。旅行中?」 「ううん。短期留学が終わったところ。日本に帰りたくもないからここに来てみたんだ。」 「ふ~ん。気楽だな。」 「あんたは?」 「どこに行く当てもなくここに来た。アメリカで国外追放になった。」 「へ~。かっこいいじゃない。スパイかなんか?英語も得意なんだ。」 「かっこいいわけはないだろ。向こうでは小型機のパイロットだった。英語は得意じゃないけど、何とか使える。それじゃなきゃパイロットにはなれない。」 「なぜ国外追放なんかになったの?」 「ビザ無しだよ。見つかると厳しい。多分誰かが通報したんだろう。」 「お気の毒に。」 「大きなお世話だ。」 それからは、この二人、毎日顔を合わせることになる。数日後、ホステルのトーストと紅茶の簡単な朝食の時、麗名が尋ねた。 「あんた、なんていう名前?あたしは麗名。」 「吾輩は慎吾。」 「アッハッハ!!!」 周り全員が麗名の方を見る。 「うっ。まずい。それで~、その『吾輩』っていうのおかしいよ。古臭いんじゃない?」 「また大きなお世話だな。『オレ』とか『僕』とか『私』とか、どれも馴染まないだけだ。それだったらと、いっそのこと古典調にしてるだけだ。それより、その『麗名』っていうの、ちょっとおまえには似合わないんじゃないの?それ、もっとおしとやかな人のための名前じゃない?おまえだったら、いっそのこと『じゃじゃ馬』とか似合うよな。」 「この!まぁ、いいか。たしかにじゃじゃ馬かもしれないし。その~、吾輩君。ところで、いつまでここに居るの?」 「わからない。」 「これからどうするつもり?」 「またまた、大きなお世話だな。おまえこそどうするつもりだ?」 実は二人とも答えがなかった。 数日後の朝食の時、また麗名が声をかけた。 「あたし、ちょっと暇を持て余してるんだけど、町の中一緒に歩いてくれない?」 「ほぉ?ストレートだな。デートのお誘いかい。」 「いい気にならないでよ。今、暇だって言ったでしょ。他に日本人も知らないし、短期留学じゃ英語で恋人を作るほどの語学力も身に着かなかったからしょうがないんだよ。それに、自慢じゃないけど、少し方向音痴ですぐに道に迷っちゃってさ。」 「なんだ。口が悪い割には、なかなか素直じゃないか。いいよ、吾輩も暇と言えば暇だし。一緒に行ってやろうか。」 「偉そうな口をきくなぁ、この吾輩君は。まぁ、いいや。吾輩でも猫よりはましだろう。早く行こうよ。」 その日、二人は普通の観光客が行くようなところに行った。実は二人共それまで市内観光などしてはいなかったのだ。ゆっくりと流れるテムズ川を覗きながら、慎吾が話し始めた。 「のどかだな。おまえとデートもまんざらではないかな。」 「それ見たことか。あんたも意外と素直じゃん。」 「そうさ。ずっと一人だったし。」 「へ~、何にもなかったの?」 「何にもと言う訳じゃないが。結論から言えば大したことはなかったな。」 「おかわいそうに。」 「大きなお世話だ。おまえは?」 「あたしは、少しはもてたよ。昔の話だけどね。高校の時はハーモニカ部でつきあってた。最後は振られちゃったけどね。」 「そうか。それは気の毒だな。」 「大きなお世話だよ。人は失恋で強くなる。あんたはパイロットだったていうけど、他に何かしてた?」 「吾輩は手品師であった。」 「また、その吾輩~。でも、ちょっとおもしろいな。その、手品なんて。」 「高校の時のクラブさ。今でも出来るよ。ほら。」 慎吾は麗名のカバンからコインを取り出してみせる。 「へ~。やるじゃない。」 「それだけじゃない。ほら。」 今度は何かカードを取り出した。それを見て麗名はびっくりしたと同時に怒り出した。 … Continue reading 慎吾と麗名の旅奏曲(3):大西洋南下編

慎吾と麗名の旅奏曲(2):東日本編

2019年9月1日(若干修正:2019年11月8日) 蓮 文句 1.修学旅行 高校三年の時、慎吾と麗名は同級生だった。それでも二人は全く話をしたこともなく、慎吾は麗名の存在さえ気に留めていない様子だった。そんなある日、慎吾は親と隣町での買い物の帰り、町はずれのコンビニに寄った。慎吾はハッとした。そこのレジで働いていたのは麗名だった。話をしたこともない同級生が一生懸命働いている。なぜかとてもけなげに、と同時にしっかりして見えた。レジに行くのがなんとなく照れ臭く、何も買わずにそこを出た。それから、慎吾は麗名のことを気に掛け始めた。人並外れておとなしい。授業中もほとんど発言しない。休み時間には他の女子と静かに話していることもあったが、一人で窓の外を見ているようなことも多かった。 クラスでは、一学期の間にすでに東京への修学旅行の計画が持ち上がっていた。自由行動の班を決める時、慎吾は麗名が一人だけ話し合いに加わっていないことに気が付いた。後で噂を聞いたところ、麗名の家庭は旅行費用が払えないため修学旅行には行かないということだった。慎吾の家は飛びぬけて裕福ではないが経済的に困ったこともなかったので、この噂はショックであった。 修学旅行の三日前の夜、慎吾は町の中心部まで出かけ、バーに入った。酎ハイをオーダーして飲んでいるところを巡回とみられる警察官に未成年飲酒で補導された。ことの次第は翌日高校に報告され、慎吾は一週間の停学処分を言い渡された。と同時に、この期間にある修学旅行への参加も禁止された。 級友たちが修学旅行に出かけてしまった朝、慎吾は麗名に電話して湖畔を散歩しないかと誘った。 「石館君、散歩に誘ってくれてありがとう。でも、どうしてお酒なんか飲んでいたの?まさかわざと捕まるようなことをしたんじゃないよね?」 「そんなことないよ。たまたまそういう気分だっただけだよ。ところで、同じクラスに居るのに、鹿野内さんとはまだ一回も話したことなかったよね。」 「そうね、私無口だから。石館君はサッカー部で随分活躍していたの知ってたけど。」 「あ~引退するまではね。今は時間が出来た。みんな受験勉強に躍起だけど、僕はなんだか気が抜けたような感じだ。」 「石館君は優秀だからもう大学のこととかしっかり考えているんでしょ?」 「いや、全然。正直言って気が進まない。何を勉強したいとか、何かになりたいというものがまだないんだ。そんな状態で大学に行ってしまっていいのかなと思っている。それより、困ったことに、両親の方が真剣なんだ。」 「そうなの。知らなかった。」 二人は暫く何も話さなかった。突然慎吾が立ち止まり、湖に小石を投げた。その波紋だけが観光シーズンの終った湖面に広がっていった。 「鹿野内さん、気に障ったらごめん。実は、前に街はずれのコンビニに寄った時、レジで働いているのを見たんだけど。」 「そうなの。毎日働いているの。」 「えっ、毎日?大変だね。土日も?」 「そうなの。うち、貧しいから。」 「そんな。詮索するつもりじゃなかったんだけど。」 「いいの。わかっているわ。これは事実だからしかたがないの。修学旅行に行けなかったのもそのせい。それは知っているでしょ?」 「うん。噂で聞いた。で~、鹿野内さんが働いているところを見て、大人と一緒に働いているところを見て、なんだかすごく立派だなって思ったんだ。」 「ただ、お金のためにしていることなのに。私は年取った父と二人暮らしで、父は警備員の仕事。父の前の事業からの借金もあるので、なかなかまともな生活が出来ないの。」 「そうだったのか。大変だなぁ。ねぇ、ポテトチップス持ってきたけど食べる?」 「ありがとう。」 二人は近くのベンチに腰を掛けた。二人はじっと静かな湖面を見つめている。何をするというわけではないが、二人ともそれなりに落ち着いた時間を過ごしているようだった。 午後になって、麗名が言った。 「石館君、この後、またバイトがあるので行かないと。近くのバス停から行くの。今日誘ってくれてありがとう。みんな修学旅行に行ってしまって寂しかった。」 「来てくれてよかった。バス停まで送って行くよ。」 「ありがとう。」 慎吾は麗名がバスに乗る直前に尋ねた。 「鹿野内さん、明日も会ってくれる?」 「えぇ。」 「じゃ、また同じ時間に同じ所で。」 麗名はうなずいた。慎吾は麗名のバスが来るまで待ち、見送った。 次の日、慎吾は少し時間に遅れてきた。 「ごめん。出際にちょっと両親と言い争いがあって。停学になって怒っているんだ。そして毎日ぶらぶらしているとか。大学受験にも差し支えるとか。もう嫌気がさす。」 「ごめんなさい。私に会ってくれるためにそんなこと言われて。それに、どうしても石館君はわざと修学旅行に行かないようにしたと思えて。」 「そんなことないよ。それに、もう修学旅行のことは忘れよう。それより、こうして鹿野内さんと会っていると気が休まる。うちの家族にはない暖かさがある。今日も会えて嬉しいんだ。」 「それだったらいいんだけど。もし昨日石館君が誘ってくれなかったら、私、多分家でずっと泣いていたと思う。私、何の取柄もないのに誘ってくれて、ありがとう。」 「来てくれて、嬉しいよ。」 二人は暫く黙って湖畔を歩いた。今日は少し風が出ている。昼に差し掛かったころ、麗名がバッグから何やら取り出した。 「石館君、よかったら、お昼食べない?おにぎり作ってきたの。」 「ほんと?お腹空いていたんだ。おにぎりいいな。昨日はポテトチップスだけでごめん。」 「当たり前の鮭のおにぎりだけど、いい?」 「鮭、大好きだよ。」 「父の夜食にいつも鮭のおにぎりを用意するの。うちではご馳走なの。父はほとんど毎日夜働いているでしょ。いつも入れ違いで寂しいことが多いの。それに、私の母は私が中学の時に病気で死んでしまったし。」 「そうだったんだ。」 おにぎりを食べ終わると二人はまた歩きだした。また少し風が強くなっている。 「この分だと明日は雨かな。今日のうちにちょっとボートでも乗ろうか。」 「えっ?ボート?」 「うん。そこにあるじゃない。もう観光客もいないし、僕らが少し乗ったって構わないよ。」 麗名はためらっている。それでも、慎吾はさっさとボートの所へ行き、湖岸まで引っ張っていった。 「鹿野内さん、おいでよ。」 麗名は依然ためらっていたが、やっとボートに飛び乗った。慎吾はボートを押しながら、自分も飛び乗った。しばらく慎吾がオールを操り湖上を巡った。誰もいない少しうす暗くなってきた湖面で二人だけ、ボートに乗っている。少し波立つ湖面をすうっと、だが当てもなくさ迷っている。しまいに、慎吾が勢いよく湖岸にこぎ着け、自分が飛び降りた。ボートをさらに引っ張ると麗名の手を取ってボートから降ろした。この時、慎吾は初めて麗名の手に触れた。暖かかった。 … Continue reading 慎吾と麗名の旅奏曲(2):東日本編

慎吾と麗名の旅奏曲(1):環太平洋編

2019年8月1日(若干修正:2019年9月1日) 蓮 文句 これは、先に発表された第一話「もう先生と呼ばないで」と第二話「きみの意識が戻るまで」の後続九話を含めた全11話です。第一話と第二話は個別に発表されたものと若干異なっている箇所があります。 1.もう先生と呼ばないで 慎吾は高校三年になって初めての英語のクラスに行くところだった。今までの教師が退職したので、新任の若い女の先生が来るということを聞いていた。いずれにしても慎吾は英語の授業をずっと嫌ってきたので、大した違いは無いだろうと思っていた。麗名は大学を卒業してすぐに慎吾の高校へ赴任してきた。三週間の教育実習の他は教壇に立ったことはなく、相当に緊張していたことに間違いはない。教師として最初のクラスは尚更のことだ。 慎吾が教室に着くと麗名はもう教室の前に居た。彼は麗名を見たその瞬間にもう完全に参ってしまった。彼は今まで何人か同級生と付き合った事はあるが、深い仲になったことはない。そして、たった今のようにどうしようもない感覚を覚えたこともなかった。そんな状況で慎吾が授業内容に注意を向けられたわけがない。途中麗名が一人ずつに教材を配ったとき、慎吾は麗名の手が少し震えているような気がした。新任の教師だからやっぱり緊張しているのかなと思った。それより、慎吾は自分の興奮状態を収めることに精一杯だった。 それから数週間が過ぎた。慎吾の麗名への想いはとどまる所を知らず、英語だけでなく全ての授業中、いや一日中そのことばかり考えていた。英語の授業はむしろ苦痛にさえなってきた。この憧れの人が級友皆に平等に英語を教えているからだ。もうたまらない。ある日の放課後、慎吾はこっそりと麗名のあとをつけた。同じ電車に乗り、同じ駅で降り、少し離れてついて行った。慎吾の心臓はもう破裂寸前だった。 麗名が自分のアパートのドアを開けようとした時、「先生。」という小さな声がした。振り返ると、そこには慎吾が立っていた。その時の麗名の驚き様はただものではなかった。「あっ」と叫んでいる様な顔をしているが声は出ていない。慎吾を凝視したまま凍結してしまったようだ。しばらくしてやっと麗名が口を開けた。 「あの、城ヶ崎君、どうしてここに。」 それは、半分は教師が生徒をたしなめるような口調であったが、後の半分は旅先で旧友にあったときのような親しみがあった。慎吾はきまりが悪そうに返答した。 「すいません。悪いとは思いながらついてきたんです。先生、すいません。どうしようもなかったんです。」 麗名はすぐには返答できなかった。そして思い切るように言った。 「城ヶ崎君、それはどういうことですか。」 麗名の顔は少し赤らいでいる。慎吾はもうすべて言うしかないと思っていた。 「先生。先生を一目見た時からもう頭が一杯で。授業中も苦しいくらいで。もう、直接会って話をしないと耐えられないと思ったんです。」 麗名は返答に困っているようだった。顔は更に赤くなってきた。しばらく経って、やや落ち着いてきたかと思われるとポツリと言った。 「城ヶ崎君、とにかく中に入って。こんなところを他の人に見られてしまっては。」 麗名は鍵を開けると慎吾を中に通した。アパートの中はガランとした感じで、隅には幾つか段ボール箱が積んであった。麗名は慎吾を小さな椅子に座らせると台所の流しの方を向いてしまった。そして、麗名の次の言葉は慎吾には少し意外だった。 「城ヶ崎君、コーヒー飲む?」 慎吾はもう信じられなかった。あの安城先生のアパートに二人だけでいる。 「二人だけ。先生、夢のようです。本当にどうして良いか分からなかったんです。」 麗名の方はうつむいてコーヒーの用意をしている。慎吾には麗名の表情どころか顔さえ見えなかった。次に麗名は独り言のように言った。 「こんな状態が学校に知れたら、わたしすぐクビにされてしまう。どうしよう。」 麗名が心配しているのを悟った慎吾はすかさず返事した。 「先生、オレ、絶対、誰にも何にも言わないから。心配しないで。」 麗名はそれには反応しなかった。まだコーヒーの方を向いている。少し身体が震えているようでもある。 「先生、すいません。悪い事だとは分かっていたし、先生を困らせようというつもりは全然なかったんだ。」 「城ヶ崎君。分かっているわ。わたし、今言った通り自分の仕事の事が心配なのは本当なんです。でも、実はもっと切迫していることがあって。」 慎吾にはその意味は全くわからなかった。 「もっと切迫していることって?」 麗名はまだコーヒーの方を向いている。 「城ヶ崎くん、コーヒーができたわ。」 そう言って、コーヒーカップを2つテーブルの上に置いた。麗名の顔を見た慎吾は驚いた。麗名の目からは涙が流れたあとがある。それなのに全然悲しそうではない。慎吾の身体は完全に興奮していた。 「わたし、どうしていいかわからないの。」 そう言ってコーヒーカップ一つを慎吾の方へ押した時、麗名の手が震え、カップが傾き、コーヒーがこぼれてしまった。慎吾は手を出してそれを抑えようとしたが間に合わなかった。 「ごめんなさい。」 「すいません。」 麗名と慎吾が同時にそう言った時に二人の手が触れ、次の瞬間には唇も触れた。麗名はちょっと後ずさりすると、完全に動揺した様子で、 「わたし、どうしよう。わたし、どうしよう。」 と繰り返している。 慎吾が話し始めた。 「先生、すいません。でも、オレ、もうどうしょうもないんだ。なんと言っていいかわからない。」 麗名はまだ動揺した様子で、「どうしよう。」といっている。顔は相変わらず赤く、興奮しているのは明らかだ。しばらくして麗名が観念したという様子で話し始めた。 「城ヶ崎くん、実は、わたし。実は、わたし、初めて会ったときからあなたのことを。あなたのことを考えていたんです。あなたが気がついたかどうかわからないけど、あなたに教材を渡す時になんだかいたずらに手が震えて。丁度さっきコーヒをこぼしてしまったときのように。それで、それから毎日・毎日が苦しくって。どうかして、あなたとお話出来ないかと考えていた。今日城ヶ崎君が急に現れた時、わたしはもう気絶同然でした。嬉しかったの。いや、それ以上。今、やっと二人だけに。」 そう言うと麗名はうつむいてしまった。 慎吾は信じられなかった。あの安城先生が自分のことをそんなに思っていてくれたなんて。あの安城先生が。もう世の中の他のことはどうでもよかった。すると麗名が突然立ち上がって言った。 「わたし、もう熱くなってしまって。ちょっと待っててね。」 と言うや他の部屋に行ってしまった。しばらくカサカサ、コトコトとした音がしていたが、直に戻ってくると、言った。 「こっちに来て。」 麗名が興奮している慎吾の手をとって通したのは彼女の寝室だった。慎吾はちょっと驚いた。そこは片付けたと思われる後にしては、かなり散らかっていたからだ。傍観者だったら引っ越して来て間もないからだと思うだろう。ただ、慎吾にはそんなことも麗名の「ごめんなさい。こんなところで。」という言葉も気にならなかった。そこがどんなところであろうがどんな状態であろうが、そんなことはこの二人にはもう関係のないことだった。 どのくらい経っであろう、麗名が仕方がないという感じで口を開いた。 「城ヶ崎君、もう遅いわ。帰らないと。お家の人が心配しているんじゃない?」 「先生、オレ、もうずうっとここにいたい。いや、今日のこの一日だけでももう死んでもいいくらいだ。」 すると、麗名がちょっとたしなめるように言った。 「そんな。変なこと言わないで。わたしのそばにいて。それから、城ヶ崎君、わたし達もう男と女の関係になってしまったのだから、わたしのこと『先生』って言うの辞めてください。」 … Continue reading 慎吾と麗名の旅奏曲(1):環太平洋編

きみの意識が戻るまで

2019年7月24日(若干修正:2019年8月20日) 蓮 文句 以前、高校三年生の慎吾と新任英語教師、麗名の出会いの話を「もう先生と呼ばないで」という題で紹介したことがあります。その後、また新しい情報が入りました。連絡を頂いた匿名希望の警察官、看護師、無職の男性、占い師、旅行会社社員、その他若干名の皆様に感謝します。ここではその内容を当人の把握した範囲でまとめてあります。 その日の放課後、慎吾は自宅に帰るとすぐに両親に話をした。麗名とは最初のクラスで出会ったときから一目惚れだったこと、昨日麗名のアパートで一夜を過ごしたこと、そして、これから二人で生活したいこと。麗名のアパートに泊まる前、慎吾は誰とは言わずに両親に電話で承諾を得ているので、両親はことの成り行きは察していた。そして、この型破りな両親は慎吾を十分信頼していたため慎吾の希望は喜んで受け入れてくれた。 慎吾は急いでボストンバッグに着替えと教科書を積めて麗名のアパートへ向かった。麗名との新しい生活が目に浮かび、慎吾の心は喜びに満ちていた。ところが、アパートに着いてベルを鳴らしたのだが返事が無い。変だなと思ったが、多分まだ買い物でもしているのだろうと思い、そのまま待っていた。10分経ち、20分経ち、1時間も過ぎた頃には、慎吾は不安になってきた。どうしたんだろうかと。 1時間と39分が過ぎた時重々しい足音とともに現れたのは、麗名ではなく、一人の警察官だった。慎吾はとてつもない不安に包まれた。警察官は慎吾を見ると言った。 「しんごさんですか?」 慎吾は無言だった。 「実は、言いづらいのですが、安城麗名さんは交通事故に遭って病院にいます。」 慎吾は目前が真っ暗になった。彼の初めての真剣な恋人。まだ一晩しか一緒に過ごしたことがない人。 慎吾はやっとの思いで口を開いた。 「どうしたんですか?!」 「麗名さんは、自転車との接触事故で転倒し、出血多量で意識不明です。目撃者の話では、『しんごさん』、『アパート』とふた言だけ言い残して意識を失ってしまってしまったようです。そのため、私がそのしんごさんを探すべくここに来たのです。一緒に来たください。」 慎吾が病院に駆けつけた時、麗名は救急病室に横たわっていた。間違いなく、あの麗名。慎吾が昨夜を共にしたあの人。苦しんでいる様子はない。ごく僅かに微笑んでいるかのようでもあり、あまりに落ち着いている。そばには麗名の両親と思われる人がいた。 「すいません。麗名さんに、麗名さんに、話しかけてもいいですか?」 慎吾は全力を振り絞って言った。 「失礼ですがあなたは?」 その両親らしき二人は慎吾に聞いた。慎吾はなんと答えていいかわからなかった。 「あのぉ、あのぉ、麗名さんを慕っている者です。いいえ、麗名さんの恋人です。麗名さんの新しい恋人です。城ヶ崎慎吾といいます。」 その両親らしき二人は顔を見合わせた。 「そうですか。私達は詳しいことは知らないのですが、事故の少し前に麗名から電話を受け、恋人が出来たと聞きました。とても嬉しそうでした。あなたがその人ですね。」 慎吾は涙をこらえられなかった。ただ、ただ、泣きながらうなずいた。父らしい人の話によると、麗名は出血多量で意識不明。脊椎損傷の可能性あり。生存の可能性は五分五分。一命をとりとめた場合、生涯車椅子生活の可能性大。慎吾は麗名の手を握って泣いた。麗名の手にはまったく力が無かった。どうして?どうして?運命はあまりに過酷すぎる。 しばらく経ってから、慎吾はその両親らしき二人に聞いた。 「動揺していたので失礼しました。麗名さんのご両親ですか?」 二人はうなずいた。 「麗名さんがこんなことになってしまって。あまりにひどすぎる。」 今度は、麗名の母が言葉を発した。 「慎吾さん、麗名は気を失う前にあなたの名前を言いました。最後の力を振り絞ってまで言いたかったのはあなたの名前です。私にはわかります。あなたが彼女にとって最も大切な人になっていたのです。」 この言葉は慎吾にとって救いでもあり、攻めているようでもあった。 「すいません。麗名さんを事故から守れなくって。」 慎吾のこの言葉には麗名の父が答えた。 「慎吾さん、自分を攻めてはいけません。これは誰の責任でもありません。」 「麗名さんのお父さん、お母さん、今晩ここに泊まってもいいですか?」 二人はまた顔を見合わせた。そして、二人共うなずいた。 慎吾は何もせずに麗名のベッドの横に座っていた。両親は病室から出たり入ったりしていたが、やがて病室の外で待機すると言って出ていった。病室には慎吾と麗名二人だけが残された。二人だけの二晩目の夜。前夜とのあまりの違いに慎吾は愕然としていた。食べる気力も、飲む気力も無かった。ただ、ひたすらに待った。麗名の意識が戻るのを待った。 長い一夜が開けても地下の緊急病室に朝日はやってこなかった。次の日、麗名は幾つか検査を受けるために病室から連れ去られた。無い力を振り絞り、慎吾は母親に電話し高校に連絡してくれるように頼んだ。慎吾はもう学校に行く気力も意志も全くなかった。母はとりあえず休学の手続きを取ってくれると言った。麗名の両親も高校に連絡して麗名の状況を伝えていた。この日から急に麗名と慎吾の両者が休みになっていろいろな噂もされることだろう。しかし、そんなことは慎吾にはどうでもよかった。 検査の後、麗名は一般病室に移された。やはり、脊椎損傷があるとのことだった。慎吾はそういった障害のことはまったく知らず、不安は更に深まった。どのような状態でもいい、一刻も早く麗名の意識が戻ってほしい。慎吾は思った。そして、麗名のもとからほとんど離れなかった。 麗名の両親は交代で家に帰っているようだった。学校には状況が状況なので見舞は控えて欲しいと伝えたらしい。学校からは誰も来なかった。時折、麗名の親類と思われる人たちが来た。そのような時は、慎吾は病室から出て、少し屋外に出たりしてみた。外の光は必要以上に眩しく、痛いくらいだった。辛かった。 麗名の事故から数日経った。どうやら麗名は危篤状態からは抜け出したらしい。ただし、意識回復の様子はまったく見られない。麗名の両親は慎吾のことも心配しだし、休みを取るように頼んだ。確かに、慎吾の体力も確実に衰えてきていた。 その頃、慎吾が気がついたことがある。毎日決まって夕刻に一人の男性が現れる。慎吾がいつも部屋の中に居るためか、その男性はドアの外から異常に丁寧にお辞儀をして立ち去っていく。気になって、ある日慎吾はその男性に声をかけてみた。 「あのぉ、どうしましたか。」 その男性はすぐには返答しなかった。何故か異常にためらっている。慎吾は少し不審に思った。しばらくの沈黙の後、その男性は弱々しい声で答えた。 「実は、私がその自転車に乗っていたんです。」 慎吾はすぐには理解できなかったが、やがてその男性の自転車が麗名に衝突したのだということに気がついた。慎吾はそれ以上の状況を知らなかったのでなんとも言いようがなかった。その男性は続けた。 「あの時、後ろに乗っていた子供が急に泣き出したために、私の注意がそれてしまったのです。当然それは言い訳にはなりません。この人を意識不明の状態に陥れてしまったことに弁明の余地はありません。私はもう生きた心地がしないのですが、子供のことを考えると今死を選ぶわけにもいきません。私が慌てて、倒れているこの人のところに駆け寄った時、この人は言ったのです。『しんごさん』そして『アパート』と。あなたがしんごさんですね。私はあなたに声をかけることも出来ずにいつもドアの外でお詫びをして、いや、しようとして、そして立ち去ることしか出来なかったのです。もちろんそれが無意味なことはよくわかります。私自信、私の妻を数年前交通事故で亡くしているものですし。」 その話の間、慎吾の気持ちは一瞬麗名からこの男性に移った。たとえ事故の加害者とはいえ、とても気の毒な気がした。責める気にはなれなかった。慎吾は一言、 「そうだったんですか。」 と言っただけだった。その男性はその後も毎日麗名の部屋のドアのところまで来た。慎吾も毎回その男性に頭を下げた。 事故から一週間と少し経ったろうか、夜中、もう早朝と言ったほうがいいかもしれない頃、慎吾の耐えきれない気持ちは相当高くなっていた。麗名の意識が戻らなかったら自分は生きていけるだろうか。慎吾は真剣にそう考え始めていたのだ。と同時に、疲労も激しく、体力の限界にも達してきていた。飲み物を買いに病院の1階ロビーに行った時に目にとまったのは「命の電話」のポスターだった。涙ぐんだ目をこすりながら、その番号を携帯に入力して呼び出しボタンを押した。 ずいぶん長い間呼び出し音がしてから眠そうな声で返答があった。 「もしもし。」 「助けてください。もう限界に来ているんです。」 「はぁ。」 「このままだったら、もう生きていけるかどうかわからないんです。」 「あのぉ。」 … Continue reading きみの意識が戻るまで

もう先生と呼ばないで

2019年7月24日(若干修正:2019年8月16日) 蓮 文句 慎吾は高校三年になって初めての英語のクラスに行くところだった。今までの教師が退職したので、新任の若い女の先生が来るということを聞いていた。いずれにしても慎吾は英語の授業をずっと嫌ってきたので、大した違いは無いだろうと思っていた。麗名は大学を卒業してすぐに慎吾の高校へ赴任してきた。三週間の教育実習の他は教壇に立ったことはなく、相当に緊張していたことに間違いはない。教師として最初のクラスは尚更のことだ。 慎吾が教室に着くと麗名はもう教室の前に居た。彼は麗名を見たその瞬間にもう完全に参ってしまった。彼は今まで何人か同級生と付き合った事はあるが、深い仲になったことはない。そして、たった今のようにどうしようもない感覚を覚えたこともなかった。そんな状況で慎吾が授業内容に注意を向けられたわけがない。途中麗名が一人ずつに教材を配ったとき、慎吾は麗名の手が少し震えているような気がした。新任の教師だからやっぱり緊張しているのかなと思った。それより、慎吾は自分の興奮状態を収めることに精一杯だった。 それから数週間が過ぎた。慎吾の麗名への想いはとどまる所を知らず、英語だけでなく全ての授業中、いや一日中そのことばかり考えていた。英語の授業はむしろ苦痛にさえなってきた。この憧れの人が級友皆に平等に英語を教えているからだ。もうたまらない。ある日の放課後、慎吾はこっそりと麗名のあとをつけた。同じ電車に乗り、同じ駅で降り、少し離れてついて行った。慎吾の心臓はもう破裂寸前だった。 麗名が自分のアパートのドアを開けようとした時、「先生。」という小さな声がした。振り返ると、そこには慎吾が立っていた。その時の麗名の驚き様はただものではなかった。「あっ」と叫んでいる様な顔をしているが声は出ていない。慎吾を凝視したまま凍結してしまったようだ。しばらくしてやっと麗名が口を開けた。 「あの、城ヶ崎君、どうしてここに。」 それは、半分は教師が生徒をたしなめるような口調であったが、後の半分は旅先で旧友にあったときのような親しみがあった。慎吾はきまりが悪そうに返答した。 「すいません。悪いとは思いながらついてきたんです。先生、すいません。どうしようもなかったんです。」 麗名はすぐには返答できなかった。そして思い切るように言った。 「城ヶ崎君、それはどういうことですか。」 麗名の顔は少し赤らいでいる。慎吾はもうすべて言うしかないと思っていた。 「先生。先生を一目見た時からもう頭が一杯で。授業中も苦しいくらいで。もう、直接会って話をしないと耐えられないと思ったんです。」 麗名は返答に困っているようだった。顔は更に赤くなってきた。しばらく経って、やや落ち着いてきたかと思われるとポツリと言った。 「城ヶ崎君、とにかく中に入って。こんなところを他の人に見られてしまっては。」 麗名は鍵を開けると慎吾を中に通した。アパートの中はガランとした感じで、隅には幾つか段ボール箱が積んであった。麗名は慎吾を小さな椅子に座らせると台所の流しの方を向いてしまった。そして、麗名の次の言葉は慎吾には少し意外だった。 「城ヶ崎君、コーヒー飲む?」 慎吾はもう信じられなかった。あの安城先生のアパートに二人だけでいる。 「二人だけ。先生、夢のようです。本当にどうして良いか分からなかったんです。」 麗名の方はうつむいてコーヒーの用意をしている。慎吾には麗名の表情どころか顔さえ見えなかった。次に麗名は独り言のように言った。 「こんな状態が学校に知れたら、わたしすぐクビにされてしまう。どうしよう。」 麗名が心配しているのを悟った慎吾はすかさず返事した。 「先生、オレ、絶対、誰にも何にも言わないから。心配しないで。」 麗名はそれには反応しなかった。まだコーヒーの方を向いている。少し身体が震えているようでもある。 「先生、すいません。悪い事だとは分かっていたし、先生を困らせようというつもりは全然なかったんだ。」 「城ヶ崎君。分かっているわ。わたし、今言った通り自分の仕事の事が心配なのは本当なんです。でも、実はもっと切迫していることがあって。」 慎吾にはその意味は全くわからなかった。 「もっと切迫していることって?」 麗名はまだコーヒーの方を向いている。 「城ヶ崎くん、コーヒーができたわ。」 そう言って、コーヒーカップを2つテーブルの上に置いた。麗名の顔を見た慎吾は驚いた。麗名の目からは涙が流れたあとがある。それなのに全然悲しそうではない。慎吾の身体は完全に興奮していた。 「わたし、どうしていいかわからないの。」 そう言ってコーヒーカップ一つを慎吾の方へ押した時、麗名の手が震え、カップが傾き、コーヒーがこぼれてしまった。慎吾は手を出してそれを抑えようとしたが間に合わなかった。 「ごめんなさい。」 「すいません。」 麗名と慎吾が同時にそう言った時に二人の手が触れ、次の瞬間には唇も触れた。麗名はちょっと後ずさりすると、完全に動揺した様子で、 「わたし、どうしよう。わたし、どうしよう。」 と繰り返している。 慎吾が話し始めた。 「先生、すいません。でも、オレ、もうどうしょうもないんだ。なんと言っていいかわからない。」 麗名はまだ動揺した様子で、「どうしよう。」といっている。顔は相変わらず赤く、興奮しているのは明らかだ。しばらくして麗名が観念したという様子で話し始めた。 「城ヶ崎くん、実は、わたし。実は、わたし、初めて会ったときからあなたのことを。あなたのことを考えていたんです。あなたが気がついたかどうかわからないけど、あなたに教材を渡す時になんだかいたずらに手が震えて。丁度さっきコーヒをこぼしてしまったときのように。それで、それから毎日・毎日が苦しくって。どうかして、あなたとお話出来ないかと考えていた。今日城ヶ崎君が急に現れた時、わたしはもう気絶同然でした。嬉しかったの。いや、それ以上。今、やっと二人だけに。」 そう言うと麗名はうつむいてしまった。 慎吾は信じられなかった。あの安城先生が自分のことをそんなに思っていてくれたなんて。あの安城先生が。もう世の中の他のことはどうでもよかった。すると麗名が突然立ち上がって言った。 「わたし、もう熱くなってしまって。ちょっと待っててね。」 と言うや他の部屋に行ってしまった。しばらくカサカサ、コトコトとした音がしていたが、直に戻ってくると、言った。 「こっちに来て。」 麗名が興奮している慎吾の手をとって通したのは彼女の寝室だった。慎吾はちょっと驚いた。そこは片付けたと思われる後にしては、かなり散らかっていたからだ。傍観者だったら引っ越して来て間もないからだと思うだろう。ただ、慎吾にはそんなことも麗名の「ごめんなさい。こんなところで。」という言葉も気にならなかった。そこがどんなところであろうがどんな状態であろうが、そんなことはこの二人にはもう関係のないことだった。 どのくらい経っであろう、麗名が仕方がないという感じで口を開いた。 「城ヶ崎君、もう遅いわ。帰らないと。お家の人が心配しているんじゃない?」 「先生、オレ、もうずうっとここにいたい。いや、今日のこの一日だけでももう死んでもいいくらいだ。」 すると、麗名がちょっとたしなめるように言った。 「そんな。変なこと言わないで。わたしのそばにいて。それから、城ヶ崎君、わたし達もう男と女の関係になってしまったのだから、わたしのこと『先生』って言うの辞めてください。」 慎吾はちょっと困惑したようだったが、すかさず対抗した。 「先生も、オレのこと『城ヶ崎君』って言うのおかしいな。」 … Continue reading もう先生と呼ばないで