慎吾と麗名の旅奏曲(4):完結編

2020年4月4日 蓮 文句 第一話 旅籠屋 時は江戸時代の末期、所は今で言う山陰地方。当然、町人の旅は徒歩、旅人の宿泊は旅籠屋と決まっていた。 当時十六才のおれいは出雲のある豪商の住み込みの女中見習いとして奉公していた。主な仕事はここの奥さんの身の回りの世話である。さて、この奥さんは嫁いでもう何年か経つが子宝に恵まれずにいた。そこで、夫君はこの奥さんを有馬温泉の湯泉神社に祈願と同時に湯治場での治療に送ることにした。おれいはそのお供を言いつかった。二人は、出雲を出て、松江、米子から山間部に入り、津山を通って、姫路、明石と経由して、有馬温泉に到着した。旅慣れない女二人の旅、途中山道もあり、片道二週間程を要した。 有馬温泉では、宿を取るとすぐに湯泉神社に祈願した。これは二週間の滞在中毎日欠かさず行った。湯治場での表向きの療法は温泉につかる以外特にすることはなく、二人は毎日長いこと湯につかっていた。尚、物の本によれば、当時、温泉は混浴が普通で、女性の入浴時の世話も男性の三助がしていたということである。そして、実際の「治療」はと言えば、毎晩二人の部屋には二人の男が現れた。子宝が必要なのは奥さんだけであったが、この奥さんは自分だけに男があるのは極まりが悪いと思って計らったことであった。おれいは奉公中忙しく働かされていただけなので、生まれて初めての旅で、生まれて初めての経験をして、戸惑いが隠せなかった。さて、予定の二週間が終わり、二人は帰路についた。実は、この旅には、夫君に言い使った商用もあった。姫路の取引先で、小さいが比較的高価な品物を預かり、それを鳥取の取引先に届けるというものである。そこで、姫路からは、因幡街道の智頭往来ルートを通って、鳥取に抜け、その後は山陰道を出雲まで戻る予定だった。途中、智頭街道の志戸坂峠を越えた時は、二人ともたいそう疲れたため、やっとのことで鳥取側の最初の宿場に辿り着いた。そこには一軒だけ古びた兼業の旅籠屋があった。 やはり当時十六才の慎は、富山の薬売りの息子で、修行のため、現在の中国地方を担当する父のお供として、各地を回っていた。この父の薬物の中で一番の人気商品は子宝に効くという秘薬で、商いは順調であり、それなりの富を蓄えていた。この父は、大きな町に泊るときは決まって夜中に出かけて行って遅くまで帰ってこない。慎はいつも好奇心に満ち溢れていたが、父は慎には何も言わなかった。また、この父は子宝に関する相談を受け持つことも多く、時には子宝に恵まれない細君を個別に診察して差し上げるなどということもしていた。そのような時は、慎は幾ばくかの金をもらい、外でいついつまで過ごすようにと言われる。それで、慎は街に出てはうまそうな物を食らい、うまそうな酒を飲んだりすることもあった。 道中、この父子は山陰道から備前方面へ向かうに際し、鳥取で宿を取った。これから山々を超えて行くため、父はここでひと遊びしておかねばと思った。また、この日も個別診察を承り、慎を外にやった。仕方なく、街で一人で飲み食いをしていると、派手なかっこをした女が近寄ってきて一緒に飲み食いしてよいかと尋ねる。二人は、なんだかんだと差し障りのない話をしていたが、急にその女が、女を抱いたことがあるかと聞く。慎は正直に答えると、自分を抱かしてくれるという。そして、幾ら払うかというのだ。慎は父に貰った金のほとんどは飲み食いに使ってしまったので、懐には大した額は残っていなかった。それを見せると、その女は少しがっかりしていたようだが、ないよりはましかといいその金銭をすべて取り上げた。そして、ついて来いという。その時が、慎の初めての経験であった。翌日からは、商いをしながら、智頭街道を南下し、数日後には峠の一番手前の宿場まで行き着いた。そこには一軒だけ古びた兼業の旅籠屋があった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ その旅籠屋は部落の中心を流れる小さな川を渡ったすぐ反対側にあった。部落には他に店もなく、娯楽もなかった。慎の父は旅籠屋の食事を出すところで宿泊客に薬を売り込んでいる。そして、この同じ日に宿泊中の例の奥さんが湯泉神社に祈願してきたということを聞きつけ、個別診察を勧めている。夕飯の後、慎の父はこの奥さんを自分の部屋に呼び込んだ。奥さんは疲れていたが、断るのも億劫という感じでついて行った。そして、父は慎にいつものように外で時間を潰すように言った。ただ、この時は、慎に小遣いを与えなかった。おそらく父はこの部落には金を使うようなところがないことを知っていたからだろう。慎はもう食事も終わっていたし、この部落には時間を潰すようなところもないと悟っていた。その時、慎の脳裏に閃いたことがある。「そうだ、あの奥さんには若い女子がお供しとった。あの女子に声をかけてみよう。」慎はコッソリとその部屋を探した。この旅籠屋にはそんなに多くの部屋がなかったので、割と容易にその部屋を見つけることが出来た。慎はそっと声をかける。 「あの、奥様にお供の女子さんでしょうけ?」 何も返答がない。 「もう一度お尋ねする。奥様にお供の女子さんでしょうけ?」 暫くして、細々とした返事があった。 「何の御用だらーか。」 慎はとっさに嘘をついた。 「奥様のお使いで来た。」 また、沈黙が続いた。 「何のお使いだらーか?」 「薬を持ってきた。」 「何の薬だらーか?」 「奥様の薬や。部屋に持ってくるように言われた。」 すると、スーッと障子が開き、おれいが出てきた。慎は「間違いのうあの女子や」と、にんまりした。そして、どうしても外に連れ出したいという考えが浮かんだ。 「薬をごしなぃ。部屋に置えちょく。」 「これや。」 流石に薬売りの子供だけあって、慎はいつも懐に風邪薬の一つや二つは持っている。それを渡して言った。 「んで、奥様ちゃ時間がかかりそうや。外を散歩でもせんか?」 おれいはこれには返事をしない。少し、怪しんでいるようでもある。 「失礼した。わしちゃ薬売りの息子や。わしの名ちゃ慎や。ここに泊っとる。ほんの宿の前のところでいいんや。富山の菓子もあるちゃ。」 菓子と聞いて、おれいは興味を示したと見える。部屋の外に出てきた。 「ちょっこしそこまでだけや。」 慎が先に廊下を進んで、旅籠屋の玄関を出る。おれいも宿の草履を突っかけてついてきた。 「綺麗な月が見えるちゃ。ほれ、見てごらん。」 おれいは何も言わずに月を見あげた。おれいは自分の生家から奉公に出て二年ほどになる。寂しくなると、月を見上げて過ごしてきた。まだ生家が懐かしいのだ。おれいはボソッと呟く。 「月を見ーとお父やお母を思い出す。」 「そうやけ。離れて長いがけ?」 「はえ。2年程になー。」 「そうやけ。自分の家が一番やちゃ。菓子を食べっしゃい。なんて名前やけ?」 「おれい、とえう。」 おれいは慎の差し出した菓子を食べ始めた。気に入ったようで、むしゃむしゃとすべて食べた。 「好きか?良かったちゃ。少しその辺を歩いてみますけ?」 慎はそう言うと少しずつ歩き始めた。おれいは少し後をゆっくりと付いてきた。旅籠屋の前の橋を渡り、部落の通りに出た。やはり店はない。提灯が一つ二つとあるきりだ。慎は少し歩き方をゆっくりにしておれいと並ぶ。二人は、各々のことを少しずつ話した。おれいはあまり気にせずに、奥さんの子宝の祈願のため有馬温泉に行ったということを漏らしてしまった。そして、そこでの夜のことを思い起こし、顔を赤くした。だが、夜道故、慎には見えなかった。それでも、慎は慎で子宝の祈願のことが気になっていた。慎の父は当時で言えばその道の専門家である。 「わしのお父ちゃ子宝に効く薬を売っとるがや。奥様ちゃそれでお父と話しとるんがや。奥様ちゃ湯治場で何をしとったがやけ?」 「湯に入ったり、男を呼んだりしちょった。」 「おれいさん、それ、見たんか?」 それに対しては、おれいは何も答えなかった。 丁度その頃、二人は数えるほどの軒並みしかない部落の中心部を過ぎた。そこには小さな神社があったので、そこに入り、木の切り株に腰を降ろした。おれいは有馬温泉の夜のことが頭に浮かび、少なからず体が熱くなっていた。慎もまた、数日前の初体験が蘇り、興奮を抑えられずにいた。いつの間にか、二人は何も言わずに近くの草むらに寝転んで抱き合っていた。 現代人の皆様はこのような経緯をいきずりでふしだらな行為と言って批判するかもしれない。しかし、これは車も、テレビも、携帯どころか有線の電話さえない時代の話である。十六才で学校にも行かずに大人の世界に入りつつある慎とおれいには、どれだけ同い年の異性と遭遇する機会があろうか?自分の好みの相手を探し求めるような時間と自由があろうか?慎とおれいの出会いは、慎の強い動機とちょっとした機転が切っ掛けで実現した稀な出来事であった。若い二人には非常に限られたロマンスのひと時だったのである。という訳で、この話は、たとえ同じ国のことと言えども、時代の隔たりを考えれば、異国の文化と同様に捉えた方が良いかもしれない。 さて、まだ二人の気持ちが高揚している時に、突然、バチバチと言うような大きな音が聞こえ始めた。これには、事の最中とは言え、流石に驚かざるを得なかった。同時に、あの古びた旅籠屋の方角に火の粉が舞い上がっているのが見えた。二人は慌てて着物を着ると旅籠屋の方に駆け戻った。だが、旅籠屋に通じる橋の手前で立ち止まざるを得なかった。旅籠屋は完全に火の海と化していたのだ。部落の人々が非力な消防活動をしている。二人は唖然としてそこに留まっていた。他に何もできず、しっかりと寄り添っていた。火が完全に消えたのはもう夜明けに近いころだった。二人は疲れ果てていた。それでも、慎もおれいも各々の連れの状況が心配で部落の人に聞いてみた。話によると、最近界隈を荒らしまわっている賊が宿泊客の金銭を盗んだ上に火を放ったと言うのだ。そして、宿泊客は誰も生き残らなかったと言われた。 二人は唖然とした。慎は父を、おれいは奥さんを失ってしまったのだ。おれいはしくしくと泣きだした。慎も一人だったら、泣いていただろう。だが、今そうしている訳ににはいかなかった。この山奥の何もない部落で、昨夜偶然に知り合ったばかりの二人だけが唯一の知り合いとなってしまったのだ。そして、当然のこと、二人は何も持っていなかった。ここは、二人の故郷の富山にも出雲にも遠い、人里離れたところだ。どうしていいのかわからなかった。二人とも、いっそ連れと一緒に死んでしまっていたら事が簡単だったと思った。と同時に、たまたま旅籠屋を抜け出したために、命が救われたという僅かな慰めの感もあった。二人は長い間何も話さずにいたが、慎が口を開いた。 「おれいさん、わし達、運が良かったか悪かったかわからんが、二人だけ生き残った。どうしたらいいか一緒に考えてくれっけ?」 「慎さん、わかった。そうすーより、仕方がなえ。」 と言う訳で、どうするか話し合った。そして、昨夜出会ったばかりの二人はこれからの行動を共にしようと誓った。その後は、今までの疲労のため二人ともその橋の袂で倒れるように横になってしまった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 日もだいぶ高くなったころ、目が覚めてから、二人は人の好さそうな老人を捕まえて、まず自分たちの身の上のことを打ち明け、部落の周辺のことを聞いた。一番知りたかったのは、二人が転がり込めるようなところがあるかどうかということだった。この老人の話では、4里程だったか歩いたところに山寺がある、そこへ行ってみるのが良いかもしれないということだった。慎はその老人にまだ少しだけ残っていた風邪薬を見せて、何か食べ物と交換してくれないかと頼んだ。老人は気の毒に思い、薬と引き換えに自分の家からおこわのおにぎりを二つ持ってきてくれた。その老人の昼飯用にとってあったものだと言う。二人は老人に礼を言い、山寺に向けて出発した。 … Continue reading 慎吾と麗名の旅奏曲(4):完結編

慎吾と麗名の旅奏曲(3):大西洋南下編

2020年2月6日(若干修正 2020年3月23日) 蓮 文句 1.ロンドン(イギリス) アメリカから国外追放となった慎吾と、名目ばかりのイギリス短期留学を終えた麗名は、ロンドンの安ホステルに滞在していた。ある日、麗名が外出から帰ってくると、ラウンジでは滞在者の多くがテレビでサッカーの観戦に夢中になっている。その中、片隅で慎吾が一人、日本語の本を読んでいた。麗名にとっては、このホステルで初めて見かける日本人であったので声をかけてみた。 「あの~、日本人ですよね。」 「そうです。」 「ここに座ってもいい?」 麗名は向かいのソファに座るとそこに置いてあった雑誌をパラパラとめくり始めた。慎吾はちょっと気になっているようで、ちらちらと麗名の方を覗いている。そして、口を出した。 「ここで日本人は珍しいね。旅行中?」 「ううん。短期留学が終わったところ。日本に帰りたくもないからここに来てみたんだ。」 「ふ~ん。気楽だな。」 「あんたは?」 「どこに行く当てもなくここに来た。アメリカで国外追放になった。」 「へ~。かっこいいじゃない。スパイかなんか?英語も得意なんだ。」 「かっこいいわけはないだろ。向こうでは小型機のパイロットだった。英語は得意じゃないけど、何とか使える。それじゃなきゃパイロットにはなれない。」 「なぜ国外追放なんかになったの?」 「ビザ無しだよ。見つかると厳しい。多分誰かが通報したんだろう。」 「お気の毒に。」 「大きなお世話だ。」 それからは、この二人、毎日顔を合わせることになる。数日後、ホステルのトーストと紅茶の簡単な朝食の時、麗名が尋ねた。 「あんた、なんていう名前?あたしは麗名。」 「吾輩は慎吾。」 「アッハッハ!!!」 周り全員が麗名の方を見る。 「うっ。まずい。それで~、その『吾輩』っていうのおかしいよ。古臭いんじゃない?」 「また大きなお世話だな。『オレ』とか『僕』とか『私』とか、どれも馴染まないだけだ。それだったらと、いっそのこと古典調にしてるだけだ。それより、その『麗名』っていうの、ちょっとおまえには似合わないんじゃないの?それ、もっとおしとやかな人のための名前じゃない?おまえだったら、いっそのこと『じゃじゃ馬』とか似合うよな。」 「この!まぁ、いいか。たしかにじゃじゃ馬かもしれないし。その~、吾輩君。ところで、いつまでここに居るの?」 「わからない。」 「これからどうするつもり?」 「またまた、大きなお世話だな。おまえこそどうするつもりだ?」 実は二人とも答えがなかった。 数日後の朝食の時、また麗名が声をかけた。 「あたし、ちょっと暇を持て余してるんだけど、町の中一緒に歩いてくれない?」 「ほぉ?ストレートだな。デートのお誘いかい。」 「いい気にならないでよ。今、暇だって言ったでしょ。他に日本人も知らないし、短期留学じゃ英語で恋人を作るほどの語学力も身に着かなかったからしょうがないんだよ。それに、自慢じゃないけど、少し方向音痴ですぐに道に迷っちゃってさ。」 「なんだ。口が悪い割には、なかなか素直じゃないか。いいよ、吾輩も暇と言えば暇だし。一緒に行ってやろうか。」 「偉そうな口をきくなぁ、この吾輩君は。まぁ、いいや。吾輩でも猫よりはましだろう。早く行こうよ。」 その日、二人は普通の観光客が行くようなところに行った。実は二人共それまで市内観光などしてはいなかったのだ。ゆっくりと流れるテムズ川を覗きながら、慎吾が話し始めた。 「のどかだな。おまえとデートもまんざらではないかな。」 「それ見たことか。あんたも意外と素直じゃん。」 「そうさ。ずっと一人だったし。」 「へ~、何にもなかったの?」 「何にもと言う訳じゃないが。結論から言えば大したことはなかったな。」 「おかわいそうに。」 「大きなお世話だ。おまえは?」 「あたしは、少しはもてたよ。昔の話だけどね。高校の時はハーモニカ部でつきあってた。最後は振られちゃったけどね。」 「そうか。それは気の毒だな。」 「大きなお世話だよ。人は失恋で強くなる。あんたはパイロットだったていうけど、他に何かしてた?」 「吾輩は手品師であった。」 「また、その吾輩~。でも、ちょっとおもしろいな。その、手品なんて。」 「高校の時のクラブさ。今でも出来るよ。ほら。」 慎吾は麗名のカバンからコインを取り出してみせる。 「へ~。やるじゃない。」 「それだけじゃない。ほら。」 今度は何かカードを取り出した。それを見て麗名はびっくりしたと同時に怒り出した。 … Continue reading 慎吾と麗名の旅奏曲(3):大西洋南下編

慎吾と麗名の旅奏曲(2):東日本編

2019年9月1日(若干修正:2019年11月8日) 蓮 文句 1.修学旅行 高校三年の時、慎吾と麗名は同級生だった。それでも二人は全く話をしたこともなく、慎吾は麗名の存在さえ気に留めていない様子だった。そんなある日、慎吾は親と隣町での買い物の帰り、町はずれのコンビニに寄った。慎吾はハッとした。そこのレジで働いていたのは麗名だった。話をしたこともない同級生が一生懸命働いている。なぜかとてもけなげに、と同時にしっかりして見えた。レジに行くのがなんとなく照れ臭く、何も買わずにそこを出た。それから、慎吾は麗名のことを気に掛け始めた。人並外れておとなしい。授業中もほとんど発言しない。休み時間には他の女子と静かに話していることもあったが、一人で窓の外を見ているようなことも多かった。 クラスでは、一学期の間にすでに東京への修学旅行の計画が持ち上がっていた。自由行動の班を決める時、慎吾は麗名が一人だけ話し合いに加わっていないことに気が付いた。後で噂を聞いたところ、麗名の家庭は旅行費用が払えないため修学旅行には行かないということだった。慎吾の家は飛びぬけて裕福ではないが経済的に困ったこともなかったので、この噂はショックであった。 修学旅行の三日前の夜、慎吾は町の中心部まで出かけ、バーに入った。酎ハイをオーダーして飲んでいるところを巡回とみられる警察官に未成年飲酒で補導された。ことの次第は翌日高校に報告され、慎吾は一週間の停学処分を言い渡された。と同時に、この期間にある修学旅行への参加も禁止された。 級友たちが修学旅行に出かけてしまった朝、慎吾は麗名に電話して湖畔を散歩しないかと誘った。 「石館君、散歩に誘ってくれてありがとう。でも、どうしてお酒なんか飲んでいたの?まさかわざと捕まるようなことをしたんじゃないよね?」 「そんなことないよ。たまたまそういう気分だっただけだよ。ところで、同じクラスに居るのに、鹿野内さんとはまだ一回も話したことなかったよね。」 「そうね、私無口だから。石館君はサッカー部で随分活躍していたの知ってたけど。」 「あ~引退するまではね。今は時間が出来た。みんな受験勉強に躍起だけど、僕はなんだか気が抜けたような感じだ。」 「石館君は優秀だからもう大学のこととかしっかり考えているんでしょ?」 「いや、全然。正直言って気が進まない。何を勉強したいとか、何かになりたいというものがまだないんだ。そんな状態で大学に行ってしまっていいのかなと思っている。それより、困ったことに、両親の方が真剣なんだ。」 「そうなの。知らなかった。」 二人は暫く何も話さなかった。突然慎吾が立ち止まり、湖に小石を投げた。その波紋だけが観光シーズンの終った湖面に広がっていった。 「鹿野内さん、気に障ったらごめん。実は、前に街はずれのコンビニに寄った時、レジで働いているのを見たんだけど。」 「そうなの。毎日働いているの。」 「えっ、毎日?大変だね。土日も?」 「そうなの。うち、貧しいから。」 「そんな。詮索するつもりじゃなかったんだけど。」 「いいの。わかっているわ。これは事実だからしかたがないの。修学旅行に行けなかったのもそのせい。それは知っているでしょ?」 「うん。噂で聞いた。で~、鹿野内さんが働いているところを見て、大人と一緒に働いているところを見て、なんだかすごく立派だなって思ったんだ。」 「ただ、お金のためにしていることなのに。私は年取った父と二人暮らしで、父は警備員の仕事。父の前の事業からの借金もあるので、なかなかまともな生活が出来ないの。」 「そうだったのか。大変だなぁ。ねぇ、ポテトチップス持ってきたけど食べる?」 「ありがとう。」 二人は近くのベンチに腰を掛けた。二人はじっと静かな湖面を見つめている。何をするというわけではないが、二人ともそれなりに落ち着いた時間を過ごしているようだった。 午後になって、麗名が言った。 「石館君、この後、またバイトがあるので行かないと。近くのバス停から行くの。今日誘ってくれてありがとう。みんな修学旅行に行ってしまって寂しかった。」 「来てくれてよかった。バス停まで送って行くよ。」 「ありがとう。」 慎吾は麗名がバスに乗る直前に尋ねた。 「鹿野内さん、明日も会ってくれる?」 「えぇ。」 「じゃ、また同じ時間に同じ所で。」 麗名はうなずいた。慎吾は麗名のバスが来るまで待ち、見送った。 次の日、慎吾は少し時間に遅れてきた。 「ごめん。出際にちょっと両親と言い争いがあって。停学になって怒っているんだ。そして毎日ぶらぶらしているとか。大学受験にも差し支えるとか。もう嫌気がさす。」 「ごめんなさい。私に会ってくれるためにそんなこと言われて。それに、どうしても石館君はわざと修学旅行に行かないようにしたと思えて。」 「そんなことないよ。それに、もう修学旅行のことは忘れよう。それより、こうして鹿野内さんと会っていると気が休まる。うちの家族にはない暖かさがある。今日も会えて嬉しいんだ。」 「それだったらいいんだけど。もし昨日石館君が誘ってくれなかったら、私、多分家でずっと泣いていたと思う。私、何の取柄もないのに誘ってくれて、ありがとう。」 「来てくれて、嬉しいよ。」 二人は暫く黙って湖畔を歩いた。今日は少し風が出ている。昼に差し掛かったころ、麗名がバッグから何やら取り出した。 「石館君、よかったら、お昼食べない?おにぎり作ってきたの。」 「ほんと?お腹空いていたんだ。おにぎりいいな。昨日はポテトチップスだけでごめん。」 「当たり前の鮭のおにぎりだけど、いい?」 「鮭、大好きだよ。」 「父の夜食にいつも鮭のおにぎりを用意するの。うちではご馳走なの。父はほとんど毎日夜働いているでしょ。いつも入れ違いで寂しいことが多いの。それに、私の母は私が中学の時に病気で死んでしまったし。」 「そうだったんだ。」 おにぎりを食べ終わると二人はまた歩きだした。また少し風が強くなっている。 「この分だと明日は雨かな。今日のうちにちょっとボートでも乗ろうか。」 「えっ?ボート?」 「うん。そこにあるじゃない。もう観光客もいないし、僕らが少し乗ったって構わないよ。」 麗名はためらっている。それでも、慎吾はさっさとボートの所へ行き、湖岸まで引っ張っていった。 「鹿野内さん、おいでよ。」 麗名は依然ためらっていたが、やっとボートに飛び乗った。慎吾はボートを押しながら、自分も飛び乗った。しばらく慎吾がオールを操り湖上を巡った。誰もいない少しうす暗くなってきた湖面で二人だけ、ボートに乗っている。少し波立つ湖面をすうっと、だが当てもなくさ迷っている。しまいに、慎吾が勢いよく湖岸にこぎ着け、自分が飛び降りた。ボートをさらに引っ張ると麗名の手を取ってボートから降ろした。この時、慎吾は初めて麗名の手に触れた。暖かかった。 … Continue reading 慎吾と麗名の旅奏曲(2):東日本編

慎吾と麗名の旅奏曲(1):環太平洋編

2019年8月1日(若干修正:2019年9月1日) 蓮 文句 これは、先に発表された第一話「もう先生と呼ばないで」と第二話「きみの意識が戻るまで」の後続九話を含めた全11話です。第一話と第二話は個別に発表されたものと若干異なっている箇所があります。 1.もう先生と呼ばないで 慎吾は高校三年になって初めての英語のクラスに行くところだった。今までの教師が退職したので、新任の若い女の先生が来るということを聞いていた。いずれにしても慎吾は英語の授業をずっと嫌ってきたので、大した違いは無いだろうと思っていた。麗名は大学を卒業してすぐに慎吾の高校へ赴任してきた。三週間の教育実習の他は教壇に立ったことはなく、相当に緊張していたことに間違いはない。教師として最初のクラスは尚更のことだ。 慎吾が教室に着くと麗名はもう教室の前に居た。彼は麗名を見たその瞬間にもう完全に参ってしまった。彼は今まで何人か同級生と付き合った事はあるが、深い仲になったことはない。そして、たった今のようにどうしようもない感覚を覚えたこともなかった。そんな状況で慎吾が授業内容に注意を向けられたわけがない。途中麗名が一人ずつに教材を配ったとき、慎吾は麗名の手が少し震えているような気がした。新任の教師だからやっぱり緊張しているのかなと思った。それより、慎吾は自分の興奮状態を収めることに精一杯だった。 それから数週間が過ぎた。慎吾の麗名への想いはとどまる所を知らず、英語だけでなく全ての授業中、いや一日中そのことばかり考えていた。英語の授業はむしろ苦痛にさえなってきた。この憧れの人が級友皆に平等に英語を教えているからだ。もうたまらない。ある日の放課後、慎吾はこっそりと麗名のあとをつけた。同じ電車に乗り、同じ駅で降り、少し離れてついて行った。慎吾の心臓はもう破裂寸前だった。 麗名が自分のアパートのドアを開けようとした時、「先生。」という小さな声がした。振り返ると、そこには慎吾が立っていた。その時の麗名の驚き様はただものではなかった。「あっ」と叫んでいる様な顔をしているが声は出ていない。慎吾を凝視したまま凍結してしまったようだ。しばらくしてやっと麗名が口を開けた。 「あの、城ヶ崎君、どうしてここに。」 それは、半分は教師が生徒をたしなめるような口調であったが、後の半分は旅先で旧友にあったときのような親しみがあった。慎吾はきまりが悪そうに返答した。 「すいません。悪いとは思いながらついてきたんです。先生、すいません。どうしようもなかったんです。」 麗名はすぐには返答できなかった。そして思い切るように言った。 「城ヶ崎君、それはどういうことですか。」 麗名の顔は少し赤らいでいる。慎吾はもうすべて言うしかないと思っていた。 「先生。先生を一目見た時からもう頭が一杯で。授業中も苦しいくらいで。もう、直接会って話をしないと耐えられないと思ったんです。」 麗名は返答に困っているようだった。顔は更に赤くなってきた。しばらく経って、やや落ち着いてきたかと思われるとポツリと言った。 「城ヶ崎君、とにかく中に入って。こんなところを他の人に見られてしまっては。」 麗名は鍵を開けると慎吾を中に通した。アパートの中はガランとした感じで、隅には幾つか段ボール箱が積んであった。麗名は慎吾を小さな椅子に座らせると台所の流しの方を向いてしまった。そして、麗名の次の言葉は慎吾には少し意外だった。 「城ヶ崎君、コーヒー飲む?」 慎吾はもう信じられなかった。あの安城先生のアパートに二人だけでいる。 「二人だけ。先生、夢のようです。本当にどうして良いか分からなかったんです。」 麗名の方はうつむいてコーヒーの用意をしている。慎吾には麗名の表情どころか顔さえ見えなかった。次に麗名は独り言のように言った。 「こんな状態が学校に知れたら、わたしすぐクビにされてしまう。どうしよう。」 麗名が心配しているのを悟った慎吾はすかさず返事した。 「先生、オレ、絶対、誰にも何にも言わないから。心配しないで。」 麗名はそれには反応しなかった。まだコーヒーの方を向いている。少し身体が震えているようでもある。 「先生、すいません。悪い事だとは分かっていたし、先生を困らせようというつもりは全然なかったんだ。」 「城ヶ崎君。分かっているわ。わたし、今言った通り自分の仕事の事が心配なのは本当なんです。でも、実はもっと切迫していることがあって。」 慎吾にはその意味は全くわからなかった。 「もっと切迫していることって?」 麗名はまだコーヒーの方を向いている。 「城ヶ崎くん、コーヒーができたわ。」 そう言って、コーヒーカップを2つテーブルの上に置いた。麗名の顔を見た慎吾は驚いた。麗名の目からは涙が流れたあとがある。それなのに全然悲しそうではない。慎吾の身体は完全に興奮していた。 「わたし、どうしていいかわからないの。」 そう言ってコーヒーカップ一つを慎吾の方へ押した時、麗名の手が震え、カップが傾き、コーヒーがこぼれてしまった。慎吾は手を出してそれを抑えようとしたが間に合わなかった。 「ごめんなさい。」 「すいません。」 麗名と慎吾が同時にそう言った時に二人の手が触れ、次の瞬間には唇も触れた。麗名はちょっと後ずさりすると、完全に動揺した様子で、 「わたし、どうしよう。わたし、どうしよう。」 と繰り返している。 慎吾が話し始めた。 「先生、すいません。でも、オレ、もうどうしょうもないんだ。なんと言っていいかわからない。」 麗名はまだ動揺した様子で、「どうしよう。」といっている。顔は相変わらず赤く、興奮しているのは明らかだ。しばらくして麗名が観念したという様子で話し始めた。 「城ヶ崎くん、実は、わたし。実は、わたし、初めて会ったときからあなたのことを。あなたのことを考えていたんです。あなたが気がついたかどうかわからないけど、あなたに教材を渡す時になんだかいたずらに手が震えて。丁度さっきコーヒをこぼしてしまったときのように。それで、それから毎日・毎日が苦しくって。どうかして、あなたとお話出来ないかと考えていた。今日城ヶ崎君が急に現れた時、わたしはもう気絶同然でした。嬉しかったの。いや、それ以上。今、やっと二人だけに。」 そう言うと麗名はうつむいてしまった。 慎吾は信じられなかった。あの安城先生が自分のことをそんなに思っていてくれたなんて。あの安城先生が。もう世の中の他のことはどうでもよかった。すると麗名が突然立ち上がって言った。 「わたし、もう熱くなってしまって。ちょっと待っててね。」 と言うや他の部屋に行ってしまった。しばらくカサカサ、コトコトとした音がしていたが、直に戻ってくると、言った。 「こっちに来て。」 麗名が興奮している慎吾の手をとって通したのは彼女の寝室だった。慎吾はちょっと驚いた。そこは片付けたと思われる後にしては、かなり散らかっていたからだ。傍観者だったら引っ越して来て間もないからだと思うだろう。ただ、慎吾にはそんなことも麗名の「ごめんなさい。こんなところで。」という言葉も気にならなかった。そこがどんなところであろうがどんな状態であろうが、そんなことはこの二人にはもう関係のないことだった。 どのくらい経っであろう、麗名が仕方がないという感じで口を開いた。 「城ヶ崎君、もう遅いわ。帰らないと。お家の人が心配しているんじゃない?」 「先生、オレ、もうずうっとここにいたい。いや、今日のこの一日だけでももう死んでもいいくらいだ。」 すると、麗名がちょっとたしなめるように言った。 「そんな。変なこと言わないで。わたしのそばにいて。それから、城ヶ崎君、わたし達もう男と女の関係になってしまったのだから、わたしのこと『先生』って言うの辞めてください。」 … Continue reading 慎吾と麗名の旅奏曲(1):環太平洋編