7 Habits of Highly Successful People, Really?

O. Guy Morley May 23, 2019 This is a work of fiction. Names, characters, businesses, places, events, and incidents are either the products of the author’s imagination or used in a fictitious manner. Any resemblance to actual persons, living or dead, or actual events is purely coincidental. Have you read any of those “7 Habits … Continue reading 7 Habits of Highly Successful People, Really?

Not in My Home Land

O. Guy Morley February 8, 2019 (slightly edited: April 25, 2019) This is a work of fiction. Names, characters, businesses, places, events, and incidents are either the products of the author’s imagination or used in a fictitious manner. Any resemblance to actual persons, living or dead, or actual events is purely coincidental. There was a … Continue reading Not in My Home Land

『忠告せぬべし』

2018年9月21日 蓮 文句 いや~、これはある友人によく言われる文句なのですが、これ自体忠告ではありませんか。もしこの友人が本当にそう思っているなら、この人こそそのような矛盾する文句を言うべきではありません。もしそう思っていないなら、当然そのような発言をすべきでもありません。それでも、最近はこの忠告一理あるなと思ってきたのです。 いずれにしても、ことの始まりは当人がどうしても他人にああだこうだと忠告してしまうことに発しております。他人があまりに無知・無学の様相を呈しているのに、放置しておくことが出来ましょうか。 他国にいるある知人が前回の大統領選挙の時、とんでもない人間に投票するというので『やめとけ』と言ったのです。当人に言わせればこんな人間が大統領になったらお先真っ暗なのは自明です。悪者の中でも少しはまともなやつを選べよと。驚くことにこの「知人」なんだかんだ言って当人の忠告を無視したのです。箱を開けてみればその大統領の悪さ加減は想像を絶するものでした。この「知人」が今頃どう思っているかちょっと気になることもあります。もう、交流はないのですが。 次はある親戚のことです。この親戚と当人とは一族の長老が他界した時に遺産相続に関わりました。実はこの親戚何十年も海外暮らしで、長老のところへはろくに訪れもせず、この長老の世話は親戚の姉が一手に引き受けていました。ところが、長老の天寿が全うしそうになるとこの親戚はすかさず駆け付け、長老に甘ったるい言葉をかけたり、家中を物色して何やら情報を詮索していたそうです。どうやら、それ以上悪賢いことを企んでいたようなのですが、直接聞いたわけではないので当人にはわかりません。そして葬儀が終わるや否や、長老の不動産を即座に売却して自分の相続分を手にしたいと言い始めました。「姉」とほかの親族はまだ「長老」の住居に愛着があり、即座に売却はしないと主張していました。遺産に関しては、法律上は、世話をしたかどうかにかかわらず一定の割合で親族に分配されるものです。それでも、当人に言わせれば、長老の遺産は世話をしていた姉が授かるのが自然の成り行きでした。この点忠告しようと思っていたのですが、この海外の親戚、争議を家庭裁判所に持ち込んだのです。これには閉口しました。 最後に他の友人のことです。この人はある日突然最終期のガンだと告知されました。この人は現代人らしく科学技術崇拝者で、ありとあらゆる最新の治療を試みました。その一つに放射線療法があります。これは多数の放射線を多角度から同時に一点にあててガンの存在する局所だけ攻撃するということらしいです。この技術は確かに、大した発想であるし、超高度の技術が要求されるものでしょう。また、化学療法も凄まじいものです。『毒』を人体に注入してガン細胞が母体より先に死ぬことを『期待』するのですから。ただ、当人の気になったのは、この友人そもそもどうしてガンになったのだろうかということです。聞いたところによれば、人体では常時ガン細胞のような変異が生じているそうです。環境・精神問題等によっては、そのような変異が以上に増えることもあるでしょう。ただし、健康体にはそのような前ガン的な変異を自然に取り除く仕組みがあるようです。ガンになるにはこの自然治癒力が7年から10年もの間阻害され続けている必要があるとも聞きました。もしそうだとすれば、この友人はそれだけ長い間何らかの問題を抱えて生活してきたと言えるようです。そう言われてみれば、この友人確かに職業、家族、その他の精神的な問題が少なからずあったのは当人も知っていました。どんなに最高の科学技術をもってしても、根底にある問題を解決しない限りガン細胞は同じペースで攻撃を続けるでしょう。そう思った時、当人はこの友人に重大な忠告をしたかったのです。ところが、まず根底にある問題から話を始めようとすると、この友人すぐに話題を治療法のことに変えるのです。結局当人はしたい忠告をする機会さえありませんでした。あとどのくらい生きられるかわかりませんが、この友人はおそらく自分がどうしてガンになったか、そしてひょっとしたら他に出来ることがあるか気が付かずに残りの人生を終わってしまうように思われます。 というわけで、忠告が役に立たないということは身を染みてわかってきてはいます。ところが、冒頭で述べたように、当人が皆さまにこの件を伝えるのに忠告という形をとることは出来ません。どうしたらよいでしょうか。

西洋思想と東洋思想の接点はインドにあり

2017年12月12日(2018年8月15日若干修正) 蓮 文句 これもまた、当人の全く勝手な見解です。ことの始まりはDaniel Golemanの本「The Meditative Mind: The Varieties of Meditative Experience」にあります。Golemanはこの本の中で、瞑想には大きく2種類あると人から教わったと書いています。『1』の瞑想と『0』の瞑想があるというのです。さて、当人の解釈ですが、『1』の瞑想では、瞑想者は「神」その他の超常現象等に同化することを目指します。『0』の瞑想では、瞑想者の直接体験に基づき、瞑想者の自我が環境の中の一部として「解体」することを目指します。解体というと誤解を招きやすいのですが、自我が無くなるくなるわけではなく、普通自我と思っているものが環境の中での連鎖反応の一断面に過ぎないという見方です。『1』の瞑想の代表的なものはヨガの瞑想で、『0』の瞑想の代表的なものは仏教の瞑想でしょう。当然、ヨガも仏教も(広義の)インドが発祥の地であります。そして、当人が言いたいことは、瞑想における『1』と『0』の違いが西洋思想と東洋思想の違いを反映するということです。ちなみに、この対立は、よく言われる西洋と東洋の境界とは異なります。つまり、前者はキリスト・ユダヤ・イスラム教(一神教)に基づき後者はヒンドゥー(多神教)・仏教(無神教)に基づくという考え方とは違うということです。 まず、少し注釈を加えたいと思います。瞑想に関する手法に関しては、ヨガも仏教も多くの共通点があります。例えば、両者とも呼吸を使うのが最も一般的な方法です。また、両者とも精神集中および洞察・気づき両方の側面を重視します。瞑想中に体験する精神状態にも類似点が多く存在します。そのため、多くの人は両者の瞑想を混同しがちです。それでも、上に書いた通り目標地点に究極の違いがあるのです。同じ地域で発展し類似の形態を取りながら、どうしてこのように極端に違うゴールを目指すのか興味深いと思います。 歴史的に言えば、ヨガはヒンドゥー教(あるいはその前身)を背景に発達しました。多神教という点ではキリスト・ユダヤ・イスラム教と異なりますが、神を崇拝する点では何の相違もありません。そして、この神(あるいは神々)の崇拝の極致は自分が神になることです。この接近を限りなく求めるのが『1』の瞑想の根源と思われます。また後で述べますが、神が絡む限り必ず「助っ人」が登場することも見逃せません。これらの助っ人は、宗教家のみならず、実業家や政治家も出てきます。 仏教は、釈尊(ブッダ)がヨガ・ヒンドゥー教を含む当時の宗教・思想の問題点を打破するために始めたものです。神を祀るのではなく、現実を直接見極めることにより煩悩から解放されることを目指します。すなわち、個々人の意志・実行が強調されています。師の役割を否定するわけではありませんが、師の言っていることが正しいかどうか判断するのは個々人の責任とされています。この点で、西洋宗教でみられるような助っ人の影響は弱いと言えます。なお、仏教は釈尊が始めたものですが、同様の思想・姿勢はすでにあったものと考えられます。これは、中国他のアジア地域に共通する観点・姿勢があったことからも伺えます。 ところで、現代インド社会は大方西洋的であると言えます。これは、インド北部の人種がコーカソイドであり、言語がインド・ヨーロッパ語族に属することと無関係ではないと思います。仏教が根付かなかった理由の一つでもあるでしょう。それに対し、近隣のネパール、ブータン、ミャンマーとインドから東方に離れるにつれて東洋色が濃くなります。それにしても、世界が小さくなりどんどん現代化するにつれ、かつて東洋色が濃かった地域も西洋化してきています。世界中が西洋化してきていると言っても過言ではありません。 また、世界が現代化するにつれ、人間の使う「道具」が強力になってきています。火、言語、農業、重機、兵器、コンピュータ、インターネット、などなど。これらの道具は西洋思想の神々の助っ人たちにとっては必需品となっています。また、個々人にとって、神々に近づく手っ取り早い道具は「富」や名声です。これもまた、神々の助っ人にとってはコントロールしやすい道具のひとつです。神々を崇拝する人々にとって、現代社会は格好の領土なのです。 これに対し、当人の言う東洋思想の根底には、神々の助っ人に頼らず自分の直接体験を重視する傾向があります。個々人にとっても、富や名声より重要なものが見えるはずです。しかし、このような傾向は必ずしも現代化に即しているとは言えません。いや、弊害とさえなりかねません。世界中で巻き起こっている経済競争のなかで東洋思想が有利な訳がないのです。世界中の西洋化は免れないでしょう。問題の一つは西洋化は永遠に継続することはできないということです。これはガンが人体を蝕んでいくのと同様です。いずれは破綻するのです。極端なことを言えば、西洋化は自殺行為だということです。 それでも、西洋社会のなかでさえもささやかな東洋化の動きも見られます。中には、むやみな現代化に抵抗して、現状をもっとよく見極めようとする人々がいます。そのような人々の集まりもあります。また、神々崇拝型の従来の企業に対し、直接体験を重視するような各種の「(消費者)協同組合」が発展してきています。他国では、金融機関、住宅、各種小売業などにも見られますが、日本ではこのような企業形態は「生協」に限られるかと思っていました。ところが、日本にも大変いい例があることに後から気が付きました(2018年3月20日)。これは、日本高齢者生活協同組合連合会(高齢協、http://koreikyo.jp/)です。大変参考になりました。失礼しました。当然、他にも見逃していると思いますが。。。。 といったわけで、かつてインドで表現化した西洋・東洋の接点はもはや消滅したかのように思えますが、世界各地の小さな拠点にところを変えて依然ささやかに繰り広げられているのです。