論文の書き方(その1):論点の展開

2018年10月2日 蓮 文句 要旨:一般に論文の書き方というのは二の次にされる傾向があり、どうしたらよいかと気になっている方も多いのではないでしょうか。この文書は、論文を書く際に最も重要と思われる論点の中核にある「問題点」の取り扱いを解説します。この点を的確に理解し利用することにより、より読みやすく説得力のある論文が書けるようになるはずです。 序章 どうやってこの文書に辿り着いたにしても、読者の皆さまは論文の書き方に興味があるに違いありません。当人は何年も前のことですが論文の書き方がよくわからず苦労していました。そのころ関連の本を図書館で何十冊と詮索している間に一冊の本に巡り合いました。それはBooth他著『The Craft of Research』という本です。この本は当人のその後の論文作成に多大な影響があったので、ここで皆さまにも紹介したいと思うものです。原語で読むのが最高ですが、当人の言いたいこと二点はこの文書と別の『論文の書き方(その2):文章の展開』で概略を、当人の考えを含めてお伝えすることができるのではないかと思います。【背景】 さて、論文を書くというからには何か伝えたいこと、つまり論点があるわけです。そして、その論点をどのように論文の中で記述・展開していったら良いのでしょうか。この点がわからないのでは、説得力のある論文を書くことはできないでしょう。皆さまも他の論文を見て何を言いたいのかよくわからないと感じることはありませんか。【問題】 この文書ではこの論点の展開ということに焦点を置き簡潔に重要点を述べたいと思います。そして、この中核に「問題点」を明確にするということがあります。以下の本文では、問題点の客観的及び主観的な側面を紹介してそれをどのように論文の中で扱っていくかを書きます。【回答】 さて、本文に入る前に、いくつかお断りしておくことがあります。まず、この文書では序章(前書き・はじめに)、終章(結論・終わりに)、要旨(あらまし・概要)の中での論点の展開に焦点を置き、論文の本文の書き方については記述していません。次に、この文書はそれ自体ここで扱っている論文の書き方に準じています。詳しくはこの後の本文で書きますが、序章と終章の構成を示すための指標を【 】内に入れて各段落の後に付してあります。【注釈】 以下の本文では、「問題点」についての説明を始めに、序章、終章、要旨の構成について手短に記述します。【概要】 本文 「問題点」について 皆さまが論文を書く目的は何か新しい発見や考えを他の人に伝えたいからだと思います。ここで、最も重要なのはその伝えたいことを明快に適切に読者に伝えることだと思います。それが論点と言えましょう。この論点の中核をなすものが「問題点」です。下の公式に示すように、問題点には、二つの側面があります。 問題点 = 疑問 + 意義 「疑問」は問題点の客観的な側面で、質問形式で考えることができます。「意義」は問題点の主観的な側面で、その疑問を解決するとどんな利益があるか(「正」の見方)、あるいはその疑問に答えられないとどんな損害があるか(「負」の見方)を主張するものです。 例えば、ある研究者が特定のガン細胞の増殖を薬物で阻止する研究をしているとします。問題点の疑問を『そのガン細胞の増殖メカニズムはどうなっているか』と設定すれば、意義は『そのメカニズムがわかることによって、適切な薬物の判定が可能になる』などと言えましょう。 また、この文書(今読者の読んでいるこの文書のこと)の問題点の疑問は、『どうやって、論点を展開したらよいか』ということで、問題点の意義は『適切な論点の展開が出来なければ読者が文書を読んであるいは理解してくれない』と考えることができます。 尚、どんなに重要だと思われる問題点でもすべての人に意味があるわけではありません。したがって、この「意義」というのは相対的で、あくまでも特定の読者を想定する必要があるということです。かのアインシュタインの相対性理論でさえ世の多くの人には全く無意味なのです。 もう一点重要なことは、問題点自体様々なものがあります。大きく分ければ、実用的なものと理論的なものがあります。実用的な問題は我々の実社会に直接関与しているものです。すなわち、その問題点の疑問が実社会で問われるようなもので、その意義は実社会に直接影響を及ぼすようなものです。それに対して、理論的な問題点の疑問はは専門的なもので、その意義もごく一部の専門家にしか理解されないようなものです。 論文を書く場合には想定される読者層によって適切なレベルの問題点を取り上げ、その意義がその読者層に説得力があるものだということに注意しなければなりません。 序章の構成 序章の構成について最も重要なことは論文の問題点を徐々に導入していくということでしょう。なるべく一般的なことから入って次第に中核に触れるという姿勢です。流れとしては以下のような具合です。それぞれ、通常は一段落に収めることが出来るでしょう。 背景 ➞ 問題 ➞ 回答 まず、論文の背景から始めます。多くの論文は専門的であるため、突然に本題に入ることはリスクが大きすぎます。背景を記述するにあたって最も重要なことは読者を想定してその読者がどのようなことに興味を持っているかということから始めると良いでしょう。また、著者がその論文を書くきっかけになった事柄などを含むこともできます。 次に、問題点を提示します。これは、すでに書いた通りです。 その後、問題点に対する論文の「回答」を簡潔に書きます。当然、その論文自体が回答なので、あくまでも本文を読んでもらう興味をそそるように最も重要なことを手短に書くのです。なお、ここで「解答」と言わずに「回答」というのは、その論文が必ずしも問題点の疑問に完全には答えていないかもしれないということをわきまえているからです。たとえ、部分的な回答でも十分意義があればその論文の価値は伝わるでしょう。 以上が序章の最低限の構成ですが、論文の性質や長さによっては以下の二点も含むことが必要でしょう。 一点目は、必要に応じて注釈を加えるということです。例えば、論文の回答が完全な解答ではない場合など、あらかじめ断り書きを入れておくと良いでしょう。二点目は、比較的長い論文の場合には本文の概要が必要だということです。本文の各章のあらましを簡潔に記述すると良いでしょう。 この文書の序章も一応上記のガイドラインに沿って書いたつもりです。いかがでしょうか。 終章の構成 さて、序章の注釈に書いたようにこの文書では本文中での論点の展開は記述しないので、終章の構成に移ります。大まかに言って、終章は序章と反対の構成をとります。論文の中核から幅を広げていくのです。具体的には、以下のような順序で三段落を想定します。 回答 ➞ 意義 ➞ 将来 まずは、問題点の疑問に対する回答を簡潔にまとめます。次に、その疑問そして回答の意義を主張します。最後に、論文の結論に基づいた将来の方向を論じます。これらの内容は多くは序章と反復するものになりますが、終章は本文の後なのでよりパンチの効いた言い回しが可能になると思います。 この文書で序章と終章に限ったのは、この二つの章が最も重要だと思われからです。読者の中には論文全体を読む時間がないとか興味がないといる人もいるでしょう。そんな時には序章と終章だけ読むということあるかと思います。たとえ序章と終章だけ読んでも論文全体の言い分がよくわかるようであれば、極めて有効だと言えるでしょう。 要旨の構成 ことのついでに、もう一点だけ付け加えておきます。論文の要旨も重要なものです。読者の多くは、要旨をみてその先読むかどうか決めることでしょう。したがって、要旨も一般的なことから専門的なことへと記述を絞っていくこと必要です。そのため、その内容は序章と似たものになります。出発点としては、序章の三段落(背景、問題、解答)をそれぞれ一文ずつにまとめて三分で構成することができます。状況によってそれを書き直せば良いでしょう。 終章 この文書では、論点の展開について以下のようなことを述べました。「問題点」は客観的な「疑問」と主観的な「意義」という要素があり、それらを要所に明確に記述する必要があります。序章では問題点の背景から入り、問題点と回答と徐々に確信に迫ります。反対に終章では回答のまとめから始まり、問題点の意義、論文の将来の展望と進みます。【回答】 論点の展開は論文の最も重要なことなので、この点の書き方の基本を理解し実行するだけで、論文の読みやすさと説得力は倍増するはずです。他の論文を見てこの文書で言っていることが実行されているかどうか判断してみてください。【意義】 最後に、もし英語を読む気力があったらぜひBooth他著『The Craft of Research』を読んでみてください。そうでなくても、この文書に書いてあることを基にご自分で、あれやこれやと工夫されれば必ずや作文力が上がるでしょう。最後に、ここでは論文の作成に限って書いていますが、学会や集会での口頭の発表についても同じ原理が応用できることでしょう。【将来】 参考文献 Booth, Wayne C., et al. 2016. The Craft of … Continue reading 論文の書き方(その1):論点の展開

西洋思想と東洋思想の接点はインドにあり

2017年12月12日(2018年8月15日若干修正) 蓮 文句 これもまた、当人の全く勝手な見解です。ことの始まりはDaniel Golemanの本「The Meditative Mind: The Varieties of Meditative Experience」にあります。Golemanはこの本の中で、瞑想には大きく2種類あると人から教わったと書いています。『1』の瞑想と『0』の瞑想があるというのです。さて、当人の解釈ですが、『1』の瞑想では、瞑想者は「神」その他の超常現象等に同化することを目指します。『0』の瞑想では、瞑想者の直接体験に基づき、瞑想者の自我が環境の中の一部として「解体」することを目指します。解体というと誤解を招きやすいのですが、自我が無くなるくなるわけではなく、普通自我と思っているものが環境の中での連鎖反応の一断面に過ぎないという見方です。『1』の瞑想の代表的なものはヨガの瞑想で、『0』の瞑想の代表的なものは仏教の瞑想でしょう。当然、ヨガも仏教も(広義の)インドが発祥の地であります。そして、当人が言いたいことは、瞑想における『1』と『0』の違いが西洋思想と東洋思想の違いを反映するということです。ちなみに、この対立は、よく言われる西洋と東洋の境界とは異なります。つまり、前者はキリスト・ユダヤ・イスラム教(一神教)に基づき後者はヒンドゥー(多神教)・仏教(無神教)に基づくという考え方とは違うということです。 まず、少し注釈を加えたいと思います。瞑想に関する手法に関しては、ヨガも仏教も多くの共通点があります。例えば、両者とも呼吸を使うのが最も一般的な方法です。また、両者とも精神集中および洞察・気づき両方の側面を重視します。瞑想中に体験する精神状態にも類似点が多く存在します。そのため、多くの人は両者の瞑想を混同しがちです。それでも、上に書いた通り目標地点に究極の違いがあるのです。同じ地域で発展し類似の形態を取りながら、どうしてこのように極端に違うゴールを目指すのか興味深いと思います。 歴史的に言えば、ヨガはヒンドゥー教(あるいはその前身)を背景に発達しました。多神教という点ではキリスト・ユダヤ・イスラム教と異なりますが、神を崇拝する点では何の相違もありません。そして、この神(あるいは神々)の崇拝の極致は自分が神になることです。この接近を限りなく求めるのが『1』の瞑想の根源と思われます。また後で述べますが、神が絡む限り必ず「助っ人」が登場することも見逃せません。これらの助っ人は、宗教家のみならず、実業家や政治家も出てきます。 仏教は、釈尊(ブッダ)がヨガ・ヒンドゥー教を含む当時の宗教・思想の問題点を打破するために始めたものです。神を祀るのではなく、現実を直接見極めることにより煩悩から解放されることを目指します。すなわち、個々人の意志・実行が強調されています。師の役割を否定するわけではありませんが、師の言っていることが正しいかどうか判断するのは個々人の責任とされています。この点で、西洋宗教でみられるような助っ人の影響は弱いと言えます。なお、仏教は釈尊が始めたものですが、同様の思想・姿勢はすでにあったものと考えられます。これは、中国他のアジア地域に共通する観点・姿勢があったことからも伺えます。 ところで、現代インド社会は大方西洋的であると言えます。これは、インド北部の人種がコーカソイドであり、言語がインド・ヨーロッパ語族に属することと無関係ではないと思います。仏教が根付かなかった理由の一つでもあるでしょう。それに対し、近隣のネパール、ブータン、ミャンマーとインドから東方に離れるにつれて東洋色が濃くなります。それにしても、世界が小さくなりどんどん現代化するにつれ、かつて東洋色が濃かった地域も西洋化してきています。世界中が西洋化してきていると言っても過言ではありません。 また、世界が現代化するにつれ、人間の使う「道具」が強力になってきています。火、言語、農業、重機、兵器、コンピュータ、インターネット、などなど。これらの道具は西洋思想の神々の助っ人たちにとっては必需品となっています。また、個々人にとって、神々に近づく手っ取り早い道具は「富」や名声です。これもまた、神々の助っ人にとってはコントロールしやすい道具のひとつです。神々を崇拝する人々にとって、現代社会は格好の領土なのです。 これに対し、当人の言う東洋思想の根底には、神々の助っ人に頼らず自分の直接体験を重視する傾向があります。個々人にとっても、富や名声より重要なものが見えるはずです。しかし、このような傾向は必ずしも現代化に即しているとは言えません。いや、弊害とさえなりかねません。世界中で巻き起こっている経済競争のなかで東洋思想が有利な訳がないのです。世界中の西洋化は免れないでしょう。問題の一つは西洋化は永遠に継続することはできないということです。これはガンが人体を蝕んでいくのと同様です。いずれは破綻するのです。極端なことを言えば、西洋化は自殺行為だということです。 それでも、西洋社会のなかでさえもささやかな東洋化の動きも見られます。中には、むやみな現代化に抵抗して、現状をもっとよく見極めようとする人々がいます。そのような人々の集まりもあります。また、神々崇拝型の従来の企業に対し、直接体験を重視するような各種の「(消費者)協同組合」が発展してきています。他国では、金融機関、住宅、各種小売業などにも見られますが、日本ではこのような企業形態は「生協」に限られるかと思っていました。ところが、日本にも大変いい例があることに後から気が付きました(2018年3月20日)。これは、日本高齢者生活協同組合連合会(高齢協、http://koreikyo.jp/)です。大変参考になりました。失礼しました。当然、他にも見逃していると思いますが。。。。 といったわけで、かつてインドで表現化した西洋・東洋の接点はもはや消滅したかのように思えますが、世界各地の小さな拠点にところを変えて依然ささやかに繰り広げられているのです。

エホバの証人の皆様へ

2017年5月10日 蓮 文句 当人の家にも時折エホバの証人の方々がお見えになります。当人が信者になる可能性は0%なので、改心が目的であればご足労ご苦労様です。 当人はエホバの証人の方々の言っているすべてのことに反対しているわけではありません。例えば、戦争に参加せず、平和な協力的な世界を目指すという点に反対の余地はありません。他にもいろいろと良いことを言っているのだと思います。 ただし、当人の一番言いたい点は以下の通りです。当人としては、聖書であろうが、コーランであろうが、憲法であろうが、誰かの書いたものを鵜呑みにすることは出来ないということです。ですから、特定の聖書を持ち出して、ここに書いてあるからそれを信じるというのは問題外であります。特に、特定の人々(例えば、同性愛者)に対して、この文書にこう書いてあるからといって他の人々と区別するというのは全く受け入れられません。当人には、その文書あるいは解釈が誤っているとしか思えません。 ある聖典が当人の信条と偶然一致する場合、その聖典を尊重することはあるかもしれません。しかし、当人の信条と行動が基づくものは、当人の直接体験に基づく「事実」なのです。この点では、仏教徒ではありませんが、仏教の教えに最も親しみを感じます。仏教の瞑想法を学び、体験すると、確かに皆が妄想に駆られて生きているのだと実感せざるを得ません。人に言われたことを鵜呑みにしてそれを真実と崇拝するのは妄想以外の何ものでもありません。残念ながら、妄想に駆られている時は真実を見る目を失ってしまっています。当人としては、一人でも多くの人が自身の直接体験に基づいて「事実」を見極め、責任のある行動をとっていただきたいと願うものです。

Right Mindfulness through Diagrams: Experimentation beyond Bare Attention

Nobo Komagata insi2.org December 30, 2015 (First written: October 22, 2014) Introduction Many of us who practice mindfulness meditation would no doubt appreciate its benefits. For example, we may be less irritated/angry, able to tolerate creepy creatures, or increasingly more comfortable with thinking about our own deaths. Each one of us must be able to … Continue reading Right Mindfulness through Diagrams: Experimentation beyond Bare Attention

Mindfulness and Flow Experience

Nobo Komagata* Sachiko Komagata+ *insi2.org +Holistic Health Studies Program, Georgian Court University First written: June 24, 2010, Last revised: July 27, 2010 Both of the notions of “mindfulness” (as discussed in the Buddhist literature) and “flow” (as discussed in positive psychology) have been quite popular for some time. While some people casually use them synonymously, … Continue reading Mindfulness and Flow Experience

Attachment and Non-Attachment: Attachment Theory and Buddhism

Nobo Komagata insi2.org First written: September 4, 2009; Last revised: October 29, 2010 Abstract While attachment is crucial in attachment theory, non-attachment is valued in Buddhism. Is there any contradiction between these two? For example, would it be absurd to pursue both attachment and non-attachment, as can be seen in the practice of mindful parenting? … Continue reading Attachment and Non-Attachment: Attachment Theory and Buddhism