ひとみの部屋

― 短編小説 ―

2022年3月31日

珠 実と里


1.男の子

ひとみの家は、車がやっとすれ違えるくらいの小さな道に面している。そして、家自体はその道より一階分以上高いところにあるので、その道の見晴らしは良い。ただし、家への出入りは反対側のもっと狭い道からしかできない。ひとみが窓の外を除くと、いつもの男の子が下の道の反対側からひとみの家を見上げている。少しすると、男の子は動き出した。ひとみは、男の子が今度は家の反対側の道に来るに違いないと思った。

それで、家の反対側に移動して、窓からこっそり覗いていると、やっぱり、男の子が見えた。少し離れたあたりから、ちらちらとひとみの家を眺めている。それを見届けると、ひとみはサンダルをつっかけて、外に出た。郵便箱を覗いてみたが、何も入っていない。それから、おもむろに、男の子の方を向き、目を合わせた。そして、今度は、振り返ってドアに手をかけた時に、もう一度男の子の方を見つめた。男の子と視線があったとことを確認すると、ひとみは家に入ってからもドアを開けっ放しにしておいた。

男の子は、興味津々の様子でひとみのことを見ていたが、開けっ放しのドアに誘われるように、そこまでやってきた。そして、ドアの外から家の中を覗くと、中には待ち構えるようにひとみが立っていた。男の子が少しうろたえたような表情をすると、ひとみは問いただした。

「きみ、何してたの?」
男の子は戸惑った様子で、何も返事をしない。ひとみはもう一度聞いた。
「ねぇ、何してたの?」
男の子は、仕方ないという様子で答えた。
「なんにも」

ひとみはその答えを真に受ける訳はなかったが、やっと男の子の声を聞いて少し安心した。
「あがっていいよ」
男の子はかなりびっくりしているようだったが、靴を脱いで、言われた通りにした。
「こっち」
ひとみは男の子を台所に連れて行った。
「水飲む?」
男の子はうなずいた。ひとみはコップに水を注いで渡すと、男の子は一気に飲み干した。そして、急に落ち着いた様子で、「あー!」と声を発した。

ひとみは笑い出したい気分だったが、それを抑えて質問を続けた。
「ねぇ、わたしのことが気になってるの?」
男の子は、また黙ってしまった。
「いいんだよ、ホントのこと言って。わたしのことが気になってんでしょ? いつも見てるの、知ってるんだから」

すると、仕方がないと言った様子で、男の子が口を開いた。
「うん、気になってる。ひとみさん、きれいだよね」
ひとみは、思わず吹き出した。
「あー、おかしい! やっと口を開いたと思ったら、ずいぶんと大胆じゃない。ところで、どうして、わたしのこと、知ってるの? きみ、一年生でしょ?」
「だってぇ、みんな知ってるよ。ひとみさん、きれいだから。それから、そう、ぼくは一年だけど」

ふ〜んと言った顔をして、ひとみが急に切り替えした。
「ふ〜ん。富井君でしょ?」
男の子はびっくり仰天した様子だった。
「え〜、どうして、ぼくのこと、知ってるの?」
「みんな知ってるよ。だって、富井君、可愛いじゃない。わたし達、二年になった時、みんなで、可愛い新入生をリストアップしたんだから。それに、きみ、この前の陸上競技会の時、幅跳びで二位だったでしょ。運動神経もいいね」
男の子は目を丸くして、驚きが隠せない。そして、何か言うことを探しているようだ。

「他に誰もいないの?」
「あぁ、うち? わたしはお母さんと二人だけで、お母さんは夕飯時にならないと帰らないから。わたし、ずっと鍵っ子だから」
「さびしくない?」
「ん〜? だって、それが当たり前なんだから。でも、今は、きみと二人だけどね」
男の子は顔を赤らめた。そして、何かが必要だという表情で言った。
「水、もう一杯くれる?」

「はいっ。よっぽど、のどが渇いてるんだね。それとも、緊張しているわけ?」
男の子は、一気に水を飲み干した。そして、また、「あー!」と言った。
「ここで、突っ立ってるのも変だから、そこの椅子に座ってもいいよ」
男の子は黙って言われたとおりにした。ひとみは小さなテーブルの反対側にあったもう一つの椅子に座った。しばらくの間、二人共、何も口をきかなかった。

「あ〜ぁ。きみ、せっかく来たんだから、なんか話してよ。うちはどこ?」
「う〜んと、団地のはじっこにある住宅地。バス通りの少し手前の、川沿いだけど」
「ふ〜ん。あの辺の住宅地、みんな大きな家だよね、ここらへんとちがって」
「そんなことないよ。普通だよ」

「きみ、運動神経いいくせに、部活やってないの? 放課後、こんなところをうろついちゃってさ」
「最初サッカー部に入ったんだけど、すぐ辞めちゃった。運動部はあまり性に合わないと思う」
「ふ〜ん。もったいないじゃない。サッカー部に入っていたほうがもてるんじゃない?」
「え〜?! そんなこと考えもしなかった。ねぇ、ひとみさん、何やってんの?」
「なんにも。きみはもう見たことあると思うけど、時々、友達のミッカとブラブラするだけ。わたしは勉強も運動もできないし、特に取り柄もないから」
「そんなー! ひとみさん、きれいだよね」
「きみ、ずいぶんわたしのこと気に入ってるみたいだね」
「うん! こうやって、話ができるなんて、嘘みたい」
「じゃ、よかったじゃない。わたしだって、いやじゃないよ。やっぱり、ひとりだと、寂しい時もあるから」

その後も、なんだかんだと話をしているうちに、夕刻になった。
「ぼく、そろそろ帰らないと」
「そうだね。わたしのお母さんも帰って来るから、わたし、何か準備するんだから」
「えっ? 食事のこと?」
「うん。まぁね。簡単なものだけ。今度、何かつくっててあげるよ」
「えっ、また来ていいの?」
「うん。また来て。え〜と、明日、学校終わったら、校門のところで待ち合わせしようか?」
「ほんとー?! 一緒に来ていいの?」
「うん。気になる?」
「ちょっと照れるけど。みんな見てるよね?」
「そうかも。でも、いいよね、一緒に帰ったって」
「うん。嘘みたいだ、外でひとみさんと一緒に歩けるなんて」

2.放課後

次の日、学校が終わって、ひとみが校門のところに来ると、すでに富井が待っていた。ひとみが駆け寄って一緒に歩き始めると、やはり、周りの視線が集まっているのは明らかだった。それでも、二人共気にしないふりをして、ひとみの家へ向かった。

昨日と違い、二人共、当たり前のようにひとみの家に入り、台所の椅子に座った。その途端に、ひとみが笑いだした。
「何がおかしいの?」
「え〜! だって、今日のわたしたち、まるでずっと付き合ってるみたいにしているじゃない。昨日のきみのことを思い出したら、おかしくなっちゃった」
「そうだよね。ところで、水飲んでいい?」
「あれっ、やっぱり、喉乾いているんだ」

「うん。そうだよ。やっぱり。で〜、昨日さぁ、ひとみさん、ぼくが来た途端に水くれたじゃない。それって、凄いことだよねぇ。どうして、ぼくが喉乾いているって分かったの?」
「大したことじゃないよ。だって、きみ、水の中からすくい出した金魚みたいな顔してたから」
「ほんとにぃ? ぼく、よっぽど情けなかったんだね。可哀想になっちゃったわけ?」
「うん、ちょっとね」
「すごいねぇ! やっぱり、二年生のお姉さんだね。ぼくはまだ小学生気分が抜けきれてないかも……」
「いいよ、それで。可愛いから。わたしが、可愛がってあげるから」

それを聞いて、富井はなんとも言えない顔をした。彼には、ひとみの言ったことの意味がはっきり分からないどころか、全く想像が出来なかった。でも、それを詮索する勇気があるわけでもなく、もう一杯水をもらって飲み干した。

その後、しばらく沈黙が続いた。お互いに、時々、相手の顔色を伺っているが、何を喋ったらいいかよくわからないと言った感じだった。ずいぶんと経ってから、ひとみが突然に口を開いた。
「ねぇ、こっちに来ていいよ」
ひとみは、さっさと立ち上がると、台所から出ていった。富井は、慌てて、ついていった。ひとみは狭い廊下を通って、自分の部屋に入り、富井を中に入れるとドアを閉めた。

それは、かなり小さな部屋だった。中には、子供用かと思われるような小さなベッドと、勉強机、そして、小さな洋服ダンスがあった。壁には小さな男の子が好むような壁紙が貼ってあった。ほとんど少女趣味のものはなく、とても、女子中学生の部屋とは思えなかった。ひとみは、富井の反応を面白がっているようだった。ひとみは、富井をベッドの端に座らせ、自分も隣に座った。

「女の子の部屋じゃないみたいでしょ?」
「うん〜。そうだね。これ、ひとみさんの趣味なの?」
「べつに。前の家族が住んでいた時、ここは、小さな男の子の部屋だったんだって。わたし達は、引っ越してきても、模様替えをするお金もなかったし、そのままになってるの。でも、自分の部屋があるだけでいいんだ」
「そうだよね! ぼくは、小学校に入るまで、弟と一緒の部屋だったけど、ほんとーに、やだったよ」
「そうだったの? でも、兄弟姉妹がいた方がいいこともあるよね?」
「そうかもしれないけど、ぼくはいらない。でも、ひとみさんみたいなお姉さんだったら、いいけど」

「きみ、わたしのこと、お姉さんのつもりでいるの?」
「う〜ん。そういうわけじゃないよ。それより、ぼく達、友達になったよね! 一緒に学校から帰ったり、もう、友達だよね?!」
「うん。そうだね。友達だね」
その後、二人は、ひとみは部屋の中にあるものについて、一つづつ話をしていった。

その後、突然、ひとみが富井のカバンを取り上げて言った。
「ちょっと、きみのカバンの検査をするよ」
「えっ? いいけど。どうして?」
「どうしても」
ひとみは、富井のカバンの中からいろいろと取り出して、詮索を始めた。筆箱を取り出した時は、ジッパーを開け、鉛筆を点検するような様子だった。
「みんな、折れてるじゃない。どうしたの?」
「うん。悪い友達に折られちゃった」
「これじゃ、使い物にならないから、わたしが削ってあげようか」
ひとみは、自分の筆箱から持ち運び用の鉛筆削りを取り出し、富井の鉛筆を一本ずつ入れてきれいに削ってあげた。
「これでいい?」
「ありがとう。ひとみさん、やっぱり、お姉さんみたいだね」
「それを言うんだったら、きみは、まだ、小学生に毛が生えたようなもんだよね」
「そんなー! ちゃんと声変わりもしたし、体だって、大きくなってるじゃない」
「ほんとかな? 今度、身体検査をしないとね」

それからと言うもの、二人は、放課後は必ず校門のところで待ち合わせ、ひとみの家に行き、台所で水を飲んでから、ひとみの部屋で、二人だけの時間を過ごすのだった。


3.夏休みの昼食

夏休みに入ると、富井は朝からひとみの家に行くようになった。時間はたっぷりあるので、家の中だけでなく、近くをうろついたり、駅のそばのスーパーに涼みに行ったり、また、雨の日は富井の持ってきたゲームをしたりもした。

そして、昼時になると、ひとみが昼食を作るのが決まりとなった。ひとみが一番最初に作ったのは、きゅうりの塩漬けだった。まず、きゅうりのへたを切り取り、縦に線が入るような要領で皮を一部だけ剥く。そして、たっぷりと塩をまぶして、しっかりもんだ後、しばらくそのままにしておいてから、二人で食べ始めた。
「あ〜、おいしい。こんなにおいしいきゅうり食べたことないよ」
「よかった、気に入って。かぶりつきがいいんだよね。でも、きゅうりだけじゃお腹すくから、もう一つ出すね」
今度は、きゅうりを用意している間に電気釜で炊いておいたご飯を酢飯にし、ザーサイを入れた手巻き寿司を出してくれた。ひとみはなんでも寿司ネタにしてしまう。
「これも、がぶりついてね。そして、ザーサイが好きだったら、おにぎりにしたっていいんだよ。わたしの好きな中身は、ザーサイとオリーブ!」
「へ〜、梅干しとかサケとかじゃないところが面白いね」

次の日は、バナナ・クレープだった。ひとみは、小麦粉と卵と牛乳をボールに入れてかき混ぜ始めた。
「きみ、ちょっと手伝っってくれる?」
ひとみは、ボールと泡立て器を富井に渡した。富井は、かき混ぜ始めたのだが、あまりに不慣れな手付きだった。
「きみ、料理したことないの?」
「う〜ん。だって、男だから」
「だめだよ、それじゃ。これからは、男女同権、男だろうが、女だろうが、何でも一緒にやらないと」
「ふ〜ん。そういうもんかなぁ。じゃぁ、教えてよ」

それを聞くと、ひとみは富井の後ろに周って、富井の右手を掴んで、泡立て器を一緒に回し始めた。すると、手を動かすにたびに、二人の体も動き、富井は、背中にひとみの胸と腰を感じた。そして、段々とひとみの息がハーハーしてくると、富井は首筋にそれを感じて、思わず声を出した。
「アッ!!」
ひとみは驚いて手を止めた。
「どうしたの? 何が、『アッ』なの?」
「あ……、せ……、いや、なんでも」
「きみ、変だよ。とにかく、もっと続けるよ」

生地が出来ると、ひとみは、それをフライパンにたらし、さっと両面を焼いた。そして、その最後に、板チョコを溶かしながら片面全部に塗った。それを皿にとって、皮を剥いたバナナを丸ごとくるんで、ホイップクリームをかけて、出来上がり。
「ひとみさん、ナイフとフォークある?」
これを聞いて、ひとみは大笑いだった。
「きみ、これはね、こうやって食べるんだよ」
ひとみは、両手でクレープを掴んで端からかぶりついた。

そのまた次の日、ひとみはいいことを思いついたという顔つきで言った。

「この前は、フランス風だったけど、今日は、スペイン風でいこうか。きみ、チュロス食べたことある?」
「何、それ?」
「一言で言えば、ドーナツを真っ直ぐにしたようなものかな。でも、一番の特徴は、表面がギザギザなことかも」

説明をおえると、ひとみは材料をまぜあわせ始めた。
「きみ、またかき混ぜて」
富井は、もう、一人でも出来るとは思ったのだが、前日のことを思い出して、わざとうまくかき混ぜられないふりをした。
「きみ! なかなか覚えられない人だね!」
ひとみは、この時も富井の後ろに来て、一緒にかき混ぜ始めた。富井は、ひとみの体と息を感じて、密かにほくそ笑んでいた。

それが出来ると、ひとみは星型の絞り器を使って、表面にギザギザをつけ、油でサッと揚げた。最後に、シナモンと砂糖をふりかけ、お皿に盛り付けた。
「はいっ! 流石に、今日はナイフとフォークとは言わないよね!」
「分かってるよ。いただきま〜す!」
二人は、チュロスにかぶりついた。

ひとみが次に取り掛かったのは、ベトナム風生春巻きだった。豚肉とエビを調理し、刻んだ人参と春雨も入れる。ベトナム風の薬味はなかったので、三つ葉で代用した。タレには、カタクチイワシのエキスと砂糖、それにライムを絞ったものと、にんにくをすったものを加える。
「ひとみさん、いろんなもの作れるね。ひとみさんをお嫁さんにもらう人は幸せだね!」
「きみ! まだ女が料理するものだと思ってるの?! これからの世の中はそうじゃないんだから。わたしは、たまたまお母さんが夜まで働いているから、食事を用意しないとならないの。そして、今はね、可愛いきみのためにやってんだから。一応、努力してるんだよ!」
「はい、はい。ひとみさんの努力の結果、特別にありがたくいただきます」
二人は、さっそく春巻きにかぶりついた。

ひとみの料理は続いた。
「今日からは、少し違うタイプのものを作ろう。今日は、イタリア風で、シェル・パスタのチーズ詰めにしよう」
「わ〜、良く分からないけど、しゃれてるね」
ひとみは、貝殻の形をしたかなり大きめのパスタを持ってきて、ゆで始めた。固めにゆであげた後、中にモザレラとパルメザン・チーズを入れて、トースターで焼き始めた。
「普通は、リコッタ・チーズを使うんだけど、わたしは、その代わりに、パルメザンを入れるの。その方が、味が鋭くなるから」
「へ〜、料理研究家みたいだね」
「えへへ。気に入ってくれるといいなぁ」

焼き上がったパスタには、ひとみが前日の夕食に使ったパスタソースの残りを掛けてお皿によそった。
「ひとみさん、ひょっとして、これもかぶりつくの?」
「やっだー! これは、別。はいっ。ここにフォークがあるからこれで食べて。これは、貝殻の中をやさしく撫で回してから食べてね」

その次の日は、メキシコ風だった。ピーマンの中に、ひき肉と玉ねぎを炒めたものを詰めて、チリとか、メキシコ風のスパイスで味をつけて、チーズをのせて焼き上げる。そのまた次の日は、はまぐりの酒蒸しだった。
「すごい! ぼくは、はまぐり大好きなんだ。でも、高いからうちではめったに買ってくれないよ」
「そうだよね。うちでも、めったに食べない。でもね、今日は特別。きみの誕生日だから。昨日の夜、特別に買いに行ったんだよ!」
「えー! どうしてぼくの誕生日知ってたの?」
「内緒。わたしだって、ちょっとした情報網はあるんだから。はまぐりを殻から丁寧にもぎ取ってね。それから、おつゆをご飯にかけて、三つ葉と塩を少々ふってから食べてね」
「ありがとう! いただきます」

この、昼食の体験を通して、二人の仲は更に深まったようだ。

「ひとみさん、ほんとにいろんな物作れるね」
「お母さんが、料理の本を買ってくれたから。でも、お母さんには、それが自分のためでもあるからね。とにかく、きみが喜んで何でも食べてくれたから、すごく嬉しい!」

4.川遊びの写真

夏休みも中盤に差し掛かり、お盆休みの時期が来た。ひとみは一週間、母と茨城の実家に、富井は二週間、家族と車で北海道に出かけた。その後、二人共帰ってきて、さっそく富井がひとみの家を訪れた。
「きみ、北海道楽しかった?」
「うん。すごくいいところだった。広々として、日本じゃないみたいだったよ。でも〜、ひとみさんがいたらもっとよかったんだけど」
「わたしもね、いつも、いつも、きみのことを考えてたんだから。一緒に来れたらな〜って。それから、ここに、いなかの写真があるから、見る?」

ひとみは、何枚か写真を見せた。富井は何気なく見ていたが、最後の写真に目が釘付けになった。
「どうしたの?」
「これ、どこ? この男の子達、だれ?」
「あ〜、それは、実家の近くの那珂川で泳いだとき。その男の子達は、わたしの従兄弟達。やっぱり、お盆休みで来てたから」
「へー。いいな、ひとみさんの従兄弟達。ひとみさんの水着姿が見れて……」
富井は真剣に羨ましがっている。

それを聞いて、ひとみは思わず口に出した。
「きみにも、見せてあげるよ」
「えっ?!」
富井は目を白黒させて動揺している。
「ちょっと外に出てて。今着替えるから」

しばらくして、ひとみが声を出した。
「もーいーよ」
ひとみはドアを開けて、富井をまた部屋に入れた。
「どう? 満足した? これ、あの写真のと違うでしょ? 実は、つい最近、お母さんが季節の終わりの安売りで買ってきてくれたの。ビキニは初めてなんだ。それに……、これ、中学生には、ちょっと露出度が〜。この辺ちょっとずれたら……」
ひとみは、水着の端をつまんで見せた。富井は、目を見張った。
「あれっ? どうしたの? もしかして、見えちゃったの? きみ、見たんでしょ!」
富井はひとみの方を凝視したまま、棒立ちになっていた。
「ところで、きみ、どうして、そんなに、かしこまってるの?」
ひとみは、じっくりと富井のことを観察してから、おもむろに言った。
「ははぁ! きみ、ズボンがきつそうじゃない。ちょっと、ここに座って」
ひとみは、富井を無理やりベッドに座らせてから、いたずらをするような口調で言った。
「えへ、わたしがゆるめてあげるから。そして、わたしも……」
好奇心のかたまりとなったひとみは、勝手に手を伸ばして、言った通りの事をした。無防備な富井はと言えば、もう現実か夢か、分からないような状態だった。

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ひとみの母親が帰ってくる時間が近づいてくると、富井は、やっとの思いで、帰る支度を始めた。
「ひとみさん……」
「何?」
「ぼく達、まだ友達だよね?」
「当たり前じゃない。どうしたの? 急に」
「だって、友達同士って、見たりしないよね?」
「あ〜、そういうこと? で、見ちゃいけないの?」
「あっ、その〜。そういう訳じゃないんだけど。それは、したいんだけど、なんか、今までと変わっちゃうんじゃないかと……」
「ふ〜ん。変わっちゃうねぇ〜。え〜と、確かにそうかもね!」
「えっ?!」
「わたし達、お互いに、もう隠すもの、ないんだから。もしかして……、恋人?」

富井は、夢うつつだった。
「恋人……」
それは、その時まで、富井には思いもつかない言葉だった。
「うん。恋人! 文句ある?」
富井は、恥ずかしそうな顔をして、それから、満面の笑顔を浮かべた。
「ひとみさん、大好きだよ!」
そう言うと、富井は思い切って、ひとみの家を出ていった。足取りは軽く、思わずスキップになっていた。富井が出ていった後、ひとみは一人でボーッとしていた。それで、なかなか夕食の準備にかかれなかった。母親は、帰ってきた時、口を開けてぼんやりしているひとみを見て、怪訝そうな顔をした。

5.母親の彼氏

夏休みが終わり、秋になった。その日、ひとみが富井と一緒にひとみの家に向かっている時、やけに気難しそうな顔で話し始めた。
「きみ、事件なんだけど」
「何? なんのこと?」
「実は、この前の日曜日にわたしのお母さんが男の人をうちに連れてきたの。仲良くなったみたいなの」
「うん、それで? いいことだよね?」
「う〜ん。そうじゃないんだから。だって、来週からうちに住むって言うんだよ!」
「えー! ほんと?」
「それだけじゃないの。その人、警備会社で夜働いているんだって。だから、昼の間、うちにいることになるんだって」
「それって、もしかして、放課後の時間も?」
「そうなの!!」
「それは、確かに事件だ。ぼく達どうする?」

二人は、しばらく黙って歩いた。ひとみの家に着いた時、富井がアイデアを出した。
「ねぇ、ひとみさん、とりあえず、来週は、ぼくの家に来ない? その間に、何か考えようよ」
「うん。とりあえず、そうしようか」

次の週の月曜日、学校が終わると、二人は一緒に富井の家に向かった。富井が初めて女の子を連れてきたのを見て、母親はかなりびっくりしているようだった。
「あらっ、いらっしゃい。お友達?」
「うん。ひとみさんって言うんだ」
「ひとみです。こんにちは」
「どうぞ、あがって」

二人はさっさと富井の部屋に入った。
「やっぱり、きみの家、大きいね」
「そんなことないよ。とにかく自分の部屋があればいいんだ」
「そうだよね」
そんな話をしているうちに、遊びから帰ってきた富井の弟が、ノックもせずに部屋に入ってきた。
「お前、おれの部屋に入るときはノックしろって言ってるだろ!」
「お兄ちゃん、ちょっと、ゲーム貸して」
「ほらっ、持っていけ」

弟が出ていってから、ひとみが笑いだした。
「ひとみさん、何がおかしいの?」
「だって、きみ、ずいぶんと偉そうにしているから。でも、あの弟君、きみの言うことを聞きそうにないね」
「全くしょうがないやつなんだ。うちの前の川に投げ込んでやりたいよ」
「やだー。そんなこと言わないでよ。可愛いじゃない」
「ひとみさん、待ってよ! ぼくより可愛いなんて言わないよね?!」
「きみと比べているわけじゃないよ。だって、まだ、小さいじゃない」
「そうだけど、生意気さと言ったら、一人前以上なんだよ。やだ、やだ!」

そうしているうちに、また、弟がノックもせずに入ってきた。
「お兄ちゃん、ゲームの充電器、貸して。バッテリーが切れちゃった」
「うるさいやつだな、全く。ほれっ。もう来るなよ」
「なんで来ちゃいけないの? 何も悪いことしてないのに!」
「こいつ! いい加減にしろ! 早く出て行け!!」

ひとみはまたすぐに笑いだした。富井は気に食わない顔で言った。
「おかしくないよ、全く」
「そうかもね。あの調子で、一日中相手をさせられてたら、確かに参っちゃうかもね。わたしは、一人っ子だから、想像も出来なかったけど」
「あいつ、今度来たら、サーカスに売り飛ばしてやる!」
「きみ、ずいぶんといろいろな手があるんだね」
「へへへ、もっと残酷な手もあるんだけど、ひとみさんには言えないかな」

少しすると、今度は、富井の母親が来た。さすがに、母親はノックをしてから入ってきた。
「おやつはどう? ジュースとクッキー持ってきたわよ」
「ありがとうございます。いただきます」

母親が出ていくと、富井はもう我慢が出来ないと言う様子だった。
「ひとみさんは、いいなぁ。ひとみさんの家はいいなー。誰も邪魔者がいなくて、あそこだったら、ぼく達、好きなことが出来るんだけど」
「そうだよね。今となっては、わたし達、プライバシーが必要だから。でもさ〜、お母さんの彼氏、なんとかならないかなぁ〜」
「あ〜、それで思い出したんだけど、今度の金曜日の放課後すぐに、ぼく、歯医者に行かないとならないんだ。虫歯の詰物が取れちゃったんで、直してもらうことになった」
「え〜〜! じゃ、わたし、一人で家に帰らないとならないの?」
「うん。でも、歯医者が終わり次第、ひとみさんのところに行くよ。多分、一時間はかからないと思うんだ」
「仕方がないかなぁ。早く来てね」

その金曜日、ひとみは、一人で家に帰った。そこには、母親の新しい彼氏が寝ているはずだ。ひとみは、なるべく音を立てないように、そーっと自分の部屋にこもった。しばらくした時に、台所に飲み物を取りに行くと、母親の彼氏もそこに現れた。
「やー、ひとみちゃん。学校はどう?」
「普通です」
「あっ、そう。その、普通って、ほんとうは、どういう意味なのかな? 若い子がよく使うよね」
どうやら、彼氏は、ひとみと話をしたがってる。反対に、ひとみは、一刻も早く自分の部屋に戻りたかった。
「そんなに急がなくても、ちょっとここに座って話でもしようよ」

ひとみは、嫌な気配を感じた。それで、すうーっと、そこを抜け出そうとした。ところが、彼氏は、急にひとみの腕を掴んで、無理矢理にテーブルのところに座らせた。ひとみは、ますます不安になってきた。「この人は、いったい何をしようとしているのか?」そう思いながら、すきを見て逃げ出そうとしていた。彼氏は、そんなことはお構いなしに、ひとみにいろいろと聞いてくる。そして、段々と、椅子の位置を動かして、ひとみに近寄ってきた。
「ねぇ、ひとみちゃん、お母さんまだ帰ってこないから、おじさんとちょっと仲良くしようよ」

これを聞いた時、ひとみは完全に「やばい!」と思い、彼氏を押し倒して、玄関から、裸足で逃げ出した。彼氏は、一瞬、たじろいだようだったが、それでも、「ひとみちゃ〜ん!」と言って追いかけてくる。

ちょうどその時、近くに富井が見えた。
「きみーっ! 助けて!!!」
富井は事情が分からなかったのだが、ひとみの叫び声を聞いて、非常事態だと言うことは飲み込んだ。すぐにひとみのところに駆け寄り、ひとみが指差す方を見ると、中年の男がこちらに向かって、小走りにやってくる。この時、富井はひとみが裸足なことに気がついた。
「ひとみさん、靴取ってくる」
「だめ、だめ! あの男に捕まる!!」

ちょうどこの時、近所で評判の武術ばあさんが、背中に木刀をしょって、自転車で通りかかった。富井は、この人を止めて助けを求めた。
「すいません。ひとみさんが、あの男に追いかけられているみたいなんです。助けて下さい!」
武術ばあさんは、自転車に乗ったまま言った。
「よっしゃー! あの男は、あたしが食い止めよう。その間に、近くの家から110番してもらいなさい」
武術ばあさんは、自転車で男のところまで行き、さっそうと降りると、木刀で男を叩き始めた。男は、「いてっ! イテッ! 何すんだよ、このくそババア!」と叫び続けた。その間に、ひとみと富井は、ひとみの知っている近所の家のドアを叩いて、警察を呼んでもらった。

間もなく、駅前の交番から警察官が自転車でやってきた。その後暫くして、パトカーも来た。ひとみの母親の彼氏は、武術ばあさんに叩きのめされ、道に横たわっていた。そこで警察官に取り押さえられ、警察署に身柄拘束されるようだった。

ひとみと富井のところに来たもう一人の警察官は、ひとみに、警察署で事情聴取をしたいと言った。富井もそこに居合わせたということで、一緒に警察署に同行することになった。同時に、仕事中のひとみの母親にも連絡がいき、彼女も仕事を抜け出して警察署に駆けつけた。

事情聴取の後、ひとみの母親は、警察署から出るとすぐに泣き出した。ひとみは慰めようとした。
「お母さん、泣かないで。もう、終わったことだから」
「……。ひとみちゃん、ほんとうにごめんなさい。私、自分の事ばかり考えて、あんな男をうちに泊まらせて。もし、ひとみちゃんの身に何か起こっていたら、私、生きた心地もしないわ」
「お母さん、わたし、大丈夫だったんだから。お母さんだって、お父さんが死んでから、一人でわたしのことを育ててくれて、大変だったじゃない。お母さんだって、少しぐらい楽しみがあったっていいじゃない」
「でも、ひとみちゃんが一番。そのためだったら、私はどんなことだって……」
ずいぶん長いことかかって、ひとみの母親は泣き止み、少し落ち着いたようだった。
「ところで、こちらは?」
母親は、富井の方を向いて言った。即座に、ひとみが答えた。
「富井君って言うの。わたしのこ……、か……、ボ……、友達。わたしの一番の友達。今日はね、歯医者さんが終わってから、うちに寄ってくれたの。それで、富井君のおかげで、なんとかあの男から逃れられたの」
「あら〜、富井さん、ほんとうに、どうもありがとう。いつからお友達なの?」
「え〜と。一学期の途中からです」
「すると、もう、半年ぐらい付き合ってるのね。私、全然知らなかったわ。同じクラスなの?」
「え〜と。あの〜」
富井が少しためらっていたところ、ひとみが口を挟んだ。
「富井君、まだ一年生なの。可愛いでしょ?」
「そうね。そうだったの。じゃ、どうして知り合ったの?」
「お母さん、もうそのぐらいでいいでしょう?」
「あっ、ごめんなさい。やっぱり、可愛い娘のお友達と聞いて、興味が湧いちゃったのよ。でも、二人が仲良しならいいわよね」

いずれにしても、これで、ひとみと富井の放課後のひと時が戻りそうだった。

6.バレンタインデー

ひとみは、二年の冬のバレンタインデーの日に、富井にチョコレートを手渡した。それは、ごく普通の板チョコだった。ところが、次の日、ひとみは、富井が他の女の子からもチョコレートをもらったと言う噂を聞いた。それで、気になり始めた。
「きみ、誰か他の子からもチョコレートもらったんだって?」
「う〜……」
「ちょっと! 何なの? その答えは。ちゃんと教えてよ」
「うん。隣のクラスの女の子なんだけど……」
「どんなのもらったの?」
「ちょっと高そうなやつ。黒い箱に何種類も入ってるような」
「そんなー! わたしの板チョコじゃ勝ち目がないじゃない。やだー!」
「変なこと言わないでよ。ぼくは、チョコレートなんかで釣られるわけないんだけど」
「ほんとにそうだといいな!」

さて、次の日、ひとみがいつものように校門のところで待っていても、なかなか富井が来なかった。30分ほど待っても来ないので、がっかりして一人で歩き始めた。すると、少し歩いたところで、はぁはぁしながら、富井が走ってきた。
「ごめん、ごめん。今日から、三日間、環境整備委員会があるんだ。急に言われたんだよ。部活やってる連中は、文句たらたらで……」
「そうだったの? もう、一緒に帰ってくれないのかと思った」
「そんなぁ! なんでそんなこと考えるの? ぼく達、こ……、だよね」
「うん。でも、なんとなく、邪魔が入って来たような気がして」
「ひょっとして、隣のクラスの子のこと?」
「うん。なんとなく。不安なの」
「心配いらないよ。ぼくを信用してよ!」

次の日、富井は委員会のため、ひとみの家に遅れて来た。
「委員会だから、仕方がないかもしれないけど……。なんだか寂しいなぁ」
三日目、ひとみは、一人で帰るのも寂しいので、富井が来るまで、ずっと校門で待っていることにした。すると、富井が校舎を出てきた時、他の女の子と一緒だった。ひとみは、それがバレンタイデーにチョコをもらった女の子だと直感した。富井は、ひとみがまだ待っているところを見つけると、驚いた様子だったが、その女の子に手を振って、慌ててひとみのところに走って来た。ひとみは怒っている様子で、腕を組んで、そこを動こうとしない。
「ひとみさん、怒ってるの? ぼく、どうしたらいい?」
「きみ、信用してくれとか言っておして、実は、二股かけてるんじゃない? どうして、あの子と出てきたの?」
「それは〜、あの子も環境整備委員だから。いつも、ぼくの隣にすわるんだよ。となりのクラスだから、仕方がないんだ。でも、今、見たでしょ? ぼく、あの子にすぐ、バイバイしたじゃない」
「なんだか、わたし、悲しくなってきちゃった。きみっ! お仕置きするよ!」
「えっ? なんで? ぼく、悪いことした?」
「なんでも。怪しげなことをしているから。今日から一週間、わたしのうちに来ないで!」
「えー! そんなぁ!! ひとみさん、かんべんしてよ。お願いだからさぁ!」
「じゃぁね、来週まで。バイバイ」
そう言って、ひとみは一人で帰ってしまった。富井は、うなだれて自分の家に向かった。

ひとみは、家に帰ってから、友達のミッカに電話した。そして、次の日から、富井が放課後どういう行動をするか、偵察してもらうように頼んだ。さて、その次の日、ミッカからひとみに電話があった。
「ひとみ、富井君のことだけどぉ、ちょっとかわいそうじゃない? 今日さぁ、学校が終わって家まで帰るところをつけていったんだけど、うつむいちゃって、泣きそうだったよ。いや、途中、誰もいないようなところでは、絶対泣いてたよ。両手でしきりに目をこすっていたもん。あの子、ものすごく落ち込んでるよ。そのままにしておいたら、ほんとに例のバレンタインデーの子に取られちゃうかもよ?」
これを聞いて、ひとみはいてもたってもいられなくなった。正直言って、富井がかわいそうなのか、富井を他の子に取られたくない自分の勝手なのかは分からなかったが、ひとみは、無性に不安になってきた。とても、一週間、このままにしておくことは出来ないと感じた。

それで、ひとみは、慌てて富井の家に行き、富井を呼び出した。富井は完全に、しょげている。ひとみは、富井を誘って一緒に川沿いを歩いた。
「ねぇ、わたし、きみにひどいことをしちゃったよね。許してくれる? わたし、あの子のことで、気が動揺しちゃって、とんでもないことをしちゃったんだから……」
富井はまだ黙っている。
「きみ、わたし、謝ってるんだよ? 許してくれるよね? どうしたらいいの?」
すると、富井がやっとの思いで口を開いた。
「ひとみさんが悪いんじゃないよ。ひとみさんを不安にさせるようなことをしておいて気が付かなかった、ぼくが悪いんだよ。自業自得だよ。でも、ぼくは、二股にかけようなんて、これっぽっちも思っていなかったよ。ほんとは、分かってるよね、ひとみさん?」
「うん。多分。わたし、不安になって、正気じゃなくなっちゃったんだと思う。ごめんなさい。仲直り、してくれる?」
「うん。ぼく達、やっぱり、こ……、だよね?」
それで、二人は手をつないで、家路に着いた。

7.母親への贈り物

ひとみは、母親が彼氏と別れなければならなくなってから、何か母親を助けることが出来ないかと考えていた。そして、三年の夏、一つのアイデアが浮かんだ。母親は、電車とバスを使って仕事に行っているのだが、あまり便が良くなくて、かなりの時間がかかる。距離的には大したことはないので、もし、原付きでもあれば、ずっと時間の短縮になると思いついた。ただし、ひとみに原付きを買うだけの貯金はない。それで、もうじき、夏休みになるので、その間にバイトをしようと計画を初めた。

それで、ひとみは、富井にその事を話した。

「きみ、ちょっと相談があるんだけど」
「どうしたの?」
「わたし、夏休みに、バイトをしようと思うの」
「えっ、そうすると、ぼく達、一緒にいる時間が少なくなっちゃうってこと?」
「うん。それは、辛いんだけど。わたしね、お母さんこそ大変だと思って、何か出来ることがないか考えたの。それで、原付きを買ってあげれば、通勤がすごく楽になると思ったんだぁ」
「ひとみさんは、ほんとに、親思いだね。確かに、お母さんのところだったら、原付きがあれば、すぐだよね。大した距離じゃないもんね」
「そうなの。それで、辛いんだけど、夏休みの昼間、わたし達の会う時間があまりなくなっちゃうんだけど、働いてお金を貯めようと思うの」
「分かったよ。ぼくも辛いけど、それは、しかたのないことだと思う。我慢するよ」
「ありがとう」

ただ、これは、ひとみも富井も知っていることだが、中学生は法律上は働けない。それで、ひとみは年をごまかして出来るバイト先を探さなくてはならなかった。友達のミッカに、知り合いのそのまた知り合いで、電車で三駅行ったとこにある喫茶店のマネジャーを紹介してもらった。マネジャーは、年齢に目をつぶって、採用してくれるという。そして、その夏休みは、ひとみと母は、帰省せずに、家に居残ることになった。富井は、また家族と、今度は九州に二週間のドライブ旅行に出かけることになった。

ひとみは、初めて、自分で収入を得るということに満足感を味わった。何より、母親の喜ぶ顔が見たかった。仕事も順調にこなして、このままうまくいくように思われた。ただ、一つ、気になることがあった。それは、マネジャーの態度だった。働き始めてしばらくすると、マネジャーが、しきりに声を掛けてくるようになった。
「ひとみちゃん、ずいぶんうまく仕事をこなしているねぇ」
とか、
「仕事始めてから、二週間になるから、何かお祝いをしないと〜」
とか、言い始めた。

そして、実際に、二週間が過ぎると、マネジャーは、はっきりと言った。
「ひとみちゃん、じゃ、どこに行きたい? お寿司? それとも、焼き肉かなぁ?」
ひとみは困った。マネジャーはいい人だとは思うが、仕事以外で付き合うつもりは全く無い。ただ、マネジャーを怒らせたら、せっかくの仕事を失うことになるのではとも感じていた。そして、今、富井は旅行中だ。

ひとみは、あの手この手で、マネジャーの誘いを断っていたが、マネジャーは全く後に引く様子がない。そして、ある日、マネジャーは、ひとみに指輪をくれた。ひとみは、どうしても受け取りたくなかったが、断ったら、仕事も失うと思い、やむを得ず、受け取った。マネジャーは嬉しそうにしていた。それからは、仕事場でも、マネジャーが、何かと優しい声を掛けたり、時には、体に触れようとさえしてきた。ひとみは、出来るだけ巧妙にそれを避けようとしていた。

そんなことが続いていたある日、喫茶店に、突然、富井が現れた。旅行から帰ってきてすぐに、ひとみに会いに来たのだった。富井は、店のはじっこの席に座って、ひとみを待った。ひとみは、嬉しさと、マネジャーとの状態を気にする気持ちが混じり合い、うまく富井に対応できないでいた。富井はコーヒーを注文し、喫茶店の中を見回していた。その時、富井の目に入ったのは、マネジャーが異常に優しそうな顔をして、ひとみに話しかけ、その後、ひとみの肩に触れようとするところだった。ひとみは、迷惑そうな顔をして、体をかわそうとしていた。富井には、マネジャーがひとみに接近しようとしていることが明らかだった。富井は唖然とした。

富井は、ものすごく不快な気持ちに襲われ、コーヒーを飲み終わらずにそこを出た。その夜、富井のところに、ひとみから電話があった。
「きみ、マネジャーの態度見たでしょう?」
「うん。もう、耐えられなかったんだけど。ひとみさん、どうなってるの?」
「わたし、困っているの。わたしの出方次第では、仕事を辞めさせられちゃうんじゃないかと思って……」
「何かあったの?」
「う〜ん。何も。ただ、この前は指輪をもらっちゃったの。断りたかったんだけど、そうしたら、クビにされちゃうと思って、仕方がなく受け取ったの。きみ、当然やだよね、そんなの。許せない?」
「いや。そんなことは言わないけど……。ぼく、すごく不安なんだ。ひとみさんのこと、取られちゃうんじゃないかって」
「ごめん、きみのこと、不安にさせちゃって。わたし、思い出したんだけど、あの、バレンタインデーの時。あの時は、わたし、すごく不安だったじゃない。すると、今のきみも、そういう気持ちなのかなぁって。わたし、あの時すごく辛くて、きみに、ひどい仕打ちをしたよね。でも、きみは、今、不安だと言うのに、わたしに、全くひどいことをしていない。わたし、自分から、きみを不安にさせるようなことを辞めないと!」
「でも、ひとみさん、せっかくお母さんのために原付きを買ってあげようとして、バイトしているのに。ぼくが不安だからというだけの理由でそれを辞めるわけにはいかないよね」

暫く沈黙が続いた。その後、ひとみが言った。
「わたし、辞める。マネジャーにはっきり言う。だって、このままにしていたら、誰もいい思いをしないじゃない」
「ひとみさんが、そう言ってくれるのは嬉しいけど。でも、ぼくは、逆に辛い気もする」
「う〜ん。いいの。辞めたほうがいいの。分かったから。辞めたら、きみ、去年の夏みたいに、うちに来て? わたし、また、何か作るから」
「ほんとに?! 嬉しくて仕方がないよ。でも、原付きのお金なんとか出来ないかな?」
「それは、また、別のことを考えるから。今は、きみと一緒にいることが一番。だって、夏休みが始まってから、ほとんど会ってなかったじゃない。会いたかったの!」
「あー! 嬉しいな!!」
という訳で、思いがけず、また二人だけの夏休みを取り戻すことが出来た。

8.ひとみの新商売

ひとみが三年の秋のこと、友達のミッカが急に、ひとみと富井の関係に興味を示しだした。
「ねぇ、ひとみ、富井君とは実際どういう関係なの? もう一年以上付き合ってるわけだし、毎日のように家に連れ込んでるんでしょう?」
「あ〜ぁ。ミッカは最近付き合い始めたから、急に、そんなことを聞くようになっちゃって。ミッカこそどうなの? どうなってるの?」
「えへへ。秘密。だけど、うまくいっていることは確か。そして、彼氏さぁ、すごく乗り気なんだ。私が許しちゃったら、どこまでもいきそう」
「へ〜」
「でもなぁ、いいなぁ、鍵っ子って。自分の家や部屋が自由に出来るんでしょう? 私は、いつも母親の監視が厳しくて、とても彼氏を連れ込んだりすることは出来ないし。中学生じゃ、ホテルなんて訳にもいかないし。だいたい、この辺にそんなとこないよね! あ〜ぁ、彼氏連れ込めるようなところがあったらなぁ〜」

この時、ひとみの頭の中にある考えが浮かんだ。それで、思い切って言ってみた。
「ミッカ、わたしの部屋貸してあげようか? 片付けたり、掃除したりしないといけないから、タダというわけにはいかないけど。一回二時間、○×円でどう?」
「ひとみって、見かけによらず、商売根性があるんだね。それ、考えとく。さぁ、お金用意しないと」
「じゃ、使いたい時に言ってね。使う日の数日前までには言ってね。それから、わたしの部屋は、ほんとは、富井君とわたし、二人だけのとっても大事な場所だから、そのことはよ〜くわきまえてね。わたし、お金が必要じゃなかったら、こんなことする訳はないんだから」

後で、ひとみは、富井にそのことを話した。
「ひとみさん、見かけによらず、商売根性があるんだね。ぼくだったら、そんなこと思いつきもしないけど。でも、ミッカさんと、誰だか分からない彼氏、大丈夫かな?」
「うん。彼氏のことはよく知らないけど、ミッカは信頼できる友達だから」
「それならいいけど。ところで、部屋を貸している間、ぼく達はどうする?」
「そうだねぇ〜。じゃぁ、この機会にちょっと繰り出そうか。街で、ウィンドウ・ショッピングをしたり、面白そうなのがあったら、映画でもみたり……」
「そうだね。たまには、そういうのもいいかもね。じゃ、考えておこうか」

そして、数週間のうちに、実際にミッカが彼氏を連れてひとみの部屋を借りる日が来た。ひとみと富井は、街に出て、ぶらぶらとした。いつも、ひとみの部屋で過ごしていたので、たまには、外出もいいものだとさえ思った。この時、富井は、ひとみに、とても高級とは言えないが、ネックレスを買った。ひとみは、それでも大喜びだった。そして、バイト先のマネジャーからもらった指輪のことを思い出して、苦笑した。その後は、ちょっとしたゲームセンターのようなところに入って、何回かゲームをしてみた。

ひとみは、それから、何回かミッカに部屋を貸した。ひとみと富井は、ボウリングをしたり、歩いて植物公園まで行ったり、自転車に二人乗りで、あてもなくさまよったりした。大した額ではないにしても、ひとみは何もしないで収入が入ることに気を良くしていた。

ところが、ある日、ひとみが富井を連れて家に帰ってきた時、なぜか、ひとみの母親がすでに帰宅していた。そして、異様に険しい顔をしている。
「ひとみちゃん、重要な話があるの。富井君、悪いけど、今日のところは、帰ってくれますか?」
ひとみも富井も相当に慌てた。何が起こっているのか全く想像が出来なかった。

富井が帰った後、母親は、涙ぐみながら、ひとみに言った。
「ひとみちゃん……、今日、仕事中に、急に校長に呼び出されたの。ひとみちゃんが他の生徒に部屋を貸していると言われ、追求されたの。そのことが生徒の間で話題になり、その後、教職員、そして、校長の耳にまで入ったんだって。収集のつかない状態だって。私は何も知らなかったんだけど、それは、言い訳にもならないし……。兎に角、校長はカンカンで、この事件が表沙汰になれば、市の教育委員会、マスコミと、とんでもないことになるだろうって。最良の手段は、何事もなかったとして、つまり、もみ消すことだろうって。それには、わたし達が十分に離れたところに引っ越して、ひとみちゃんもそこの学校に転校することだろうって」

母親は泣き出した。ひとみは唖然として何も言えなかったが、ことの重大さが分かってくると、やはり、泣き出した。しばらくして、母親が小さな声で話を続けた。
「ひとみちゃん、私、他の生徒達のことも聞いたの。だって、心配でしょう? そうしたら、校長は、『心配しないでいい』って言うの。それはね、他の生徒達のことは目をつぶると言うことらしいの。どうやら、他の生徒達は、成績も優秀で、校長はそのまま学校に残って、いい高校に進学してほしいということらしいの。それで、母子家庭で貧しい私達が、攻撃の的になっているみたいなのよ。そんなのって、ひどいわよね! ところが、校長の言い分は、もし、ひとみちゃんが部屋貸しをしなければ、こんなことは起こらなかった。つまり、これは、すべて、うちの問題だと言うのよ。そして、校長に言われた事は、今週の終わりまでに『自主的に』引っ越すようにと……。そして、それまでの間も、家族以外の者は一切家に入れないようにとも言われたの。私、もう、抵抗することも出来なかったのよ。ひとみちゃん、私達、茨城の実家に引き取ってもらうしかなさそう……」

ひとみは自分の部屋に引きこもった。その夕方、ミッカから電話があった。
「ひとみ、大変なことになっちゃった。私、ひとみになんと弁解していいか……。うちの両親、今日、呼び出されたんだけど、校長は、私と彼氏は、注意だけで黙認すると言ったらしいの。その変わり、ひとみだけ、自主転校を強いられると聞いたの。あまりにひどすぎる。私も同じように処分されるんだったら……、それだったら、私も納得する。私、この不公平な校長の対応をマスコミにすっぱ抜いてやろうかと思うんだけど。私、もう、こんな中学に行く気がしない!」

ひとみは黙ってミッカの言うことを聞いていた。暫くの沈黙の後、静かに答えた。
「ミッカ、そう言ってくれてありがとう。でも、わたしが転校すればすむことなんだから、ミッカ、そのままにしてくれる? 校長の言うとおり、すべてわたしが悪いの。わたし、もう覚悟したから」
「でも、ひとみ、富井君はどうするの?」
それを聞いた時、ひとみは受話器を置いて、泣き出した。ミッカは何が起こっているか簡単に察しがついた。ミッカはひとみが受話器を持ち上げるのを待ってから叫んだ。
「ひとみと富井くんだけ引き裂かれるなんて不公平だよ! ひどすぎるよ!!」
「ミッカ……。わたし、どうしよう? どうしていいか分からない。それでも、ミッカ、わたしは、転校するしかないんだから」

ミッカの電話が終わってすぐに、富井からも電話があった。ひとみが、状況を説明すると、富井は完全に黙ってしまった。二人は、ほとんど何も話さずに電話を切った。

9.百キロの隔たり

その週末、ひとみと母親が引っ越す日、富井がとぼとぼとやって来た。茨城ナンバーの小さなトラックにひとみ達の荷物が積み込まれると、トラックを運転してきた人が、出発すると合図した。富井はひとみのところに走りより、手を握った。もうそのまま永遠に離れないのではないかと言うほどに強く、しっかりと握った。それでも、ひとみの母親が、無理やりひとみを引き離し、ひとみをトラックの座席の真ん中に座らせた。そして、トラックは出発した。

富井は、その後を追うように走り出し、転んだ。地面に額を打ち、血が出ていた。それでも、富井は痛みを感じなかった。それは、心の痛みに比べれば、なんでもないことだったから。

トラックの座席に座らせられたひとみは頭をダッシュボードに打ち付け始めた。心配した母親がそれを止め、ひとみを自分の懐に抱きしめた。ひとみは、大声で泣きだした。そして、水戸に着くまでの間、ずっと泣き通した。

ひとみと母親の転居先の石塚は、水戸からバスで50分以程かかる。ひとみは、ほぼ毎年、お盆と正月に帰省していたので、馴染みがないわけではない。そして、母親が手続きをして、ひとみは地元の中学校に転入した。

しかし、ひとみは、あまりに急の、あまりに残酷な変転に耐えられず、学校にはろくに行かなかった。富井も、ひとみが転校してしまってからと言うものすっかり元気がなくなってしまった。百キロの隔たりと言うものが二人に及ぼした影響は計り知れなかった。他にすべもなく、二人は、手紙のやり取りを始めた。

(富井の手紙)ひとみさん、ぼくは悲しくてしかたがない。ぼくは、あまり手紙を書いたこともないし、他になんと書いたらいいか分からないのだけど。そうだ、今度、ひとみさんの写真を送ってくれる? いままで、いつも会っていたから、写真は必要なかったことに気がついた。そして、ぼくの写真、同封したよ。

(ひとみの手紙)きみ、わたし、さびしくて、死にそう。助けて! でも、無理なことはよく分かってる。ところで、写真、ありがとう。一日中見ている。ほんとうに、すべてが変わってしまった。でも、もちろん、きみに会えないことが一番辛い。どんなに遠い所に行ったって、もし、きみがいたら、わたしは幸せだから。それから、わたしの写真、入れたからね。会いたい。またね。

ひとみが引っ越してしまってから数ヶ月たった冬の夜、めずらしく、ひとみのところに富井から電話があった。
「ひとみさん! この日曜日に、水戸に行こうと思うんだ。電車を調べたんだけど、特急で、水戸駅に10時47分に着くんだよ!」
「ほんとー! 嬉しい!! その時間に駅で待ってるからね!!!」

富井は、家を出てから二時間半ほどで水戸駅に着いた。ずいぶん前から改札の外で待ち構えていたひとみは、富井を見つけると、すぐに走って行った。二人は今にも抱き合いたい気持ちだったが、それまで二人の間を妨げていた百キロの隔たりが、今だに二人を引き裂こうとしているような気もして、素直に行動できなかった。面と向かって、何も言わずに見つめ合い続けた。暫く経ってから、ひとみが静かに「きみ」と言い、富井の手を取って歩き始めた。ひとみは、富井を、近くにある偕楽園に誘った。寒々とした冬の日なのに、梅の花が咲き始めていた。途中寒くなると、観覧中の人たちから離れて、二人は抱き合って暖め合った。その後は、水戸の駅ビルで遅い昼食をとり、富井は、ひとみにおみやげのお菓子を買った。そして、一日はあっという間に過ぎ、富井は改札を通って帰路についた。この日の出費で、富井の貯金は激減してしまった。

その春、ひとみはなんとか中学を卒業し、地元のスーパーでレジ係として働き始めた。富井は三年生になった。そして、受験で忙しくなる前にと思い、夏休みに入ってすぐに、今度は、普通電車を使って水戸まで行く計画を立てた。

富井は、家を出て、片道四時間近く掛けて、水戸までやってきた。もう昼時で、待っていたひとみとすぐに駅ビルのレストランに入った。
「ひとみさん、ぼく、もう貯金が尽きてきたよ。あの、嫌な弟からも、お金を借りたんだ。それで、悲しいけど、もう、なかなか水戸には来れないと思う」
「そうだよね。ここは、僻地だから。わたしが行くことが出来たらいいんだけど、それも無理だし……。それに、きみ、そろそろ、受験の時期だよね。頑張ってね」

昼食の後、駅ビルの中を少し歩いている間に、もう富井の帰る時間になった。駅の改札の前まで来た時、富井は、それまで握っていたひとみの手を振り払うようにして帰途についた。その後、二人の手紙のやり取りは続いたが、頻度は段々と減っていった。二人共、お互いのことを忘れはしなかったが、百キロの隔たりが、確実に二人の間を遠のけていると感じた。富井の受験が終わり、新学年が始まった頃、久しぶりに、ひとみから富井に手紙が来た。

(ひとみの手紙)わたし、ここでは、あまり楽しみもなくて、落ち込んでいたんだけど、それではいけないと思って、新しいことをはじめたの。アイルランドから来ている宣教師が、無料の英会話教室をやっていて、それに出てみることにしたの。わたし、ほんとうは英語なんかに興味があるわけではないんだけど、タダだし、少しは他の人とも接しないと思って。この教室に来る人は、先生も他の生徒たちも、みな年配ばかりで、若者は、わたしだけ。それで、皆にすごく喜ばれている。みな、いい人ばかりで、わたし、少しは元気が出てきたと思う。教室の仲間で、時々、バーベキューをしたり、車に分乗してモールに繰り出すことも。それで、わたしは、みんなの孫みたいな年だから、いつも、いつも、ごちそうしてもらったり、お土産をもらったりしているの。わたし、「ずるいみたい」と言ったら、みんなが、若い人が来てくれるだけで嬉しいって言うんだよ。それで、わたしも、ついつい、その気になっちゃって。また、書くね。

(富井の手紙)ひとみさん、英会話教室に行くようになって、よかったね。ひとみさんみたいな人が来たら、みんな喜ぶのは当然だよ。ぼくも、その教室に行きたいなぁ。ところで、やっと、受験が終わり、ぼくは、希望の高校に進学したよ。電車通学で、一時間位かかるんだ。初めは、それだけで、結構疲れちゃった。ぼくの高校は、学校行事がすごく多いんだ。新入生歓迎会に始まって、合唱祭、体育祭、演劇祭、文化祭と目白押しなんだ。そして、新入生歓迎会の時に興味を持った、コンピュータ研究部に入ったよ。今、ぼくが作っているプログラムは、飛行機で飛ぶ時の事を想定したものなんだけど、地球上の一点からもう一点に飛行するには、どの方角にどれだけの距離を飛んだらいいかを計算するんだ。そんな訳で、それなりに忙しい毎日だよ。

***筆者注:この時代の「コンピュータ」と言うのは、ホテルの部屋にある冷蔵庫程も大きいのに、計算能力はと言えば、昨今の電卓程度だったそうです。

さて、ひとみが引っ越してから、二年以上経った頃、ひとみの祖母が亡くなった。この人は、すでに他界している、ひとみの父親の母で、葬儀のため、ひとみは母親と一緒にバスで上京することになった。葬儀の後、母親は他の用事があったので、ひとみは、東京駅で富井と二時間程会うことが出来た。
「ひとみさん、その黒い服を着ていると、もう、立派な大人だね」
「そう? きみだって、背も高くなったんじゃない? でも、わたしたち、これから、どうなっちゃうんだろう?」
母親と合流し、ひとみがバスに乗り込む時、二人は手も触れずに別れた。

二人が離れ離れになってからの三年半程の間に会ったのは、この三回だけだった。それでも、毎年、富井の誕生日には、ひとみからカードが届いた。そして、いつも、「また、きみに、はまぐりの酒蒸しを作ってあげたい」と書いてあった。

10.スーパーの買い物客

また新しい学年が始まろうとしていた頃、ひとみは、相変わらず石塚のスーパーのレジ係として働いていた。夕刻、次の買い物客の手元を見ると、水のボトルを一本だけ買おうとしている。ひとみは、「いらっしゃいませ」と挨拶して顔を見た時に、ものすごい驚きと喜びに包まれた。確実に大人っぽくなってはいたが、それは、間違いなく富井だった。ひとみは、抱きつきたい気持ちを抑えながら言った。
「きみ、こんなところで何してんの?」
「なんにも」
「嘘でしょ。まだ、わたしのことが気になってるの?」
「うん。気になっている。ずっと気になってる」

ひとみの動作が中断してしまったので、次に並んでいた客がしびれをきらして声を出した。

「あの〜、早くレジ済ませてほしいんですけど!」
ひとみは、我に返って、返事をした。
「あっ! すみません。すぐにします」
ひとみは、今度は、富井の方を向いていった。
「わたし、あと30分くらいでシフトが終わるから。そうだ。きみ、ちょっと、お客さんの袋詰手伝って!」

シフトが終わると、ひとみと富井は連れ立ってスーパーを出た。
「わたし、ず〜っと、夢見ていたんだなぁ、いつかこういう日が来るんじゃないかなぁって。きみが、急に現れて、わたしをどこかに連れて行ってくれるんじゃないかなぁって」
「そして、その、どこかなんだだけど……。え〜と、ぼく、茨城大学に入ったんだよ! そして、大学のそばに、一部屋なんだけど、アパートを借りたんだ!! 今日のことだよ。そこに、ひとみさんを連れていきたいんだ!」

あまりに急の展開で、ひとみには、ポカンと口を開けて富井のことを見つめ続けていた。そして、やっと、状況を理解すると、富井に抱きついた。
「ほんとに?! きみ、ほんとに、わたしのこと、迎えに来てくれたんだね! 嘘みたい!!」
「うん。たった今、このまま、ぼくのアパートに来て……、そして、ずーっと一緒にいてくれる?」
「うん、うん! 一部屋だって、何もなくたって、きみと一緒にいられればいい!!」

二人は、バス停まで来ると、しっかりと寄り添ってバスを待った。ところが、時刻表に書いてある時間になってもバスは来ない。その時、急に、ひとみがためらいながら言った。
「え〜と、ちょっと気になってきたんだけど……。きみ、浮気しなかったでしょうね?」
あまりに思いがけない質問に、富井は戸惑った。
「えっ? その〜」
富井は、真正面を向いたまま、ひとみの方を見ない。
「したのねっ?! きみの顔にそう書いてあるよ!!」
「その〜、デートをしたことはあるんだけど……。何でもないよ」
「まさか、あの、バレンタイデーの子?」
「あ〜。うん。ひとみさんが引っ越してしまったことを知っていて、それからも、毎年バレンタイデーにチョコレートをくれたんだ。それで〜、実は、その子も同じ高校に……」

ここまで言った時に、ひとみは明らかに怒っているような顔つきになった。
「きみっ! 今まで、わたしに、そのこと、一言も言ってなかったよねっ!!」
「だって〜、関係ないと思ったんだよ。ほんとに、何でもないんだよ。同じ高校だから、電車で一緒になったりしたんだけど、それで、あまりにしつこいから、仕方なく、何回かデートしてみたんだけど。その子のことは、嫌いじゃなかったんだけど……、でも〜、やっぱり、ぼくには合わなかったよ。どうしても、ひとみさんのことが忘れられなくて! それで、その子に、はっきり言ったんだ。そうしたら、案外ケロッとしていて、『あなた、ほんとに彼女のことが好きなのね。分かったわ。それだったら、私、しょうがないけど、諦めるわ。そして、あなたと彼女のこと、応援するわよ。うまく行くといいわね』だって。それで、おしまい。だから、こうやって来てるんじゃない」
「まぁ、そう言われれば……。じゃぁ、目をつぶるから」
ひとみはほんとに目をつぶった。

富井は、しばらくひとみの横顔を眺めていたが、今度は自分が不安になってきた。
「ねぇ〜、もしかして〜、ひとみさんは、浮気してないよね?」
ひとみは目をパチっと開けて、「ん〜」と言ったが、真正面を向いたままで、富井の方を見ない。
「えー、もしかして、浮気しちゃったのぉ?!」
ひとみは、富井が泣きそうな顔になったのを見て、少し慌てた。
「そんな情けない顔しないでよ。浮気なんかじゃないんだから。ほんの少しの間、お付き合いしただけなんだから」
「えー! お付き合いしちゃったのー?!」
「ちょっと〜。中学一年生の頃みたいな言い方しないでよ。大丈夫なんだから。実はね、例の英会話教室なんだけど、ある時、珍しく若い男の人が入ってきたの。それで、その人、わたしを、車で食事や買い物に連れて行ってくれたの。わたしとしては、大変ありがたかった訳なんだけど、別に、その〜、それ以上の感情はなかったんだから。それで、ひょっとして、わたし、その人のことを利用しているだけじゃないかなって思い始めたの。それは、悪いことだよね。それで、わたし、はっきりと言ったの。きみのことも話したよ。そうしたら、ずいぶんと悲しそうな顔をして、『実は、結婚したかったんです』とか言われちゃって。ちょっと、気の毒には思ったんだけど、結局、その人、諦めたの。そして、『お幸せに』って言ってくれた。それからは、その人、英会話教室には全く来なかった」

富井は、納得したようだった。
「ふ〜ん。そうだったの。確かに、その人、ちょっとかわいそうな気もする」
「わたし、その人はいい人だとは、思ったんだよ。もし、きみと知り合っていなかったり、きみが他の人のことを好きになってしまっていたら、わたし、その人ともう少し付き合っていたかもしれない」
「そうなの? ひとみさんが、他の人と一緒になるなんて、考えただけで辛いけど」
「そんなこと考えないでいいよ。あり得ないから。それより……、わたし達の、これからのことを考えたいんだから」

それで、二人は、どうやら、お互いさまと思ったようだ。落ち着いたところで、富井が口を開いた。
「なんだか、バス、来るか来ないかわからないね。いっそのこと、歩いていこうか?」
「えっ?! でも、水戸までかなり遠いけど」
「うん。でも、一時間か、二時間か歩けば、着くと思うよ。い〜や、一晩掛かったって、ぼく、ひとみさんと一緒に、歩きたいんだ。ずっと、ずっと、一緒に歩いて行きたいんだから」
「うん! わかった。きみと一緒だったら、わたしも、どこまでも歩いていく!」
「そして、もし、ひとみさんが疲れちゃったらね、ぼくが抱っこしてあげるから」
「えーっ! 大丈夫? わたし、結構重いんだけど」
「どんなに重くても大丈夫。ぼく、前より体格良くなったから」
「そうかもね。でも、ちゃんと確かめないと。きみのアパートに着いたらまず身体検査しないと。もう、長いこと怠っていたことだし」

二人は、ひたすら歩き続けて、やっとアパートにたどり着いた。そして、富井がドアを開けた時、ひとみが富井の耳元で、はぁはぁしながらささやいた。
「きみ……、わたし疲れちゃったんだけど……、抱っこしてくれる〜?」
当然、富井も疲れ切っていたのだが、ない力を振り絞って、ひとみを抱きかかえた。そして、よたよたしながら、なんとか、ひとみを担ぎ込んだ。二人にとっての、新たな『ひとみの部屋』に。

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【この小説はフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。】

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