弥生人の起源に関する謎:遺伝子・言語・稲作

— 歴史思索 —

O. Guy Morley (協力: 重衣 奏多)

2022年6月4日

要約:このエッセイは最近の研究に基づいた仮説から始めて、日本の弥生時代の起源について、遺伝子、言語、そして、稲作の観点から展望するものです。

記:この文章は、2022年5月22日現在の原文 “Mysteries Surrounding the Origin of the Yayoi People in Japan: Genetics, Language, and Rice Farming” に基づいていますが、直訳ではありません。また、原文は改訂の予定がありますが、この文章には、若干の修正の可能性以外は改訂の予定はありません。


はじめに

古代日本史は多くの謎に包まれています。例えば、日本人と日本語の起源は共に、さかんな議論の的になっています。 その話題の一つに、弥生人の起源があります。一万年以上前に日本列島にやって来た縄文人に加わり、約3000年前から、第二の渡来人の波がありました。そして、縄文人と渡来人の混血の結果新しく誕生した弥生人が現在の日本人の直接の祖先と言われています。さて、本当でしょうか?

最近の研究の進歩はめざましいので、まず、Robbeets他 (2021)の論文を基に、仮説を立てて見ました。その後、慎重にその仮説を検討してみることにします。

仮説:今から約9000年前、現在の中国東北部の南部、西遼河流域に、キビ等の雑穀を主とする農耕民族の文化が生まれました。農耕の発展と共に人口が増えると、この民族は居住地とその言語を周囲の地域に広げていきました。その中の一部は南方へ移動し、約6500年前に、二つの集団に分かれました。一方が原韓系の人種、他方が原日系の人種で、共に朝鮮半島方面へ向かいました。約3500年前、原日系集団は、山東半島と遼東半島を経由して来た水稲栽培文化を携えた中国系の集団と出会います。そして、約3000年前から、原日系集団の一部は、水稲栽培を携えて日本列島に到達し、弥生人を形成します。 [参考画像: https://www.nature.com/articles/s41586-021-04108-8/figures/4]

ところで、Robbeets他の研究はトルコ系、モンゴル系、ツングース系、韓系、日系を含むトランスユーラシア語族(アルタイ語族とも呼ばれる)の起源と伝播が議論の中心です。ただし、この文章では、日本人と関連のある部分に話題を絞っています。

かつては弥生時代の始まりを約2300年前(紀元前約300年)としていた向きがありますが、最近の研究は一貫して、約3000年前となっています (Robbeets et al., 2021; Cooke et al, 2021; Leipe et al., 2020等)。

尚、この文章は、出来る限り出版された研究結果を基にしてはいますが、一部の研究をそのまま受け入れた個所や、筆者の想像を記述した部分があります。いずれにしても、これは研究論文ではなく、歴史についての単なる「思索」なので、その点は了承して下さい。

朝鮮半島での中国系集団と原日系集団の出会い(前半)

さて、前述の仮説は、西遼河流域の雑穀農耕民族の一部、原日系集団が南下の後、約3500年前に朝鮮半島で中国系集団と出会い、原日本系集団が中国系集団の導入した水稲栽培を携えて日本列島に渡来したことになっています。ただし、この記述にはかなり曖昧な部分があります。例えば、実際に水稲栽培を朝鮮半島に導入した中国系集団はどうなったのでしょうか? 原日系集団と共に日本列島に来たのか、混血して新しい人種となったのか、あるいは、中国系集団は朝鮮半島に残ったのか、いろいろと可能性はあります。

そこで、まず最近の遺伝子の研究 (Cooke et al., 2021) を参照してみます。九州の遺跡から発掘された弥生人の遺伝子は当時の縄文人と渡来人の混合である事は間違いありませんでした。ただ、この渡来人の部分なのですが、西遼河流域とアムール川流域からの遺伝子しかなく(西遼河流域の農耕民族には当初からアムール川流域の遺伝子があったようです)、黄河流域および揚子江流域など、中国系集団のものと思われる要素はなかったのです。この点を踏まえると、朝鮮半島の中国系集団は、朝鮮半島に居残り、原日系集団が単独で日本列島に来たと見られます。なぜでしょう? さらに、そうだとすると、原日系集団はどうやって中国系集団から水稲栽培を学んだのでしょうか? これらの点にについてはまた後で考えることにします。

さて、ここに取り上げた遺伝子の研究について少し言及する必要があります。この研究では、弥生人の遺伝子は、二体だけからしか入手していないのです。つまり、この二体が本当に当時の弥生人を代表しているかどうかと言う疑問は残ります。その一方、その当時の渡来人に、原日系のみで中国系の遺伝子がない人々が存在したと言う証拠にはなります。いずれにしても、疑問は残るわけですが、この文章では、この遺伝子研究をそのまま受け入れて話を進めることにします。

今度は、言語について考えてみます。先の仮説では、原日系集団の言語(日本祖語)は、約9000年前の西遼河流域の雑穀農民の言語(トランスユーラシア祖語)から派生したと想定されています。そして、上記の遺伝子研究で示されたように、当時日本列島に渡来したのが原日系集団だけで、中国系集団は含まれていなかったとしたら、原日系集団は、日本祖語をそのまま日本にもたらしたと思われます。また、原日系集団と縄文人との関係ですが、農耕文化を持つ原日系集団が縄文人を圧倒した事はほぼ間違いありません。また、両集団は混血して弥生人を形成しつつも、言語的には、日本祖語が現在の日本語の基幹となった事は確実と思われます。これは、スペイン人がメキシコを統括していった過程を思い起こさせます。スペイン人は、スペイン語をメキシコのほぼ全土に広めた一方、その多くは在住のインディオと混血していったという状況です。いずれにしても、縄文人は次第に日本列島の北端に追いやられ、その言語を保持しつつ、アイヌ語を話すアイヌ人としてその存在を継続したと思われます。この点も、メキシコのインディオの状況を思わせます。

尚、Robbeets他の言語学的な検証によれば、基本語彙を比較すると、日本語と他のトランスユーラシア語族の言語とは約9000年前に分岐、韓国語とは約6500年前に分岐した事が説明できる様です。因みに、インド・ヨーロッパ語族の祖語は約5500年前に遡ると言う事を考えれば、日本語と他言語はそれよりも以前に分岐しており、類縁関係を実証するのは極めて難しいと言う事がよく分かります。それで、日本語は、アルタイ語族との関連を最も強く想定されながら、孤立言語とも言われた訳です。

さて、ここで、中国系集団と原日系集団の言語の関係について考えてみます。中国系集団はシナ・チベット系の言葉(主に中国北部)か、オーストロネシア系の言語(主に中国南部以南)か、その混合した言語を話していたと思われます。もし、朝鮮半島で中国系集団が原日系集団を制圧して、原日系集団の言語を中国系の言語に置き換えてしまったとします。すると、原日系集団が日本列島に渡来した時には、この中国系の言語を日本にもたらしたと言うことになります。その場合は、この言語が現在の日本語の基幹になったはずです。ただし、この可能性はほぼないと思われます。それは、言語学的に現在の日本語がシナ・チベット系あるいは、オーストロネシア系の言語を基幹にしていると言う主張が強い支持を受けていないからです。もっとも、その様な主張は、幾つか似ている単語がある程度の「発見」に基づいている場合が多いようですが。

ここまでの遺伝子と言語の両観点を踏まえると、これまでの見方は、原日系集団がその遺伝子と日本祖語を日本列島にもたらし、弥生人の形成の中心的役割を果たしたと言う事です。次の疑問点は、どうして、稲作農耕を導入した中国系集団が朝鮮半島に居残り、原日系集団のみが稲作農耕を携えて日本列島に渡来したかと言う事です。この点を検討するため、中国系集団の稲作について手短に調べてみることにします。

稲作の伝播

様々な文献 (Qin & Fuller, 2019等) にあるように、稲作は、揚子江流域で、陸稲、水稲の順に始まりました。中でも、水稲栽培は極めて手間がかかり、灌漑技術も必要とします。そのためには、どうしても、比較的多くの人口と、その人々がうまく協力して働ける様な組織が必要になります。その様な状況は、普通、人口増加に結びつき、その地域から人口が放出すると言う事は考えられません。それに、努力の末に整備した水田を簡単に手放す事は出来ません。つまり、稲作農民は、切迫した事情がない限り、他の地域に移動したりしないと思われます。

しかし、揚子江流域の水稲農耕農民には、流出せざるを得ない理由が出来たに違いないのです。これには、少なくとも二つの事項が考えられます。一つは、約4000年前、壊滅的な気候変化が生じ、水稲農地が破壊され、当時の文明が滅びたと考えられています (Haiwei et al., 2022)。さらに、この気候変化は、黄河流域の漢民族を南下させ、揚子江流域の住民を押しやることにもなったと推定されています (Yasuda, 2013)。当然、この二つの事項は関連しています。ただし、もし水田の破壊だけであったら、それを復興する事は可能と思われますが、他民族に取られてしまった土地を取り返す事はより困難に思えます。それで、ここでは、後者の理由が決定的であったのではないかと想像出来ます。

いずれにしても、揚子江流域からあらゆる方向に避難農民が流出することになったのでしょう。さて、可能性の一つとしては、一部の農民が船団を組んで日本列島にやって来たと言うものです。しかし、この説にはかなり無理があります。貧しい農民が長旅のための大きな船団を工面できるでしょうか? この点について、Qin & Fuller (2019) の研究の題名、『どうして稲作農民は航海をしないか』と言うのは的を得ているのではないかと思います。それでも、支配者階級は物資と、そして、もちろん稲を持って日本列島にやって来た可能性があります。

実際、その様な説は、複数の日本語の書籍、新聞記事 (The Japan Times)、多くのウェブサイトに紹介されていますが、支持される様な研究論文はほとんどないのが 実情です。尚、この説の賛同者は工芸品、人骨、遺伝子等についての情報を基に主張をしています。しかし、もし、この航路経由の渡来人が弥生人の主流だったとすると、彼らが縄文人を圧倒して、彼らの言語が弥生人の言語の基幹を形成することになるのではと思われます。しかし、この頃の揚子江流域の言語はシナ・チベット系、オーストロネシア系、あるいはその混合であったはずです。先に述べたように、これらの言語が日本語の基幹になった可能性は少ないのです。つまり、ここでは、その様な航路が存在した可能性を否定する訳ではありませんが、その影響力は朝鮮半島経由で渡来した原日系集団と比べ物にはならなかったと見られます。

さて、揚子江流域を出て、陸路で避難中の水稲農民に話を戻します。この中には、おそらく黄海沿いに北へ向かったグループがあったはずです。そして、この頃は、黄河流域の漢民族にとっても困難な時代だったに違いありません。彼らは、西方からの侵略にあったようですし、彼らの国々自体、多くの変容を繰り返していた模様です。そんな状況では、揚子江流域からの避難農民を攻撃した可能性もあります。同時に、この期間に、黄河流域の人々と、揚子江流域から来た農民が混血した可能性も十分あります。その結果、避難農民は、中国南部民族と北部民族と両方の遺伝子を持つことになったと想像されます。

いずれにしても、揚子江流域からの避難農民は一箇所に落ち着く事は出来なかったのかも知れません。また、その様な状態にあっては、それほど手間のかからない陸稲栽培を活用していた可能性もあります。そして、北部の、より寒冷な気候でも栽培出来るように稲を改良していったはずです (Leipe et al., 2020等)。そして、最終的には、約3500年前に、避難農民の少なくとも一部が朝鮮半島に到達したと見られます (Robbeets et al., 2021)。

朝鮮半島での中国系集団と原日系集団の出会い(後半)

ここで、朝鮮半島の話に戻りますが、まず初めに、原日系集団が朝鮮半島に到着した後、まだ中国系集団が到着する前、約6500年前から約3500年前の間の事を書きます。その頃の朝鮮半島には、日本列島に渡らずに残っていた縄文人の一部が居ました (Robbeets et al., 2021等)。原日系集団と縄文人は暫くの間、問題なく共存していたと思われます。ところが、原日系集団の雑穀農耕が広がるに連れ、縄文人の狩猟地域に影響するようになりました。最終的には、縄文人は自分たちの狩猟採集生活が出来なくなり、原日系集団に取り込まれることになります (Kim & Park, 2020)。ただし、原日系集団と縄文人との出会いと同化は、長時間に及ぶ、比較的平穏なものだったと予想されます。

これに対し、中国系集団と原日系集団の出会いは、かなり性質の違ったものだった様です。揚子江流域に基を発した中国系稲作農民は、黄河流域の民族とも絡み合ってきました。そして、中国各地で複雑な政治情勢を経験し、やっと到着した朝鮮半島では、即刻、自分たちの安住の地を確保すべく、その地域の統治に全力を尽くしたのではないでしょうか。そして、現地の気候にあった稲を作るための品種改良にも力を入れたことでしょう。また、新天地の開発には人力も必要なので、すでにいた原日系集団を駆り集めた可能性があります。

それまで、比較的ゆっくりとしたペースの生活をしてきた原日系集団は、中国系集団の到来を予期していなかったはずです。急に中国系集団に支配されて、過酷な稲作農耕をさせられると言う様な状態には全く準備が出来ていなかったと思われます。

それで、原日系集団は、稲作農耕を身につけながらも、そこから逃れたいと言う願望もあったと想像できます。そして、約3000年前から、一部が、実際に朝鮮半島を脱出して、日本列島へやって来たと思われます。彼らは、朝鮮半島ですでに縄文人を統合した経験があるので、日本列島に来てからも、同様に縄文人を統合していきました。それに、この時までには、稲作農耕を身につけていたし、それ以上に、中国系集団のように権力を持つ事が重要だと考え始めていたのでしょう。朝鮮半島で中国系集団がしたように、今度は、日本列島で原日系集団が権力を持つようになっていったのです。

そういう訳で、中国系集団は、朝鮮半島に居残り、せっせと新天地の開発に力を入れ、同時に、そこを抜け出した原日系集団の一部が日本で弥生文化を築き上げることになると言う訳です。これで、一応、朝鮮半島での疑問点は解消したことになります。ところで、原日系集団の一部は朝鮮半島にまだ残っていたと思われます。

ここで、Leipe他 (2020)の研究をもう少し見てみます。この中で、約3200年前に日本の中央高原地帯(現在の長野県)での稲作の形跡が発見された事が記述されています。これは、それまで九州で発見されていた約3000年前の九州での稲作よりも古く、今まで文献で確認されたなかで最古の日本の稲作となります。この点について、この研究の著者は、二通りの可能性を掲げています。一つは、縄文人が朝鮮半島まで出向いて稲を持ち帰ったと言う説で、もう一つは、朝鮮半島からの移民があったと言う説です。もし、稲作が朝鮮半島とは少し離れた長野県付近で始まったとしたら、興味深いものです。只、この文章では、この点については、ここまでで止めておきます。尚、岡山県で、それよりも更に数千年前に稲作がされていたという説も有るようですが、確証されてはいない様です。

さて、これで弥生人の起源についての一応の決着が着いたと思われるかも知れませんが、実は、先に参照したCooke他の遺伝子の研究には、もう一捻りあるのです。渡来人の第三波があると言うのです。その時期は、ほぼ古墳時代(紀元300〜600年頃)の頃に当たるので、著者たちは、この渡来人と弥生人の混血の後に形成した人種を古墳人と呼んで、弥生人と区別しています。そして、ここで肝心な事は、古墳人の遺伝子は弥生人とはかなり異なるが、現在の日本人とは大きな違いがないと言う事です。とすると、現在の日本人の直接の先祖は、いわゆる弥生人ではなく、この古墳人だと言うことになります。つまり、日本人には、弥生時代以降の渡来人の遺伝子がかなり多く入っていると言うことになります。

渡来人の第三波と古墳人の形成(前半)

Cooke他によると、古墳人は弥生人の遺伝子を40%以下受け継いでいます。残りは、なんと中国系で、北部の黄河流域と南部の揚子江流域の両方の遺伝子が混合している様なのです。[参考画像: https://www.science.org/cms/10.1126/sciadv.abh2419/asset/dc168d0c-ac66-4022-a775-c10f208b0a7d/assets/images/large/sciadv.abh2419-f6.jpg]

すぐに思いつく事は、それまで朝鮮半島に残っていた中国系集団の一部が、1000年以上遅れて日本に来たと言うものでしょう。先に見たように、彼らは中国の南部(揚子江流域)と北部(黄河流域)の人種の混血に違いありません。

ところで、現在の日本人に中国南部からの遺伝子があると言う事は興味深い点です。特に、稲作が揚子江流域から航路で直接日本に伝わったと主張する人々は、この点をその根拠にする事があります。しかし、先に書いたように、この主張には、言語学的に大きな問題があります。それに対して、今まで見てきたように、稲作と揚子江流域の遺伝子が別々に日本にやって来たと言う事自体に問題はありません。

しかし、どうして、この時期になって、中国系集団が日本に来たのでしょうか? 彼らは、朝鮮半島で満足していたのではないでしょうか? この点について、先に書いた事を思い出す必要があります。稲作農民は、切迫した理由がない限り、敢えて移動しないはずだと言う事です。すると、何かしら彼らが移動しなければならない理由が出来たと考えるのが自然です。この点に関しては、朝鮮半島の歴史が役に立ちそうです。そして、この頃までには、中国語での記録が残されるようになっているのでそれを参考にすることにします。ここで推測できる事は、高句麗、百済、そして新羅の三国間の戦争が移動を促したのではないかと言う事です。

朝鮮半島での政治情勢

さて、朝鮮半島の三国時代に話題を移す前に、それ以前の朝鮮半島について少し調べてみます。Kim & Park (2020) の研究によると、朝鮮半島南部の人口は約2700年前から減少を始め、約2300年前から約2000年前までの間は、ほとんどなくなるほど少なくなっていると言うのです。そして、この時期に、はっきりした気候変化などの理由は見つかっていない様なのです。彼らは、この頃の九州北部での人口増加を関連付けて、この時期に朝鮮半島南部から九州北部に民族の大移動があったのではないかと推測しています。[参考画像: https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20200501184034985-0813:S2513843X20000134:S2513843X20000134_fig3.png]

しかし、ここでは、もう少し、この点を吟味してみます。まず、約2700年前から約2300年前までの人口減少は、時期的に見て弥生人の形成時期です。つまり、原日系集団が、中国系集団の支配を抜け出して日本に来た頃で、それが人口減少の原因であったかも知れません。それに対して、その後の約2300年前から約2000年前の間の極端な人口減少は、中国系集団が関連していると考えざるを得ません。つまり、何らかの理由で、彼らが消滅したか、あるいはどこかに移動してしまった様な形跡があるのです。それで、この中国系集団も、この時期に日本に移動したと言う説を完全に拒否する事は出来ません。ただ、Cooke他 (2021) の遺伝子の研究によれば、中国系の人々が渡来したのは、古墳時代、つまり、約1700年前からなので、それには、まだ早すぎます。そこで、朝鮮半島南部の中国系稲作農民の行方について推測してみます。

まず、約3000年前まで時代を遡ります。この頃から、朝鮮北部でいろいろな政治的変化が起こっていたようです。その中心は、その地での最初の王国、古朝鮮が形成されつつあったと言う事です。そして、それは、約6500年前に原日系人種と分岐した原韓系人種の国と考えられます。そして、彼らは、ツングース系民族と接触していたはずで、馬を含めて家畜を使うすべを会得していたと思われます。

その後、古朝鮮は力を増し、勢力を南に拡大していきます。約2300年前までには、朝鮮半島の南部で、中国系集団及び居残り組の原日系集団と接触することになります。この頃には、半島南部に辰と言う国が形成されていたようで、その主力は中国系人種と思われます。

ちょうどその頃、漢王朝は古朝鮮を攻撃し、約2100年前までには古朝鮮を占領しています。すると、その頃、古朝鮮の人々は辰に逃げた可能性も有ります。これが、辰の人々にどの様な影響を与えたかは、定かではありません。ここで、少し突飛なシナリオを想像してみます。漢王朝が古朝鮮を攻撃した時に、漢王朝は朝鮮半島南部の辰にいた中国系集団を古朝鮮の占領していた北部に移住させたと言うものです。それは、単に中国人で中国語を話すと言う理由で、古朝鮮に圧力をかけると言う思惑であったかも知れません。もしそうだとすると、朝鮮半島南部の人口が急減した事と関連付けられます。逆に、今まで中国系集団の居た朝鮮半島南部地域が空白地帯となります。それで、その時に、北部の古朝鮮から逃れて来た原韓系の人々や、さらに、中国本土から山東半島と遼東半島を通って、新たに中国系の移民が来た事も考えられます。また、朝鮮半島北部に移動させられた中国系の人々の一部も、半島南部に戻ってきたかも知れません。いずれにしても、朝鮮半島南部の人口は、約2000年前から再び増加の傾向をたどります。

まだ漢王朝が朝鮮北部を占領している頃から、今度はそれより更に北に位置していた高句麗が力を増し、仕舞には漢王朝を追い出します。約1700年前までには、高句麗は朝鮮半島北半分を含めた広大な領土を確保しています。そして、高句麗の強さの秘訣の一つは、馬の利用だったかも知れません。それは、たとえ農耕・運搬用で、まだ戦闘には使われていなかったとしても、人力のみの場合と比べれば相当な影響力があったと思われます。この点に関して言えば、いずれはモンゴルに騎馬民族の帝国が生まれ、中国を脅かすことになります。尚、高句麗の人々も、古朝鮮の人々と同系で、原韓系人種が祖先と思われます。そして、約2000年前には、辰は、南西部の百済と南東部の新羅に置き換わりました。これで、高句麗、百済、新羅の三国が揃うことになります。[参考画像: https://www.worldhistory.org/img/r/p/500×600/5790.jpg]

ここまでのシナリオを踏まえると、百済は中国系の農民と原韓系の支配者階級、新羅は主に古朝鮮からの原韓系人種で構成されていたと思われます。この図式は簡単すぎるかも知れませんが、インターネット上で得られる情報と大きく異なるとは思えません。さて、この他にもう一つ、百済と新羅の間に、伽耶と言う国もあったようです。そして、ここは、原日系人の最後の砦であった可能性もありますが、後に新羅に吸収されることになります。

朝鮮半島での三国間の関係は複雑でした。しかし、最終的には、百済は西暦660年に、高句麗は西暦668年に、共に新羅に滅ぼされました。百済の崩壊に前後して、中国系の農民の多くは日本に逃れたと思われます。これが、古墳人および現在の日本人の中国系の遺伝子(南部と北部を含めて)の出処であると考えられます。稲作の到来から1000年以上も経ってから、揚子江流域の稲作農民の遺伝子が日本に伝わったとになります。また、百済の支配者階級と高句麗の人々も日本に逃れたと言われています。これらの人々は、原韓系ですが、遺伝子的には、原韓系も原日系も極めて近いので、極端に異なる遺伝子が入ってきた訳ではありません。また、新羅は他の二国を吸収したわけですが、新羅からも日本に多数の移民があったと言う記録があります。

渡来人の第三波と古墳人の形成(後半)

そして、第三波の渡来人が来る頃までには、日本でも中央政権が出来ていました。朝鮮半島で中国集団と出会ってからの長い経験から、日本の支配者階級は、移民の取扱には非常に気を使っていたはずです。とくに、この頃の移民は、在住者の人口を上回ったと想定されるので尚更です。それでも、日本の支配者階級は、様々な経歴の移民をうまく利用する手はずを理解していたと思われます。彼らは、発展しつつある日本の統治を継続する事が出来ましたし、古日本語を国家の言語として保持し続ける事が出来たのです。これは、植民地時代以降、アメリカ合衆国成立後の状況と類似点があります。つまり、当初のイギリス系移民は、後から来た非英語系の移民をうまく利用しつつ、英語を共通語として保持する事が出来たと言う事です。

農耕に関しては、中央政権は人手が増える事を歓迎したに違いありません。水稲栽培は手間がかかるし、この頃までの日本では、まだそれほどの収穫を出来ていたとは思えません。米の利用について言えば、それまでの主に儀式用の利用から、徐々に実際の食用に使えるようになっていったと思われます。それに、一般的には、農民を支配する事はそれほど難しくなかった事でしょう。

中央政権は、支配者階級の移民もうまく取り扱っていたようです。様々な記録を作成しり、高度に発展しつつあった祭儀を取り扱う事の出来る官吏が必要とされていたので、その点では好都合でした。建築、灌漑、交通と、経験の豊富な技術者や職工も必要でした。加えて、主に高句麗方面からと思われますが、馬とそれに関する様々な技術も持ち込まれました。この頃、馬が大変重宝されていた事は確実です。高句麗の別名、高麗とその変形、駒や狛などの漢字が馬と関連付けられて地名、神社名等に使われたのもそのためと思われます。

尚、中国系、韓系の移民の中には、政治・文化に影響を与える様な高い地位に着く人々も現れた事と思います。それでも、日本での古日本語の立場はすでに確立していと思われます。そのために、外国語の借用語等、影響はあっても、日本語の基幹が変わってしまうと言う事はありませんでした。

また、中央政権の策略の一つには、移民を、当時まだ開発の進んでいなかった日本の東国に配置すると言う方法がありました。そして、移民の力が増してきた場合の対策と言うものもあったと思われます。例えば、千人単位の移民を辺鄙な過疎の土地に移動させたりと言う事もありました。しかし、その様な場合、その土地のリーダーに、形式的な高い位を与えたりした様です。また、宗教関係者や官吏等の位の高い移民の影響を抑えるためと思われますが、そういった人々を一箇所に集めて、管理していた事もあるようです。今でも、武蔵国の高麗郡(現在の埼玉県日高市周辺)や新羅郡(現在の埼玉県新座市周辺)についての記録が残っています。

いずれにしても、この時期までの日本は、遺伝子的にも、文化的にも大陸の影響を強く受けてきました。まず、何万年もの間、日本列島は、大陸の災難を逃れて来た人々が最終的に落ち着く場所であった訳です。この間、まず、縄文人が住み着き、渡来人の第二波(原日系人)が縄文人を取り込んで、弥生人を形成し、ここで、日本独自の統治体制が生まれました。そして、渡来人の第三波(中国系および韓系移民)が来てから、古墳人が形成されましたが、言語を含めて、日本の原形を留めました。

さて、当時の日本の中央政権は、アジア圏で、第二の大国になろうと言う野心があったと思われます。その頃は、強力な中国を追い抜く事は想像にもよらない事でしたが、せめても朝鮮は追い越したいと言う野心があったようです。ただ、この野心は、日本の近代史で、とんでもない展開をすることになります。

おわりに

さて、この歴史思索のまとめとして、初めに取り上げた仮説を補足改定します。

改訂版仮説:今から約9000年前、現在の中国東北部の南部、西遼河流域に、キビ等の雑穀を主とする農耕民族の文化が生まれました。農耕の発展と共に人口が増えると、この民族は居住地とその言語を周囲の地域に広げていきました。その中の一部は南方へ移動し、約6500年前に、二つの集団に分かれました。一方が原韓系の人種、他方が原日系の人種で、共に朝鮮半島方面へ向かいました。約3500年前、原日系集団は、山東半島と遼東半島を経由して来た水稲栽培文化を携えた中国系の集団と出会います。原日系集団は、中国系集団の支配下で働き、水稲栽培を学びます。そして、約3000年前から、日本祖語に加え、水稲栽培を携えて日本列島に移住し初め、縄文人と混血して、弥生人を形成します。その後、約1700〜1400年前の古墳時代前後には朝鮮半島の三国間の争いに巻き込まれた中国系及び韓系の人々が多数日本に渡来し、弥生人と混血の後、古墳人を形成します。只、この頃の日本の中央政権は、渡来人の文化と技術を利用しつつも、弥生人の築いた日本の国をそのまま発展させました。そのため、渡来人の中国語や韓国語は、日本語を脅かすような影響は与えませんでした。このようにして、古墳時代に、現在の日本人の遺伝子構成と日本語の基礎が確立したのです。

追記A:Robbeets他 (2021)についての見解

この研究は確かに興味深いものだし、よく検証されています。それで、この研究の大筋について反論するつもりはありませんし、この文章を書くにあたっては適切な出発点だったと思います。しかし、それでも、若干の点について言及しておく必要はあります。

まず、ごく基本的な言語データを除いて、トルコ系関連の議論は微弱です。次に、西遼河川流域とモンゴルの民族の遺伝子の関連は、Wang他 (2018) に反論されています。

第三に、Kim & Park (2020) は、Robbeetsの以前の論文についてですが、Robbeetsの農耕・言語分散説について反論しています。この点は、すでに書いた事ですが、朝鮮半島での雑穀農耕の到来と稲作農耕の到来時の比較を基にした議論です。

朝鮮半島での原日系人集団の雑穀農耕の導入と縄文人との接触はゆっくりとしたものでした。それに対して、中国系集団の稲作導入と原日系人集団の接触は急速なものでした。Kim & Parkによれば、Robbeetsの農耕・言語分散説では、この二つの農耕導入時の質的な違いを説明する事が出来ないと言うのです。確かにこの議論には納得するものがあり、Kim & Parkの説の一部は、この文章にも取り入れられています。

追記B:日韓古代史の関連

ここでは、この文章の中に登場した古代の日本と韓国の関連についてまとめてみます。よく韓国人や日本人の起源はどこかと言う質問がなされます。共に中国東北部だとか、揚子江流域方面だとか、日本人の場合は、チベット高原方面だとか言われる事があります。ある意味では、これらすべてに正しい面があるとも言えますが、厳密には、すべてが間違いであります。おそらく、現時点で最も納得の出来そうな答えは、この文章でも見てきたように「複数」あると言うものでしょう。まず、日韓の共通点は、共に、(1)西遼河流域とアムール川流域の古代人の遺伝子がある(約9000年前)、そして、(2)揚子江流域と黄河流域を含む中国各地方(約3500年前以降)の遺伝子があると言う事でしょう。当然、日韓では若干分布が異なりますし、両国内でも地域差があります。

しかし、日韓の一番の違いは、(1)韓国人には、おそらく、追加のツングース系(アムール川流域の系統)の遊牧・農耕民族(騎馬民族に発展する前か)の遺伝子があり(約6500〜2000?年前)、そして、(2)日本人には、縄文人の遺伝子(約30000〜約15000年前)があると言う事です。縄文人の遺伝子の割合は、もはや多くはありませんし、国内でもかなり地域差がありますが、韓日の遺伝子分布を図示すると、一目瞭然で違いが分かる程です。ちなみに、アイヌ人はほぼ100%近く縄文人の遺伝子を持ちますが、この遺伝子は非常に日本独特で、ごく近いものものがチベット高原方面で見つかるだけです。当然、この点だけを取り上げて、日本人の祖先はチベット人だと言う事は出来ないでしょう。

次に、日本語と韓国語の関係について考えてみます。この二つの言語は、おそらく、約6500年前に同じトランスユーラシア祖語から分岐したと推定されます。その後、韓国語は、ツングース系言語と接触しますが、語彙の借用と多少の音韻上の影響を除いて、基幹部分には変化はなかったと思われます。また、日本語は、朝鮮半島で縄文語、そして、何らかの中国系言語と接触しますが、語彙の借用を除いては、基幹部分に影響はなかったと思われます。と言う訳で、日本語と韓国語は基本的には近縁関係にあるが、約5500年前のインド・ヨーロッパ語族の分岐よりも古い時期に分岐しているので、類似性はかなり低いと言わざるを得ません。当然、両言語とも中国語からの借用が多いので、似た単語は相当数有ります。

尚、文化的には、韓国のみがツングース系の遊牧文化の強く影響を受けている可能性があります。おそらく、この点が日韓の食生活の違いに反映されているのではないでしょうか。日本は、東南アジアと太平洋方面との関係を議論されてはいますが、遺伝子的に見ると、韓国の方が、南方の遺伝子が多いとも言えます。これは、一つには、日本人のみに縄文人の遺伝子があり、その他の遺伝子の割合が相対的に少なくなっているためかも知れません。

追記C:琉球人と言語

縄文人は、一万年以上前に日本列島に到達してから、琉球諸島を含む日本全土に居住していました。その後、原日系人種が渡来すると、彼らも各地に広がっていき、縄文人と混血しました。

ただし、琉球諸島の状況は、アイヌ人の場合とは対象的です。まず、アイヌ人は、原日系人種や中国系の遺伝子がほぼなく、縄文人の直系の子孫と考えられます。また、アイヌ語は日本語とは近縁関係が確認されておらず、言語族的に孤立状態です。

それに対し、琉球地方の人々は、遺伝子的には、日本人で、言語についても同様に考えられます。しかし、琉球諸島の地理的状況を反映して、琉球地方の人々は、本土よりも多くの縄文人の遺伝子を持っています。また、琉球方言は、特に、通信・交通の発達する前は、本土の日本語よりも数百年遅れて、本土での変化が伝達していたと言われます。いずれにしても、文化的には、本土から琉球へと言う経路が主流の様です。

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